四、西へそして北へ(伊庭八郎)

 さらに同じ4月12日、榎本武揚による幕府海軍の艦隊を率いての脱走があった。

 それを語る前に、その艦隊に便乗していた一隊について述べておく。それは、幕府遊撃隊である。もっとも、この時の遊撃隊は隊内での意見が合わずに三つの派閥に分裂し、一派は本来の任務である上野寛永寺の守衛を続け、もう一派は彰義隊に合流、そして伊庭八郎や人見勝太郎が率いる最も過激な一派がこの時榎本艦隊に分乗した派閥である。だが後述のとおりにこの榎本艦隊の脱走は未遂に終わり、伊庭と人見ら遊撃隊隊士三十六人は木更津に上陸した。

 伊庭や人見は現在の木更津市に当時あった請西じょうざい藩主林忠崇に決起を促した。当然、先に述べた木更津義軍からも働きかけはあったようだが、林忠崇は遊撃隊の決起催促の方を受けて藩主でありながら自ら脱藩し、藩士七十名とともに遊撃隊に参加を決意した。

 林家は譜代大名で、かつては伏見奉行も務めた経歴を持つ若年寄格の家柄である。

 この時の遊撃隊の作戦は海路箱根に渡って小田原藩とともに箱根の関所を占領し、江戸と京都の脈絡を断って徳川家を再興するというものであった。奇しくも先に述べた木更津義軍の江原大隊の市川・船橋戦争と同じ日に木更津を出陣した遊撃隊は館山藩を説得して、軍艦大江で箱根に渡る。その軍艦を出したのは、脱走をひとまず断念した榎本武揚であった。

 ところが彼らは小田原藩の説得に成功せず、逆に小田原藩兵は官軍に味方して後に箱根の関所付近で遊撃隊と戦うことになる。遊撃隊は一時は関所を占領したが、すぐに奪回され、館山へと逃げ帰った。

 その後、6月には軍艦長崎で東北に至って奥羽越戦争に参戦した林忠崇だったが、9月に仙台藩が官軍に降伏すると忠崇はじめ請西藩兵もまた降伏した。

 林忠崇はかつての藩主でありながらの脱藩行為が新政府の怒りに触れて改易され、戊辰戦争によって改易された唯一の藩となった。だが、この当時の藩主たちの中では忠崇は最も長寿を保ち、昭和16年に死去した時は最後の藩主の死去と話題になったものである。

 一方、伊庭と人見の遊撃隊は8月の榎本艦隊再脱走に再び便乗したが途中の銚子沖で嵐に遭い、乗っていた美加保が座礁して伊庭は銚子に上陸、しばらく横浜に潜伏の後、12月にイギリス艦で箱館に渡っている。

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