第一章 江戸開城と諸隊江戸脱走

一、脱走者たち

 慶応4(1868)年、いわゆる「戊辰」の年の正月は砲声とともに明けた。鳥羽伏見の戦いの勃発である。これに敗北した幕府軍は、将軍慶喜とともに江戸に帰還する。

 箱館戦争を語るに当たって、どこから語り始めたらいいのかということがある。明治元年10月20日の、榎本艦隊の蝦夷地への上陸から始めるのも一つの手だろう。

 だが、江戸よりはるか遠い北の箱館でこれから起こるであろう箱館戦争の萌芽はどこにあったのか、それは箱館軍のメンバーにヒントがありそうだ。箱館軍といっても、蝦夷地土着の箱館の武士が反乱を起こした訳ではない。その構成員の多くは、江戸開城を期に江戸を脱走した連中がほとんどだ。

 そうなると、やはり江戸開城から語り始めねばならないようだ。


 鳥羽伏見の戦いで大敗を喫した幕府軍が将軍慶喜とともに江戸へ戻ったのは、戦いながらの退却ではなく当時幕府が保有していた西洋式軍艦に乗ってであった。

 当時は京都から江戸まで徒歩で2週間くらいかかったが、軍艦だとなんと4日で大坂から江戸に着いてしまう。それを追捕する形で官軍(その実質は薩摩や長州が中心であることは述べたが、ここでは、さらに今後もとりあえず彼らを官軍と呼ぶことにする)は仁和寺宮を征東大将軍とし、東海、東山、北陸の三道に分かれて江戸への進軍を開始した。

 それを迎える幕府のトップの慶喜は、幕臣で陸軍総裁若年寄の勝海舟にその心の内を述べている。

「私は朝廷に対して、叛意などない。鳥羽伏見の件は、私の指令の出し方が間違っていたからだ。思いもかけず朝敵の汚名を着ることになったが、とにかく帝のご聖断を仰いで、これまでの落ち度を謝罪したい」

 つまり、慶喜としては、ひたすら恭順しかなかったのである。

 勝が陸軍総裁になったのは慶喜が大阪より江戸に戻って間もなくの1月23日で、この日の人事異動には幕府という組織を徳川家という一大名に再編し直すという意図があったようだ。

 そしてこの時の人事異動で海軍副総裁になったのが榎本武揚である。榎本といえば幕閣内でも抗戦派として有名で、何をしでかすか分からない危険人物と慶喜は考えていたようで、だからこそ地位を与えて拘束しておこうという意図があったともいう。

 勝といえば逆に慶喜に倣っての恭順派で、とにかくいくさは避けたいというのが彼の願いであった。だから、敵の実質上の大将ともいえる薩摩の西郷隆盛と三田の薩摩屋敷での有名な会合を行い、官軍による江戸総攻撃の中止とそれにひきかえての江戸城無血開城を約している。

 勝も焦っていた。何しろ当時の徳川では、慶喜に同調する恭順派ばかりではない。先に述べた榎本武揚もそうだが、勝の言葉でいえば、

「今の江戸の連中の中には、軍勢を率いて箱根や笛吹で官軍を待ち伏せしようとか、軍艦で大坂を攻撃しようとか言うやつもいる。まあ、みんないろんなこと言うから、なかなか方向性が定まらねえんだよ」

 それらが、勝の悩みのタネであった。勝は鳥羽伏見より東帰した人々の名前を記し、「こいつは抗戦派だ」と勝自身が判断した者にはわざわざ印をつけたりしている。

 その印をつけられた人々は、永井尚志、竹中重固、平山敬忠、設楽能棟、榎本道章、安田作太郎、木城安太郎などである。

 こうして江戸開城直前には江戸城内でも恭順派と抗戦派の桎梏があり、この状況の中から箱館戦争は生まれたといっても過言ではないだろう。徹底抗戦を主張していた抗戦派たちにとって江戸城の無血開城などもってのほかで、それに我慢できずに抗戦派たちは武力蜂起を企てて、官軍が進駐してくるであろう江戸を脱走したというのは自然の成り行きだろう。


 まず、4月11日の江戸城開城の直前に江戸を脱走したのは大鳥圭介のグループ、先述の榎本武揚、そして伊庭八郎、福田八郎右衛門らであった。

 榎本武揚は艦隊を率いて脱走するが、房総の館山に停泊中に勝海舟に追いつかれ、勝の説得でとりあえずは脱走を断念した。

 その脱走者たちの姿を、もう少し詳しく見てみよう。

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