天涯白銀

John B. Rabitan

蝦夷共和国の幻影

序章

落日の中で

 徳川幕府という鎌倉以来の武家政権、そして封建社会という大きな時代が落日の時を迎え、新しい時代が始まろうとしていたまさにその時、日本列島を砲声がこだました。砲声なき落日は、はたして不可能だったのだろうか……。


 ひとことで明治維新というが、その過程は三つに分けられる。まず、国学・水戸学、そしてそのラインにある吉田松陰の思想などに代表される啓蒙期がある。

 それを安政の大獄までと規定するなら、続く文久・元治・慶応初年に至るまでの期間は、それを受けた草莽期と定義できよう。

 その草莽の志士達の志を受け、慶応三(1867)年末には大政奉還の実現、王政復興の大号令、そして翌年の五箇条の御誓文や政体書の発布と、いわゆる啓蒙思想の実現期に入る。

 それを実現させた雄藩の一つ、長州藩の内部事情によりその過程を人物によって代表させるなら、それぞれ吉田松陰――高杉晋作――伊藤博文で象徴されると思う。


 だがこのように書くと、まるでこの流れでスムーズに明治維新が実現したかのような錯覚に陥る。実はそれこそが、徳川十五代将軍慶喜が意図したことであった。慶喜は大政奉還にあたり、次のような令達を諸侯へ送っている。

「外国との関係が日増しに盛んになるため、ここで政権を一つにしておかないと日本の安定は図れない。そこでこれまでの制度を改めて政権を朝廷へと帰属させ、広く公に政治を議論した上で天皇の聖断を仰ぎ、皆が心を一つにして皇国を護れば必ず諸外国とも肩を並べることができる。我が国にとってこれ以上の望みはあるまい」

 そして、慶喜は朝廷に対しては徹底した恭順の態度をとる。

 ここで彼が「政権を一つに」と強調したのは、慶喜の眼力がある事実に気が付いていたからだともいう。

 それは、かつて四カ国連合艦隊と長州藩との馬関戦争の講和の時の様子などから、西欧列強と一口でいってばらばらな国の集合体のように考えているが、実は根底に大きな一枚岩があって、それが真に日本を脅かす元凶であると彼は考えた。

 例えばアメリカ、イギリス、フランス、オランダと別々の国のように見えて、実はその根底で何らかの組織でつながっていると彼は見抜いたのだ。そして大政奉還と深く関係する坂本龍馬が、どうもその組織と深くかかわっていた形跡がある。

――向こうが一枚岩なら、こちらも一枚岩になるべきだ。

 そう考えた彼は、一枚岩となるためにできる唯一の道は徳川幕府の消滅しかあり得ないと考えたのである。だから彼は、政権の無血委譲を図った。

 しかし、それにもかかわらず、時代の流れは血の流れを要求した。つまり、王政復古の大号令から明治政府がその機能を発揮するまでの間に、戊辰戦争というどす黒い流れが横たわる。慶喜の願い虚しく、なぜ血が流れたのか……。まずはその戊辰戦争の本質を探ってみたいと思う。


 一口に戊辰戦争といっても、大政奉還の翌年の慶応(のちに明治と改元)4(1868)年の正月の鳥羽伏見の戦い、江戸開城が実現した同四月から10月までの奥羽越戦争、そしてその翌年の明治2(1869)年5月までの箱館戦争という三つの区分に大別できる。だがこれら三つの戦争は、その性質がそれぞれ全く異なる。

 鳥羽伏見の戦いが勃発したのは、1月3日の夜であった。前にも書いたが、この戦いでは開戦当初、幕府の敵は朝廷ではなかった。慶喜が発した討薩表を掲げて上洛しようとした幕府軍を薩摩藩兵が阻害したことがきっかけで、幕府軍と一部の会津・桑名藩の軍が薩摩藩の軍と衝突した。

 つまり、あくまで幕府が戦う相手は薩摩藩という一藩だったのである。この戦いの途中で薩摩藩に錦旗が下されたので薩摩藩が官軍になったにすぎず、幕府軍は朝廷に弓引こうなどという意識は毛頭なかった。だが、薩摩に錦旗が下されたことが、日和見の洞ヶ峠の陣を動かした。それでも戦いの主体は、幕府の正規軍であった。

 ところが、奥羽越戦争は違う。相手が官軍であるのは同じだが、それと戦った主体はもはや幕府ではなく、会津藩を中心とする奥羽越の列藩同盟なのである。もっとも彼らとて敵は薩摩藩であり長州藩であって、朝廷に敵対して戦っているというような意識はなかった。こういった状況が、明治維新というものの性格を規定する。

 王政復古とはあくまで名目であって、その実態は薩摩藩や長州藩を中心とする西南雄藩の連合体の政権獲得にほかならない。

 そしてそれに続く箱館戦争は……戦う相手はたしかに薩摩や長州が主体だが、すでに明治政府という形態をなしている。また、それと戦った主体も旧幕府の一部の幕臣たちであった。これは鳥羽伏見の戦いの時の幕府軍とは、状況が違う。

 正規の幕府軍なら、そのトップはあくまで征夷大将軍たる徳川慶喜でなければならない。しかしすでに慶喜は将軍職は辞し、水戸に蟄居してひたすら恭順を続けている。つまり、箱館の幕府軍というのは、将軍を辞したとはいっても徳川宗家の当主であることは何らかわらない慶喜の、その意に反した集団なのである。

 このように「誰が朝廷=新政府(実質は薩長)と戦ったのか」が三者三様なのだが、もちろんそこに何の関連性もないわけではない。いや、大きくつながる共通した何かもある。それを探りつつ、これから箱館戦争の本質について語りたいと思う。


 さらにもう一点。箱館戦争を描く小説やドラマの中にたびたび登場する輝かしいような光彩を放つ言葉がある。それは「蝦夷共和国独立」である。

 かつて、皇国史観で彩られていた時代においては、そのような概念は否定された。この神州に一瞬たりとも別の国である共和国が存在した事実など、あってはならないことだったのである。そして戦後になって、皇国史観への反動の中で浮上したのがこの共和国論である。

 むしろその論説にとっては、明治政府が確立される前に短期間でも日本で入札、すなわち選挙が行われ、それによって政権が誕生する民主的な制度が存在したということは光芒を放つ歴史となるのである。それは万世一系の国体という概念が軍国主義化するはるか以前には打ち壊されており、それ故に日本が非常に進歩的だったということの立証になると考えられた。

 ところが戦前の皇国史観を熱病というのなら、戦後の皇国史観の否定もまた熱病であろう。戦後は終わった今、冷静かつ史実に忠実な目で、箱館戦争の真の姿をとらえる必要があろう。


 箱館戦争は日本で初めての洋式近代戦争であり、西洋諸国が介入する一種の外交戦争でもあった。同じ戊辰戦争の中でも、少なくとも幕府軍の将が甲冑を着用して幟を立て、法螺貝を吹いていたのと大きく趣を異にする。

 この箱館軍を指揮したのが洋行帰りで西洋の科学、軍事学、法学、物理学などを身につけた幕臣随一の洋式化されたエリートの榎本武揚であったということにもよろう。彼の率いる旧幕府海軍の榎本艦隊は、かつて日本の泰平の眠りを覚ましたアメリカのペリー提督の極東艦隊よりも実力ははるかに上であった。

 もちろん榎本個人の力のみではなく、時代の流れも大きく反映されている。そしてこの箱館戦争の経験が、日清・日露戦争まで受け継がれ、帝国海軍発展にも大きく影響するのである。


 さらに、戊辰戦争の中での箱館戦争の位置づけもあれば、さらには明治維新という大きな流れの中での箱館戦争の位置づけも見なければなるまい。

 そうなると浮上するのが、先に述べた「蝦夷共和国」というのがはたして実在したのかどうかである。それによって、明治維新の中での箱館戦争の役割が見えてくる。

 さらには、徳川慶喜の意に反して起こった流血事態である戊辰戦争も、大政奉還当事者の意に反してたまたま起こってしまったのだろうか……いや、歴史は一切が必然であって偶然は存在し得ない。そうなると、箱館戦争が起こってその必然性も解き明かしていく必要がありそうだ。

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