第83話

 ロータスは折れた腕をぶらぶらさせて、暗闇の廊下を走り抜けていった。

 俺も走って追いかけたいが、足が上手く動いてくれない。ガラスで切り裂かれ、熱風に焼かれたんだ。無理をさせ過ぎた。

 何か使える物がないかと視線を巡らせると、廊下に設置された長方形のロッカーが目に入った。暴徒鎮圧用のガンキャビネットだ。開け方はアイアンワンドのおかげで分かっている。


 素早く暗証番号を打ち込み、ポンプアクションショットガンを取り出した。備え付けのビーンバッグ弾(非致死性弾)を装填し、暗闇に消えつつあるロータスを撃った。

 弾はロータスの背中に命中し、衝撃で床に倒れ込んだ。彼女は逃げる事すら忘れて、激しく悶絶した。

「いっぎゃあああ! にく! にくが! にくがとんじまったァァァ!」

 ビーンバッグ弾に詰まっているのは、袋詰めされたゴム玉だ。そのゴム玉一発に、大の大人をのたうち回らせる力がある。死にはしないが、『死んだ方がマシ』なぐらい痛い。

 俺は悠々と彼女の傍らまで歩いて、そっと囁いた。


「戦え」

「だずっ! だずげでぇ!」

 ロータスが片腕で床を這って、俺から逃げようとする。

 そうはさせん。ロータスの右の太ももを撃つと、身体を弓なりに張って痛みに転げ回った。

「あっ!? ああああ! アハ! あひぃぃぃ!」

 ぷしっと、ライフスキンを浸透して、ロータスの恥部から液が噴き出た。アンモニア臭はしないので、潮を噴きやがったのだろう。

 極限のパニックに陥り、薬のせいで快楽と苦痛がごちゃ混ぜになっているのだ。

 この環境だ。懐かしい。人が壊れる世界。俺はここを乗り越えて生き延びた。お前もそうなれば、俺を殺せるほど強くなる。


「戦え」

 俺はロータスに顔を近づけて囁いた。ロータスは力なく首を横に振るだけだった。

「もう勘弁してくれぇ……手が動かない……動かないんだよぉ……」

「戦え! 戦えぇぇぇ!」

 何だこのボケは!? 言っても聞かせてもやらせても、抵抗できないのか!?

 ロクに動かない足を持ち上げると、がむしゃらにロータスを踏みつける。


「このクソ汚らしい腐れマ○○が! 俺を失望させやがって! 俺を失望させやがって! テメェが出来るって言ったから俺も乗ったんだぞ詐欺師が! 俺を殺せるんだろ! 殺してくれよ! 殺してくれよ! 殺してくれよ!」

 あらかた踏みつけ終えると、顔をロータスに近づけて反応を窺う。彼女は子供のように泣きじゃくっていた。

「えぐっ……うえぇぇぇ……たずけでぇ……だずけでぇ……だずけでぇ……」

「クソが」

 こいつは駄目だ。他の獲物を探さないと。そのための餌にするか。


 俺はビーンバック弾をロータスの両足に撃ち込み、どうあがいても動けないようにした。そして髪の毛を掴んで、エレベーターホールへと引きずっていった。

 待てよ。何かが足りない。口が寂しい。臭いも変だ。

 ああ! 俺は違和感の正体に気付き、ロータスの身体を漁って煙草を取り出した。アロウズが愛飲した、安物の煙草だ。一本咥えて、深く吸い込む。すると幻覚が世界を支配して、眼に見える現実を書き換えていった。


 滑らかなアメリカドームポリスの壁が、錆と汚染物で汚れていく。場に漂う空気も、無色透明から不純物で軽く濁る物にとってかわった。そして俺の体。先ほどまで裸同然だったが、今では国連軍のライフスキンに身を包み、背中には二枚の旗を背負っていた。



 捨てられた機動要塞の中、俺はリタの死体を引きずっている。



 これだ。ああ。俺は戻って来れた。あの忌まわしき時間の中に。

 誰か俺を殺してくれ。誰か俺を救ってくれ。俺が……あの愛しき裏切り者に辿り着く前に!


 俺が監督区画前のエレベーターホールに足を踏み入れると、スピーカーで誰かががなり立ててくる。


『サー! もうおやめください! マム・ロータスは戦意を喪失しております! ここからは理性的かつ文化的な処置を施すべきであります! それが今までサーが為さってきた事であります! ご自分をお棄てにならないで!』

 幻聴だ。気にすることはない。そこに俺のリアルはないのだから。

 俺はリタのライフスキンを剥いで全裸にすると、ロープで亀甲縛りにした。天井にロープを投げて、釣ってある照明に引っ掻ける。

『サー! これ以上の過剰な暴力に、一体何の意味があるのでしょうか! それに意味がないと説いたのは、サー本人で御座います! これ以上道を踏み外すのはおやめください!』

 天井から垂れ下がったロープを引っ張り、リタを宙に逆さ吊りにした。リタはまるでミノムシみたいに、宙でもそもそともがいた。


 驚いた。銃口を咥えさせ、弾丸を食らわせたのに、まだ生きているらしい。見たところ薬が完全に回り、痛みと快楽の狭間で、幻想に溺れている様子だ。

 リタは口角からだらしなく涎を垂らし、明後日の方に視線を向けて、小さい呻き声を漏らしていた。

『マム! マム! お助け下さい! サーをお助け下さい!』

 幻聴がうるさい。一服して落ち着くか。煙草を二本、三本と根元が灰になるまで楽しんだ。


 さてどうしようか。こいつを上手く使って、アロウズを引っ張り出さないといけない。だが奴は女を一人切り刻んだところで、ノコノコ出てくるような奴ではない。

 しかしだ。アロウズの取引相手は違うはずだ。この時代には珍しく、上品な奴らが多かったからな。きっとリタに悲鳴を上げさせれば、飛んでくるに違いない。あいつらはクソ強い。俺を殺してくれるに違いない。


 この四本目の煙草を吸ったら、リタをいたぶることにしよう。

 俺が咥えた煙草をマッチで炙った時、エレベーターで物音がした。視線をやると、ちょうどボックスの上から、アジリア、アカシア、プロテアが飛び降りたところだった。彼女らは鉄パイプやワイヤーで、拙く武装していた。

 アカシアは俺を一目見ると、眼に涙を貯めながら突進してきた。

「ナガセ! ナガセぇぇぇ!」

 アカシアが俺の背中に手を回し、腹に顔を埋めながら、きつく、きつく抱きしめてくる。


 俺は何も返すことはできない。

 混乱している。だっておかしいじゃないか。何でこいつらがいる? 俺の味方はいなかったはずだ。俺を止めてくれる人も、俺を救ってくれる人も、何もなかった。

 だから俺は全てを棄てて、戦う事が出来たんだ。


「アイアンワンドが助けてくれっていうから、やられかけてると思ったんだぞ! やっつけたんだな……うぉっ! お前何してンだこれ……」

 アカシアに続いて、プロテアが近づいてくる。彼女は俺を見て胸を撫で下ろした後、宙吊りにしたリタに気付いて声を上ずらせた。

 どうやら引いているようである。

「気絶できないようにしている。これからいたぶるのでな」

 逆さづりは頭に血が上るので、気絶しにくくなる。亀甲縛りは安定するし、吊る人体に負担をかけにくい。長くいたぶれる。


「いたぶるって……もうやっつけたんだろ……抵抗できない奴……なぶる意味があるのかよ……?」

 プロテアが狼狽えて、か細い声で言った。

「いや……まだだ……まだ奴らの仲間がいるはずだ……こいつを餌におびき寄せる。危ないからお前らはまだ隠れているんだ」

「奴らって……マシラか? ジンチクか? じゃあ早く避難しようぜ。そうして餓死させりゃ安全だ。ロータスを餌にする必要なんかねぇだろ」

 何を訳の分からない事を言っている。こいつはリタだし、汚染世界にマシラだのジンチクだのがいる訳ない。

 ああ、成程。こいつはここに留まって、拷問を見る口実が欲しいのか。


 プロテアと問答を続ける内に、女たちがボックスから次々に飛び出して来る。サン、デージー、ピオニー、ローズ、マリア、そしてパンジー。各々が武装しており、険しい表情で辺りを警戒している。だが俺の姿を認めると、武器を投げ捨てて駆け寄ってきた。

 彼女たちもプロテアとアカシア同様に、俺と宙吊りにしたリタを交互に見やる。そして安堵と恐れが入り混じった顔をした。


「貴様らも見たいのか? 好きものだな」

 俺は苦笑しつつ、煙草の火ををリタの腹に押し付けた。まるで屠殺される前の豚のような悲鳴が上がり、宙ぶらりんの身体が激しく揺れた。

 面白い。あまりの滑稽さに、笑い声すら漏れる。


 プロテアが怖気に、全身の毛を逆立てた。

 俺に抱き付くアカシアも、あり得ないものを見たように呆然自失となっていた。

「やめて……!」

 アカシアがぼそりと呟く。

「ああ? 何故だ? 好き勝手やられただろ」

「そう! だけど……間違ってるよ……そんなのナガセのする事じゃないよ……」

 楽しみに水を差された事で、苛立ちが顔に出た。

 アカシアは一瞬怯んで身を縮めたが、恐る恐る顔を上げて諭してきた。

「殺すのは痛くて苦しいことでしょ……される方も……する方も……ナガセがピコと一緒に教えてくれたことだよ……ナガセはそんなこと絶対しないよ! しないよぉ!」


 何血迷って、処女のママゴトみたいなことを言っているんだか。

「知るか」

 アカシアは俺に爪を立ててしがみ付いてきた。

「知ってよ! 命を使ってやった事だよ! 僕たちはそれが正しいと思って、一生懸命生きてきたんだよ! それを壊したら……! やめて! ロータスを殺すのは仕方ないよ! でも苦しませるのは止めて!」

 イラッとした。

 そもそもこうせざるを得ないのは、お前らが弱いままだからなんだぞ!


 アカシアの首根っこを掴んで無理やり引きはがすと、ビンタをお見舞いして張り飛ばしてやった。

「やかましいアマだな殺すぞ! いいか俺はこうして化け物になった! 同じことをすればこいつも化け物になるさ! そうしたら俺を殺してくれるかもしれないんだ! テメェらが出来ない事をしてくれるかもしれないんだ!」

 アカシアは床に倒れて、顔を押さえて号泣した。周囲で彼女たちの驚きの悲鳴が上がる。

 うるさい。本当にうるさい女だ。こいつも宙吊りにしてやる。いやもうメンドクサイ。皆殺しだ。俺はアカシアに向けて一歩踏み出した。


 途端。頬を殴られた。踏ん張って倒れる事を拒否し、殴った人物と向き合う。

 そこには我らが隊長、アロウズ・キンバリーがいた。

「アロウズ! 貴様ァァァ!」

 アロウズを絞め殺すため、掴みかかろうとする。そして俺の手が首にかかった時、彼女は叫んだ。

「私はアジリアだ! もう終わったんだ! いい加減にしろ!」

 アロウズはもう一度俺を殴る。

 俺が再び彼女に視線を戻した時、世界は一変していた。


 周囲の景色が棄てられたドームポリスから、アメリカドームポリスに戻っている。壁から汚れが剥がれ落ちていき、安物の煙草の臭いが少し晴れた。汚染で濁っていたはずの空気も、浄化された綺麗な物に変わっている。そして何より、目の前の人物がアロウズからアジリアに変わっていた。

 俺の手は彼女の首にかかったところで、完全に止まってしまった。アジリアは埃を落とすように俺の手を払い、凄んできた。


「助けてくれたのは感謝する……だがこれ以上は止めろ! お前が何をしたいのか、お前が何を求めているのかは知らん! 知ったことか! 好きにすればいいさ! だが我々を巻き込むな!」

 俺は彼女の凄絶な視線に応える事が出来ず、思わず視線をそらせてしまった。


 アジリアの言う通りだ。俺は一体何をしようとしていたのか。身体中に満ち溢れていた怒気が、嘘のように霧散していく。あとに残ったのは感情の燃えカスである、酷く無気力な自分だけだった。

 戦闘で極限状態になり、幻覚に呑まれ、怒りに身を任せた――のだろう。

 忸怩たる思いに顔を伏せる。しかしこれが俺だ。開き直るようだが、俺は変えられないし、変えるつもりもない。過去は俺を掴んではなさいし、俺自身過去に囚われている。そして過去は、俺を狂気に駆り立てる。


 過去を清算するにはどうしたらいいのか。俺が犯した罪科に相応しい、罰を受けなければならない。冬に決めたことだ。俺は彼女たちとは生きていけない。

 どう罰を受けるのか。俺は――薄汚い下劣で非道な腐った犯罪者として、ドブに埋もれた糞のような死を――皆が笑い蔑み清々するような惨めな死を――そのためには誰かに憎まれ、蔑まれ、そして嫌われないと――

 彼女たちとは生きていけないからといって、勝手過ぎやしないだろうか。

 でもそれ以外にどうすればいいのか、見当もつかん。

 巻き込むなか……至極真っ当な意見だ。


「気は済んだか……?」

 物思いに沈んだ俺を、アジリアの声が現実に引き戻した。

「今煽るのは止めろ。テメェもぶちのめすぞ」

 俺は呟くと、アジリアに背を向けた。

 宙吊りにしたロータスを注意深く降ろし、そっと床に横たえた。


 ロータスは完全に薬が回り、能面のような顔を唾液と涙で濡らしていた。両太ももはビーンバックで撃たれて、内出血でどす黒く変色している。胴体も踏まれまくったせいで、そこら中に青痣が浮き、腹には煙草のやけどの跡があった。

 だと言うのに。彼女は乳首を硬く勃起させて、興奮していた。

 やり過ぎた。


「アイリスは……サクラは死んだのか?」

 俺は姿が見えない二人の名を上げる。

「アイリスは。リリィとサクラ。付きっきりで見てる。パギも一緒」

 パンジーが応えた。猜疑心と敵意に細った眼で、エレベーターから俺を睨んでいやがる。

「アイリスの所に連れていって、治療してくれ。拘束はいらんが、見張りをつけろ」

 誰もが微動だにしない中、アジリアとローズがロータスにとびつく。二人で肩を貸して、ロータスをエレベーターホールから連れ出した。

 アジリアには、彼女なりの考えがある。そしてローズは誰よりも優しい。二人が動いたのは、それだけの理由だろう。


 次に気になったのが、床に伏せって泣きじゃくるアカシアだった。

 謝らないと。だが彼女にどんな声をかけられると言うのか。殴ってすまなかった? 気が立っていた? 全部汚い言い訳だ。

 俺はアカシアを慰める代わりに、先程まで吸っていた煙草の箱を、皆に見えるよう高く掲げた。


「貴様らも成長した。好きに煙草を吸えばいい。酒も飲めばいい……だがな!」

 箱を思いっきり握りつぶす。そして地面に叩き付け、踏みにじった。

「この銘柄だけは止めろ! 安物だ! 吸い過ぎると馬鹿になるぞ! これ以上馬鹿になっても知らんからな!」

 俺の罵声に、彼女たちは数歩俺から後退った。

 これ以上ここにはいられない。早く逃げたい。狂った自分をさらしたくない。俺は踵を返すと、監督区画の方に足を向けた。


「ロータスは後で処刑する。俺は戦後処理のち治療する。各自安全な場所で楽にしろ」

 返事は待たない。ぼろぼろの足を可能な限り早く動かし、この場を後にする。誰も俺に肩を貸そうとも、呼び止めようともしなかった。ロータス以下の扱いだ。仕方あるまい。そしてそれでいい。


『サー……』

 唯一アイアンワンドが語りかけてくる。だが惨めなだけだ。

「黙れ! 喋る暇があったら、さっさとアカウントを正常化し、戦後処理を始めろ!」

『サー……イエッサー……既存最上位アカウントの削除を開始。アイアンワンドが再び全権を掌握し、そのアカウントをサーに割り振ります』



 こうしてロータスの反乱は、幕を下した。

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