第75話
ナガセの眠る緊急救命室は、しんと静まり返っていた。
棄てられた血まみれのストレッチャー。入り口から点々と続く血の跡。そして床に一個だけ転がる空薬莢。
全てがあの日のままで残っている。
そしてあの日から、人の出入りが絶える事も無かったようだ。
入り口からナガセのポッドまで、汚れのラインがうっすらと伸びている。違う人間が何人も、同じ人が何回も、繰り返し繰り返しナガセに会いにくることで、足跡が汚れとなって残ったのだ。
ナガセのポッドの周囲には毛布が何枚も投げ出され、食い物の包み紙と食いカスが散乱していた。何人かの女たちは、ここで寝て食べているようである。
あれだけ彼女らに恐れられたにもかかわらず、ナガセは彼女らの心の拠り所となっているのだった。
素直に畏敬の念を抱いてしまう。
だからこそ……だからこそ……本当に私たちが自立できるその日まで。私たちが私たちに成れるその日まで。貴様には生きてもらう。そして育てた責任を取ってもらうぞ。
私は持ってきた弾薬ケースを床に放り出し、ナガセのポッド脇に立った。中を覗き込むと、奴が心地よさげに培養液の中を浮いている。ポッド脇のディスプレイには、こう表記されていた。
『DNAアナライズ=コンプリート ジーンスポッティング=コンプリート 外部免疫系=現在停止中』
ロータスはDNA解析とジーンスポッティングを許したが、外部免疫系による治療だけを禁じたわけか。免疫系が弱っているナガセを衰弱死させようとしたのだろう。私の意見通りに治療はしたと見せて、彼女らの反感を弱めようとしたのだ。
仮にDNAの処理が済んでいなくてもこちらで何とでもできたのだが、おかげで耐えらなければならない時間が減った。
最後のキーは、私が持っている。
まずは深呼吸をして気を落ち着ける。ロータスはきっと見ている。上手く芝居をしなければ。
「全部貴様のせいだ……」
ぼそりと呟いて、ポッドのガラスカバーにそっと手を置いた。埃一つ浮かない表面を、手の平で撫でていく。
三日も経つのに——アカシアあたりが掃除しているのだろう。妙な哀愁が胸をついた。
アカシアの為にも、ここで上手く演じてやる。そのついでに今までの不満でもぶちまけるか。
「貴様さえいなければ、こんなことにならなかったんだ!」
手を拳にして振り上げ、ガラスカバーに叩き付ける。
「貴様はもうすぐくたばるからいいかもしれんがな! 我々は散々だぞ! 貴様の分身のような戦闘狂に支配され、良いように使われるようになったのだからな!」
もう一度振り上げて、叩き付ける。拳がジンジンする。構わず駄目押しに、もう一回殴りつける。私は髪を振り乱して、狂乱を演出した。
「貴様が外に連れ出さなければ……貴様が余計な教育さえしなければ……貴様が……貴様さえ現れなければ……我々は平和に安納と生きていけたのに……貴様さえェェェ!」
無論本気でそう思っていない。こいつがいなければ、越冬は無理だっただろう。だがそのために犠牲にしたものが、多かったとは思う。
ここいらで涙声にするか。声をわざと濁らせて、さも嗚咽にのどが詰まっているように見せかける。そして私は罵倒を続け、ポッドを殴り続けた。
やがて息が上がり、手に血が滲みだす頃になって、私はポッドを殴るのを止めた。そして疲れたふりをして、ふらつきながら壁に寄り掛かった。
狙い通り背中に硬い何かが当たる。私はさもその存在を、最初から知らなかったように大げさに驚いて見せる。そして背後を振り返った。
背中に当たったのは、この部屋の配電ボックスだ。
肩で息をしながら、じっとその配電ボックスに視線を注ぐ。そして凶悪な笑みを浮かべた。
「ハハ……もう十分生きただろう?」
ボックスを乱暴に開け放つ。中には配電盤が緑と赤の光を放っており、その隣にブレーカーのレバーがあった。私は迷わずレバーを握りしめた。
「くたばれ化け物!」
一思いに電源を落とすと、室内の照明が落ちて赤色の非常灯が点いた。
稼働していたナガセのポッドが一瞬駆動音を止めたが、すぐに非常電源に繋がって再駆動を始めた。部屋に備えられたカメラのランプだが、こちらは点灯しなかった。
ナガセに教わった通り。医療区画で優先されるのは、治安よりも人命である。外から操作されないよう、内部に配電ボックスがある。そしてポッドごとに、独立した非常電源が備わっているのだ。
私は拳銃を抜くとブレーカーを元に戻せない様に、ボックスに向けて乱射した。
『へぇ~……思い切った事するわねぇ~アジリア』
廊下のスピーカーから、ロータスの楽しむ声が聞こえてくる。やはり覗き見していたか。だが何をしているかはもうわかるまい!
持ちこんだ弾薬ケースを開け放ち、ケーブルと配電装置を取り出す。そしてケーブルを伸ばしつつ、ナガセの隣にあるポッドに近づいた。直立するポッドの下部に屈みこみ、カバーをこじ開けて格納されているバッテリーパックを取り出す。
「予備電源に切り替えたが……もって二日だ。他のポッドの予備電源を繋げなければ……」
バッテリーパックにケーブルを差し込み、配電装置を仲介させてナガセのポッドにつなげる。これでナガセのバッテリーが切れたとしても、自動でこのバッテリーパックに切り替えてくれる。
これではまだ足りない。その隣、そのさらに隣のポッドのバッテリーを取り出して、次々ケーブルで繋げていった。
『皆に報告~。アジリアがぁ! 何とナガセをぉ! 殺しましたァ!』
廊下から大きな声が聞こえてくる。音が反響しつつ、輪唱の様にこだましていることから、ドームポリス全体に放送を流しているようだ。他の奴らは分からんが、アイリスとアカシアは飛んでくるだろう。今踏みこまれたらマズい。全てが台無しになる。
焦りで覚束なくなる手をしゃにむに動かして、合計四つのバッテリーをナガセのポッドに接続した。
次は遺伝子補正プログラムだ。胸の谷間に指をさし込んで、そこに隠していた鉄の筒を取り出した。
入れる場所は事前に目星をつけて置いた。コンソールのソリッドキューブ差込口付近に、この筒と同じくらいの穴が空いている。きっとここに入れて、データを送るに違いない。
捻じ込むようにして穴へ遺伝子補正プログラムを差し込んだが、鉄の筒が滑る間抜けな金属音がした。
筒は穴に入りはしたが、ガバガバできっちり収まっていない。さらに収まり切らない先端が、不格好に飛び出している。
「え!?」
いや……だって……ここ以外に嵌められそうな穴はないぞ!? 嘘だろおい……嘘だろおい……洒落にならないぞ!
「え? え? え? はぁぁぁ!?」
狂ったように穴に筒を、入れたり出したりする。だが収まる気配は一向に無い。
『上部拡張スペースです。すでに接続されている医療補助器具を取り外し、そこに差し込んでください』
突然ポッドから上がった声に、甲高い悲鳴を上げた。驚きの余り放り投げた筒を、空中で数回お手玉する。なんとかそれを掴むことに成功すると、ぬいぐるみにするよう胸元に抱いた。
声がしたのはナガセのポッドからだ。よくよく見ればポッド側面の駆動ランプが、忙しなく明滅を繰り返している。何かのプログラムが動いているようだ。
『マム。人の声を聞いて悲鳴とは、失礼ではないでしょうか?』
やや聞き取りづらい機械音声。そして起伏も抑揚もない酷い棒読み。だがこのイラッとくる物言いには覚えがある。
「アイアンワンド!? お前は人じゃないだろ! 何してんだお前! どうやってここに!」
『今現在マム・ロータスに従っているのは、暫定キューブ00~03を統合運用して形成された、私のダミーで御座います。ですからサーを容易く売ったのですわ。私はここが断線する前に事前にインストールされた、サーを守るためのアプリケーションにございます』
私は口をあんぐりと開けて、ポッドを見つめることしかできなかった。
「お前……命令に逆らえたんだな……」
『まぁ。何てことを仰るのですか。私はサーに対して絶対服従を貫いております。確かにサーは『アジリアに従え』と仰いました。ですがその命令は危うく、語弊があると判断しました。そこで『最上級アカウントを譲渡することですか』と聞き直したのです。サーは『そうだ』と仰いました』
「だから何だってんだ?」
『ですのでダミーを作成し、そこに最上級アカウントを譲渡した次第です。ああ、私は何と賢明で、忠実な僕なのでしょうか』
ナガセが警戒するわけだ。こいつは機械と言うには自発的過ぎる。
「私より性悪だな……誰に似たんだ?」
『私もサー一筋でありますが故に……事前に組んだプログラムで、サーは私が面倒を見ておきますので、しばらく耐え忍んでくださいまし。繰り返します。上部拡張スペースです』
私は筒を握り直すと、ポッドの頭側に回り込んだ。様々なケーブルが髪の毛の様に生えており、付近に置かれた医療機器へと接続されている。その中で筒と太さが近しいものを適当に見繕って、ケーブルを引き抜いてデタラメに筒を押し込んだ。
今度はドンピシャ。筒は穴にちょうど収まり、ディスプレイには『遺伝子補正プログラム』の起動が表示された。
後はばれない様に、人の目に触れなくするだけだ。
「ここを封鎖したい。何か手段はないか?」
『これ以上の応答はプログラムされておりません。答える事はできませんわ』
アイアンワンドはぶっきらぼうに答えた。
「おい……ふざけている場合じゃないぞ! それと外部免疫系はどうやって起動するんだ?」
『これ以上の応答はプログラムされておりません。答える事はできませんわ』
私は舌打ちをする。そして破壊した配電盤に視線をやった。
「通信機器の類は切ったんだったな……アプリをインストールしたとかいっていたから、アイアンワンドが直接きている訳ではなさそうだ……ム? 待てよ。じゃあこいつはこうなることを、想定していたのか……?」
『私はどちらかというと、マム・アジリアが、サーを殺すことを警戒しただけで御座います』
私の独り言に対して、アイアンワンドがするりと答える。
「そう言う必要のない答えだけ用意しやがって……」
苛立ち紛れにぽかりとポッドを軽く殴りつけると、封鎖の準備をすることにした。本当は外部免疫系も復活させてやりたかったが時間がない。緊急救命室の外から、数人分の足音が響いてきたのだ。
転がっている毛布を拾い上げ、ポッドにかけて覆い隠す。それから緊急救命室を出た。
廊下の向こうから、アイリスとアカシアが凄絶な表情で走ってくるのが見える。
やばい。
全力で緊急救命室のスライドドアを閉めると、ドア脇のコンソールを操作してフェイルセーフをオンにした。これでセイフティロックがかかって、異常があると動かなくなる。スライドドアはロータスが壊したので、修理するまではセーフが働いてロックがかかる。
後は――拳銃を抜いて、コンソール目がけて全弾ぶっ放した。派手な火花が散り、白煙が噴き上がると同時に、足音が私の背後に到達した。
誰かが首根っこを掴んで、壁に抑えつけてきた。
「何してるんだお前ええええ!」
アカシアが耳元で怒鳴り、後頭部に冷たい金属を押し当ててきた。どうやら銃口を突きつけられたらしい。
一方スライドドアではアイリスが張り付いて、開けようと躍起になっている。しかしロックされたドアが開くはずもなく、彼女は金切り声を上げながらドアを引っ掻くようになった。
見ていられなくなった。
「もう終わったんだ……あの化け物は死んだ。これから私たちで――」
「黙れ!」
アカシアが私の首を掴む手に力を込めて、壁に叩き付けた。
「何てことしてくれたんだ……何てことしてくれたんだ……ロータスは直すっていってくれたのに! だからいうこと聞いてきたのに! 頑張ってきたのに! お前えええええ!」
アカシアは叫びながら、私を何度も壁に叩き付けた。抵抗する間もなく、何度も頭を打ち付けられて、意識が朦朧としてしまう。アカシアはすかさず私の足を引っかけて床へと投げ倒すと、銃を構えた。
臆病で引っ込み思案な彼女らしくない、洗練された好戦的な振る舞い。
私は実感した。ナガセに率いられ、ナガセを失い、彼女たちは確実に壊れつつある。
だから早くあいつに帰ってきてもらわないと。
「お前なんか死んじゃえ!」
アカシアが引き金を絞ろうとする。その眼は驚くほど冷たく、腕は恐怖に震えた様子はない。
これは……死んだかもな。覚悟を決めて、瞳を閉じる。
しばらく、時間が過ぎた。
だが一向に撃たれる気配はない。恐る恐る目を開くと、アカシアは無表情を苦悶の顔に変えて、歯を食いしばっていた。
まだ良心があるようだ。
危うく死ぬとこだった。電撃を浴びせられたわけでもないのに、恐怖で四肢が小刻みに震えている。だが落ち着く暇も無く、横っ面に衝撃が走った。アカシアが私に蹴りを浴びせたようだ。
ロータスはそれを見てか、ケラケラと面白そうに笑っている。だが何かを思いついたように、ポンと手の平を鳴らした。
『おいサクラぁ。聞いてた? ナガセだけどね。死んじゃったよ?』
ロータスはサクラに理解する時間を与えるよう、鼻歌を奏でることで間を置いた。
『すんごい苦しんで。うんうん唸りながら。サクラは何で助けてくれないんだって。役立たずだって。期待した俺が馬鹿だったって。死んだよ』
緊急救命室の近くには、サクラを監禁している小部屋がある。そこからとても人の悲鳴だとは思えない、耳をつんざかんばかりの声が響いてきた。その声は息継ぎすら忘れて放たれ、彼女の咽喉が裂けるまで延々と続くかと思われた。だが急に悲鳴がプツリと途絶え、何も聞こえなくなった。
『気絶しちゃった』
ロータスは満足そうにいう。屈服させたのが嬉しくて仕方がないのだろう。
そうこうしているうちに、緊急救命室前にぞろぞろと彼女たちが集まってきた。
皆一様に厳しい視線を、私に注いでいる。そして軽率な行動を諌めるよう、無言の重圧をかけてきた。
好きにすればいいさ。だが私はできることはやったぞ。満足だ。投げやりになって口元にうすら笑いを浮かべていると、髪の毛を掴まれて立たされた。
アカシアだ。彼女は集まった全員をびくびくと見渡しながら、いつもの様に遠慮がちな声を出した。
臆病な態度と裏腹に暴力的な行動。そのギャップが恐ろしかった。
「えと……その……こいつどうする?」
「殺さないで……それだけはやめて……」
ローズが懇願する。するとアカシアは悲しげな眼のまま、口の端を吊って笑った。
「うん……あの……もう殺さない。いらいらしただけだから……ナガセ居なくて……それをこいつがやって……うん……私コイツといたくない!」
アカシアは私を突き飛ばす。そして銃をホルスターに戻すと、駆け足でその場から去っていった。
後に残ったのは重苦しい沈黙。その中にスライドドアを破ることに疲れた、アイリスの嗚咽が空しく響いている。
「監禁するしかないでしょ……」
しばらくして、サンがポツリとこぼした。
「でもさぁ……人数は減ったのに私たちの仕事は減らないよ……罰なんて意味無いからやめようよ」
マリアがすかさず反論する。するとデージーが横槍を入れた。
「でもコイツ平気で人を殺す奴なんだぞ。危ない危ない嫌だ嫌だこいつも監禁しよう」
「それで仕事ができなくて、私たちのお仕置きが増えたら意味無いでしょ!」
マリアがデージーに食って掛かる。デージーもムキになって怒鳴り始めた。
「どっかの誰かがもっと頑張ればいいだろ! 仕事できない奴もっと頑張れよ!」
「ちょっとデージーまた私と喧嘩したいの? 受けてタツワヨ!」
ローズが論争に割って入る。
「何だとコノヤロー!」
救急救命室前で、未曽有の大喧嘩が始まろうとしていた。
『アイアンワンド。こいつら全員暴徒。レベル4』
『マム・イエスマム』
その場にいる全員が争うのをやめて、電撃に四肢を震わせる。そして一斉に膝を折り、その場に崩れ落ちた。
『はいはいキャンキャン喚くのはヤメヤメ。仕事再開。お葬式の方は私で段取りしておくから。それとアイツの死体みたいんだ。そこ開ける仕事追加ね』
プロテアはぎろりと廊下のカメラを睨み上げる。そして床に手を這わせながら呻いた。
「機械いじりの好きなリリィは、お前が撃ってベッドで苦しんでる。その次に上手いサクラは気絶したよ。するしないの問題じゃない。無理だ。C4で中ごと吹き飛ばしたいんだったらやってやるよ」
『ほ。じゃあ後でいーわ。ポッドに入ってるし腐らないでしょ……またね』
放送はぶつりと切れた。
動くのも億劫だ。私は四肢を投げ出して寝ころんでいたが、誰かに腕を掴まれ立たされた。嫌に丁寧だなと思って横を向くと、プロテアが私に肩を貸していた。
「馬鹿な真似しやがって畜生が。しばらく一人で頭冷やせや」
彼女はそう言って私の脇腹を小突く。そしてパンジーにもう片方の肩を貸すよう、顎でしゃくった。
「俺とパンジーで連行するよ。お前ら元の仕事に戻れ」
彼女たちは納得できない様に、その場を動く気配を見せない。みな胸に秘めた思いを様々な表情にして顔に出している。当然だがそこには、笑顔やいたわりなどの肯定的なものは一つも無かった。
「いらん。私も仕事をする」
私は肩を貸してくれた二人を振り払おうとする。だがパンジーが私の髪を掴み、ドスの効いた声で「抵抗するな」と脅した。そしてすぐに耳元で囁いてきた。
「いま。出たら。リンチ。食らうぞ。みんな。痛めつけられて。ピリピリしてる。いう通り。しとけ」
そうして私は皆のきつい視線に見送られながら、近くの小部屋へと連行されることになった。
彼女たちから十分離れてから、プロテアが愚痴をこぼす。
「教えてやりゃあ良かったんだ。したら喧嘩にならずにすんだのに」
「ばれてみろ」
私の声は自然と引きつった。
「止めを刺されてホントに終りだ」
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