幸せな仕返し

 夜、晩酌を終え二人は床に就いた。

 涼しい夜だった。

 眠りにつきかけていた婆さんは独り言のようにつぶやいた。


「こうやってあんたとお酒を飲めるのもいつ頃までだろうね。あたしの方が五つも年上だもんね。最近は歩くのもしんどいし目も耳もすっかり悪くなって、お酒だって昔はあたしの方が強かったのにね」


 最後の方は言葉になるかならないかのささやき声で、すぐに寝息を立てだした婆さんの横で爺さんは天井を見つめていた。


 翌日、夜明け前に、婆さんは爺さんに起こされた。

「ん…何?」

 カラカラののどを震わせて、ガサガサの声で婆さんは言った。

 爺さんは息子が高校生の時に着ていた鮮やかな緑色のジャージに身を包んでいた。

「………」

 婆さんが寝ぼけ眼でそれを見ていると、爺さんは黙ってえんじ色のジャージを婆さんに差し出した。

 それは二つ年下の娘が高校生の時に来ていたジャージだった。


 二人はウォーキングに出かけた。

 まだ紫色の街はいつもの雰囲気と大きく違っていた。

 新しく爽やかな空気、まだシャッターの空いていない郵便局、いつも車でごった返している道路も新聞配達のバイクと大型トラックぐらいだった。

 その新鮮さが二人の会話を弾ませた。

 いつもこの時間にジョギングをしている人たちも突然現れた奇抜な色彩の老夫婦に驚いて何度もこっちを振り返っていた。


 夜が明けきるころ、二人はウォーキングから帰ってきた。

 婆さんがシャワーで汗を流し、リビングに戻ってくると爺さんが爆音をうならせて、ドロッとした液体を年季の入ったミキサーでゴリゴリとかき混ぜていた。

 爺さんは笑顔でそのドリンクをコップに移し替え、婆さんに差し出した。

「……あんたが作ったの?」

 爺さんはニコニコしながらうなずく。

「じゃあ、いっせいのぉで、で飲みましょう」

 爺さんの表情がこわばる。

「行くわよ、いっせいのぉで!」

 二人とも勢いよくジュースを流し込んだが、同じタイミングで逆再生したようにそれを吐き出してしまった。

 むせかえる二人、やがて落ち着いた頃、婆さんが言った。

「あんた、このジュース、材料は何?」

 口元をもごもごさせる爺さん。

「大丈夫ですよ、怒らないから」

 婆さんの方をちらちらと伺いながら、もごもごと爺さんは言った。

(バナナ…リンゴ…ケール…納豆…)

「納豆!?」

 爺さんは目を見開いて一瞬固まり言い直した。

(バナナ…リンゴ…ケール………牛乳。)

「ごまかすんじゃない!納豆はどうした!」

 婆さんは涙を流しながら怒鳴ったがその顔は笑っていた。


 爺さんも気まずそうに笑っていた。


 それから二人は頭の体操と言うことで、オセロや将棋、トランプなどをして遊んだ。

 それに飽きたら家の中でかくれんぼをした。

 お互いに見つけるまでの時間を競い合うというルールだったので、ひと月に一回上がるかどうかの二階の隅々まで使った壮大なかくれんぼだった。

 夕方には軽くお酒も飲み、夜は今までよりも早く寝た。


「今日は電気を使わない生活をしてみましょうよ」

 

 と、婆さんが言ったときはお酒も控え、日が落ちると同時に眠りについた。

 二人は今までよりも元気になり、近所からも愛されるおしどり夫婦として笑顔の絶えない生活を送り続けた。




 やがて月日は巡り、まだ紫色の街のはずれの共同墓地に、全身緑色の婆さんが現れた。

「五つも年上のあたしの方が、あんたよりも長生きするなんてね…あたしもいずれそっちに行くだろうけどね。だいぶ先になると思うよ。全くこんな派手な色のジャージ着て一人でウォーキングだなんて、この時間じゃないと恥ずかしくって出来やしないよ」

 婆さんは、お喋りをしながら水筒に入れてきたドリンクをワンカップに注ぎ線香をあげた。

「もう、あんたは健康とか関係のないとこに行っちゃったけどね、たまにはこうやって特製ドリンク、持ってくるよ。怪しい飲み物をワンカップにそそぐ、緑色の独り言ババアって近所で噂されるかもしれないけどね。ま、飲みたくなったらいつでも飲みなよ」

 しばらく婆さんは墓石を見ていた。

「それにしても、あたしを健康にして自分はさっさとあっちに行っちまうなんて…ひどい男だよあんたは…こうやって残されるのが嫌だから五つも年下のあんたと一緒になったってのに…仕返ししようにも何にもできないじゃないか…」

 そう言って婆さんは軽い足取りで墓地を後にした。




「……今日のドリンクは納豆、入れといたからね」

 ワンカップのドリンクは少しだけ減り墓の裏側にこぼれていた。

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