第2話
「ひっ!」
「なんだよ、走ってきたのか?」頭の上から声が降ってくる。 そっと顔を上げると、梨羽先輩が立っていた。逆光で顔が見えない。酸素の足りない頭が、ぼんやりとした違和感を感じ取る。
(あれ……? なんで先輩は、もう練習着なんだ……?)
俺が息を調えている間に着替えたのだろうか。それにしても早すぎるような気がする。
梨羽先輩は、珍しく上機嫌で、「ほら、早く着替えろよー」と肩をもう一度叩くと、離れていった。
その日から、息が白くなるほど寒い朝には、かならず後ろから足音が聞こえてくるようになった。梨羽先輩に決まっている、と思うのに、なぜか怖くて振りかえることができない。そして足音の方もけして俺を追い抜くことはない。
スピードを上げれば、足音も早くなる。疲れてスピードが緩むと、足音もゆっくりになる。一定の距離を保っているのだ。
自分の吐く息で作り出される霧は、回数を重ねるごとに濃く、大きくなっていく。初日には顔のまわりに漂っているだけだった白い霧は、三回目には肩まで降りてきた。八回目の今日は胸のあたりまで白く霞んでいた。
体育館の入り口にある銀色の階段に、もはや恒例のように倒れ込んでいると、ポン、と肩を叩かれた。
「坂上、お前な、朝走ってくるのやめろよ」
「は?」
「朝練前に疲れることないだろ?」
「だって、梨羽先輩が」追いかけてくるから、と言おうとしたが、先輩のせいにしているようなので、言葉を飲み込んだ。
「僕がなんだよ? ああ、そうか。僕より遅いと怒られると思って走って来ているのか? それは気にしなくてもいいよ。特別早く来ているから、僕より遅くても遅刻だとは言わないよ。それにな……」とたっぷりためてから、「制服が汗で臭くなって女子に嫌われるぞ」さも大事な事のように言った。
「梨羽先輩だって、それは同じじゃないですか」
むっとして、つい言い返してしまった。
「は? 何言ってんだよ。僕は走って来てない。坂上よりも一本早い時間の電車に乗っているだけだ」
「え?」
一本早い時間の電車? それなら後ろから付いてくるのはおかしい……。梨羽先輩じゃないなら、後ろから付いてくるのは誰なんだ?
喉元にせり上がってくる薄気味の悪さを振り払うように、俺は頭を激しく左右に振った。
「いやいや、先輩、嘘でしょ? 毎朝、俺の後ろを走ってくるじゃないですか!」
「何言ってんだよ。そんなはずないだろ。じゃあなんで僕はもう練習着に着替えていて、お前は制服なんだよ?」
先輩はハハハ、と笑いながら言った。
「だって……」
口ごもる俺を見ると、先輩は左に首を傾けた。そして背後から俺の上にかがみこむと、顔を寄せてきた。
「なあ、もしかして、誰かに追いかけられるのか?」と声をひそめて聞く。
「はあ、まあ」
「それ、何回目だ?」
「え?」なぜ、何回も追いかけれていると知っているのだろうか? と一瞬おどろいたが、連日階段に倒れこんでいるので、そう思ったのだろうと、勝手に納得する。
先輩は周りを見回して、まだ誰も来ていないことを確かめると、俺の横に座り込んだ。
「なあ、坂上。お前、紅高校のチャペル、なんて呼ばれているか、知ってるか?」
「ホワイト・チャペル……ですよね?」
高校の敷地のはずれに、小さな白いチャペルがあるのだ。もうところどころ剥げているが、建てられた当初は白いペンキで塗られた木造のチャペルは真っ白だったからだろう。
「そうだよな。で、これを見ろ」
梨羽先輩は自分のスマートフォンをいじってから、俺に手渡してきた。
「ホワイトチャペル殺人事件? なんすか、これ?」
昔、イギリスで起きた連続殺人事件のことのようだ。現場がホワイトチャペル地区だったから、そう呼ばれているらしい。
被害者の多くが売春婦。喉を引き裂かれて死亡している。百年以上がたった今も、犯人は捕まっていない。
「気持ち悪いですけど、これが何か?」
「気が付かないのか? 犯人は切り裂きジャックって言われている、って書いてあるだろ?」
ほらここ、とスマートフォンの画面を指さしながら、梨羽先輩は出来の悪い生徒に教えるように言った。
「うちの高校の創業者は誰だ?」
「ジャック・R・カーターさんです。……あ」
「ジャック。それに、カーターっていうのは、『運び屋』っていう意味があるんだよ」
「運び屋……」
「紅高校限定の都市伝説、っていうのがあるんだけど……、それは聞いたことあるか?」
「いいえ……」
「霧の朝、石畳を歩くときは気を付けろ。霧がすっぽりお前を覆ったら、切り裂きジャックがやってくる。足音を響かせやってくる……。もしもジャックの運び屋を見たならば、もしもジャックの運び屋を見たならば、ジャック・ザ・リッパーがお前の中に棲み付くぞ……ってね」
先輩がマザーグースの唄の様な節をつけて、唄った。
「し、知りません……。でも、霧が……」
最近の朝の出来事を、全て先輩に話した。先輩は笑ったりせずに、真剣な顔をして聞いてくれた。
「行こうぜ。もう練習が始まる。明日の朝、僕が後ろからついて行ってやるから、心配するな。もしも霧に包まれたとしても、僕が後ろにいれば、切り裂きジャックの運び屋を見なくて済むだろ? さあ、行くぞ」と耳打ちすると、俺の肩を励ますように、バンッと叩いて立ち上がった。
先輩の後ろから、コートに歩いていく。いつの間にか、他のメンバーがコートの準備をしてくれていた。
(梨羽先輩、いつも口うるさいとか、面倒くさい奴とか、正論ばっかり、とか思ってすみませんでした)と心の中で謝りながら、練習の輪に入った。
「おう、大丈夫だったか?」と一年の佐山が声をかけてきた。「梨羽先輩に怒られてたんだろ?」
梨羽先輩はやっぱりそんなイメージなんだな、と思うとおかしくなって笑った。
「いや、今日はけっこういい話だった」と返すと、佐山は心底不思議そうな顔をした。
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