野球人

マイタケ

野球人

 世界がゾンビだらけになってから三年。俺は一人で数百体のゾンビを駆逐して英雄になった。世界がこんなになる前、俺はプロ野球選手だった。だが一軍の試合に出場したのは、数十回だけ。あとはずっと二軍でくすぶっていた。


「井越は足が速い、パワーもある、守備もいい」


 俺がドラフト1位で入団した頃は、誰もが俺に期待した。


「井越、また三振か」「バットにボールさえ当たればなぁ」「井越か。どうせ三振だろ」


 しかし一軍の試合に出始めると、期待は失望に変わった。俺は十二球団の選手の中で断トツトップの三振率という不名誉な記録を叩き出し、シーズン半ばで二軍送りとなった。だが俺は諦めたわけじゃなかった。幼いころからずっと松井みたいなホームランバッターになるのが夢だった。中、高、大とずっと頑張ってきたのだ。今に見ていろ。一軍でホームランを量産してやる。そう思って俺は誰よりも熱心に練習に打ち込んだ。


 練習の成果は意外な形で現れた。世界中がゾンビの脅威に怯えるようになり、プロ野球の開幕が絶望的になった。それだけでなく、国家は分断され、街は滅び、生き残った人々は武装して建物に籠り、ゾンビの脅威に対抗した。


 だが建物に籠って怯えてばかりいても、野球は上達しない。俺はいつか来るであろうシーズン開幕にむけて、野球の特訓をしなければならなかった。俺はゾンビがうようよいる野外のグラウンドに出向いて、素振り、塁間走、遠投、トスバッテッィング、筋トレなどの練習を毎日行った。問題は、人の臭いを嗅ぎつけたゾンビがわらわらと集まってきて練習の邪魔になることだった。仕方ないので俺は、バッテッィングの練習だと思って、迫りくるゾンビの頭を正確に次々フルスイングで打ち抜いていった。


 そんなことをしているうちに俺の名は伝説になっていたらしい。「プロ野球選手の井越が、ゾンビを駆除しまくっている」噂が噂を呼び、俺は野球をやっていた頃より有名人になっていた。「井越さん、僕たちの街を守ってください」そのうち、人々は俺を英雄扱いして、街のリーダーに祭り上げようとし始めた。だがそんなことをされると野球の練習ができない。そこで俺は行く先々でゾンビを駆除するかわりに金をもらい、全国を転々と渡り歩く旅人になった。


 一年経っても、二年経っても、ゾンビの脅威は去らなかった。俺はバット片手に、ユニフォーム姿で全国を放浪し続け、足掛け三年、ついに出発の街、西宮まで戻ってくることとなった。


「井越が帰ってきたぞ!」「阪神の井越だ!」「ゾンビハンター井越だ!」


 俺の帰郷を、西宮の人々は大歓声で迎えた。野球をやっていた頃は見向きもされなかったので複雑だが、久々にホームに帰ってこられたことは素直に嬉しい。うわさはたちまち広がり、街はパレード並みの大騒ぎになった。その後、俺は大勢の人々に無理矢理連れられ、夕方からバッティング練習があると言っているのに、結局この街の新たな指導者だという男に引き合わされた。


「井越さん。ちゃんと話すのは初めてですね」


 俺に握手を求めたその男のことを、俺はよく知っていた。いや、日本国民ならだれでも知っていたに違いない。


「柳選手。お会いできて光栄です」


 西宮の指導者になっていたのは、ホークスの柳だった。打率三割、ホームラン三十本、盗塁三十回、いわゆるトリプルスリーを何度も達成している、名実ともに日本球界のトッププレイヤーだ。柳もゾンビが世に溢れて以降、色々あって、今はこの西宮の街の指導者として人々を支えているらしい。


 柳と俺は同世代だった。もちろん野球の成績は柳の方が圧倒的に上だが、俺は現役時代からずっと、密かに柳をライバル視していた。いつかあいつに追いついてみせる。俺の方が凄いと証明して見せる。そう思ってテレビ越しに柳の活躍を羨んでいたものだ。その柳と、こうして西宮で語り合う日が来るとは思わなかった。俺と柳は、荒廃した街の真ん中にあるバーのカウンターで酒を酌み交わし、この世界のことや街のこと、そして野球のことを深く語り合った。


「井越、相談があるんだ」


 それから数日後、早朝からグラウンドで素振りをしていた俺の元に、柳がやってきた。もうこの頃には、俺たちはお互い敬語を使わなくていいくらいすっかり打ち解けていた。


 柳の相談はこうだった。この西宮の街は、今はゾンビの脅威を抑え込み、なんとかうまくやっている。だがその均衡が崩れつつある。街の東部の、阪神甲子園球場。そこが今やゾンビたちの一大拠点となってしまっており、それが尼崎や大阪方面からのゾンビどもを呼び寄せ、ますますゾンビの増加は加速している。このままゾンビが増え続けると、甲子園から溢れたゾンビは、西宮の街を襲うだろう。そうなればこの街も、もはや耐え切れる保証はない。


「それで、俺にどうしろというんだ?」


 俺が聞くと、柳はまっすぐにこちらを見つめ返した。


「俺と来てくれ。甲子園のゾンビどもを一匹残らず駆逐しなければならない」


 俺は断ろうとした。俺はゾンビハンターじゃない。ただ野球の練習がしたいだけだ。街の人々の生活も大事だが、俺はこの柳を超えるようなホームランバッターになって、将来の日本球界を背負って立つという夢がある。


だが、俺が口を開きかけるよりはやく、柳はグラウンドに膝をついていた。


「このとおりだ、井越。頼む」


 グラウンドに土下座した柳の姿から、俺は鬼気迫る覚悟を感じた。トリプルスリーを何度も達成し、ホームランを量産して日本中を沸かせるあの柳が、野球以外のことにここまでの情熱を燃やし、そして阪神の井越に土下座までして、協力を頼んでいるのだ。


「……分かった」


 気づくと、俺は柳の頼みに頷いていた。自分の夢の実現のためなら他人のことはどうでもいい? 俺の夢はそんな独りよがりな選手になることではなかったはずだ。


 翌朝、縦縞のユニフォームに身を包み、黒と黄のヘルメットを被った俺の元へ、白地に黄色の線の入ったユニフォームを身につけ、黒のヘルメットを被り、黒のバットを携えたホークス時代と変わらぬ姿の柳が現れた。


「井越、来てくれてありがとう」


「別に。俺はただ、ホームグラウンドで練習がしたいだけだ」


 俺がそう言うと、柳は少し笑って、バットを肩に担いだ。そして俺たちは甲子園球場の入り口へと歩を進めた。球場に近づくと、中からは既に大量のゾンビたちの呻き声が聞こえてきていた。


「なあ、井越」と柳が言った。俺は目線で柳に問い返した。


「俺は、プロ野球選手ってのは、人に希望を与える仕事だと思ってる。そしてそれは街の指導者もおんなじだ。だから俺は、俺自身のいまの立場に、本当に誇りを持ってる。俺の存在は西宮の人々の希望だ。そして井越、お前も」柳はそう言うと、バットを掲げ、遠い目でスタンドを見つめた。「だから絶対に生きて帰ろう。絶対に生きて帰って、俺たちが今度はこの日本の希望になるんだ」


 俺と柳はいよいよグラウンドに入場した。入った瞬間、四方八方からゾンビが襲い掛かってきた。俺はいつも通り、ゾンビたちの頭を正確にフルスイングで打ち抜いていった。一人、また一人、ゾンビは戦闘不能になっていく。隣を見ると柳も、凄まじいスイングスピードでゾンビの頭蓋骨を次々粉砕していた。さすが球界一のスター選手だ。俺も負けてはいられない。俺は無心になってひたすらバットを振り続けた。気づくとバッターボックスの周りには既に死屍累々の山が築かれていた。


 しかしゾンビの数は一向に減らなかった。俺たちはグラウンドを走り回りながらひたすらバットを振った。次第に乳酸が腕に溜まり、スイングスピードが落ちてくる。だがこれしきのことでへこたれてはいられない。腰を回転させ、バットは最短距離で、ヘッドを立てて、前で思い切りインパクト、手首を返して振り抜き、スタンドへと叩き込む。いつしか俺の意識はゾンビから離れ、何万回と繰り返したスイングの動きを正確に反復することに研ぎ澄まされていた。


「もうラストスパートだ。行けるよな井越」


 柳が大声でそう叫んで、俺は我に返った。気づくと俺たちは広い外野にいて、お互いが背中合わせで必死にバットを振っていた。


「当たり前だ」

 俺は大声で答えて、何百回目かのフルスイングをした。周りを見ると、グラウンドの至る所に頭を砕かれたゾンビが寝転がり、立ってこちらに向かってくるのはもはや数えるほどとなっていた。俺は後ろで柳のバットが唸る音を聞きながらゾンビを倒し続けた。


「これで最後だ!」


 そしてラスト一体。左打席に入った柳と、右打席に入った俺、同時に振り抜いたバットが巨漢のゾンビの頭を吹き飛ばし、センター方向へ放物線を描いた。そのアーチが完成するのを見届けたあと、俺たちは肩で息をしながらお互いの顔を見合わせた。二人とも返り血で真っ赤だったが、その表情は、六甲から吹き降ろしてくるあの風のように颯爽と澄み渡っていた。


 だがそのときだった。柳の足元で、死んだと思われていたゾンビが微かに動いた。危ない! と思った時にはもう俺の体は動いていた。俺は咄嗟に柳を突き飛ばし、足元に迫るゾンビから遠ざけた。柳の驚いた顔が一瞬見えた。下を向くと、ゾンビは突き飛ばされた柳の代わりに俺の足首に迫ってきている。ゾンビに体のどこか一部でも噛まれたら、ほぼ確実にウイルスに感染し、噛まれた方も数時間でゾンビになってしまう。そのおぞましいゾンビが自分に迫る光景が、まるでスローモーションのように俺の目に映った。なぜこんなことをしてしまったのだろう。俺には日本一のホームランバッターになるという夢があるのに。だがもう避けるにはタイミングが遅すぎた。俺は真っすぐ柳の方を見つめながら地面に足を踏ん張った。同時に右足に鈍い痛みが走り、血がにじむのが分かった。そのあと俺は冷静にバットを持ち上げ、まっすぐ振り下ろしてゾンビの頭を粉砕した。


 しばらくして柳が険しい顔で立ち上がった。その表情は、既に心の中で何かを決意していることを物語っていた。柳はバットを真っ直ぐ頭上に掲げ、俺の顔を睨みつけた。明らかな戦闘態勢だ。だが不覚にも綺麗なフォームだと思った。


「井越、俺は今からお前を殺さなくちゃならない。お前のような身体能力を持つゾンビを生み出してしまうと、せっかく甲子園のゾンビを皆駆逐しても元の木阿弥だ」


 俺はバットを下ろしたままその場に立ち尽くした。俺がゾンビ。俺の野球生命が絶たれる。俺の人生が終わる。様々な言葉がしきりに脳に反響していた。


「井越、本当にお前には感謝してる。でも俺は人々に希望を見せなきゃならない。それがプロ野球選手としての俺の使命だ。悪く思わないでくれ」


 俺の使命。そんな柳の言葉が、俺の心を捉えた。そうだ、俺には使命がある。日本一のホームランバッターになる使命が。そして俺が今立っているのは、聖地甲子園球場。俺のホームグラウンドだ。


 俺はすんでのところで見失いかけた自分を取り戻した。ゾンビが何だ。かつて復帰不可能と言われた怪我から立ち直り、このグラウンドを駆けた選手がいた。命を脅かす病気から生き延び、ここでホームランを打った選手がいた。俺はまだ終わっていない。ここで死ぬわけにはいかない。決意した俺はバットを頭上に掲げ、柳と向かい合った。柳は戦闘態勢のフォームを崩さないまま、一瞬驚いた表情をした。


「柳、俺はここで死ねない。必ずウイルスを克服して、日本一のホームランバッターになってみせる。だからそれを邪魔するなら、誰だって倒してやる」


「井越、頼むから大人しくやられてくれ。お前を苦しませたくない」


 俺は柳の目を真っ向から見つめた。それだけで柳には伝わると思った。柳はもう何も言わず、目を鋭くしてこちらへにじり寄った。俺もそれに呼応して一歩前に出る。もうあと一歩で、お互いのスイングの間合いだ。あとはスイングスピードが速い方のバットが、先に相手に到達する。二人の間に緊張が走った。俺は一歩前に踏み出し、左足を振り上げた。柳も右足を振り上げ、二つのバットが同時に動き出す。だが一瞬速いのは柳のバットの方だった。俺は咄嗟に、当たる、と直感した。


 だがそれでも俺は避けなかった。反対にさらにもう一歩前に踏み込み、溜めた腰の回転を爆発させた。柳のバットが下から俺の頬骨のあたりを捉えた。鋭い衝撃が後頭部まで突き抜けた。だが俺はそれでもスイングのフォームを崩さなかった。頭をブレさせないのはバッティングの基本だ。俺は顔面に柳のフルスイングを浴びながら、腰の回転をさらに速めた。柳の驚愕する顔が一瞬俺の目に移った。柳のバットは振り抜かれることなく、俺の顔面で完全に止まっていた。


 柳、俺はお前を超えていく。そう心で宣言しながら、俺は思い切りバットを前に繰り出した。俺のスイングは風を切り、ストライクゾーンど真ん中、柳の腹部にクリーンヒットした。そのまま俺はバットを振り抜き、柳の体を数メートルも吹き飛ばした。


 そのあと俺は地面にうずくまった柳の元に歩み寄った。柳は腹を押さえて苦しそうにしながら、それでも俺を見上げて何とか笑って見せた。


「負けたよ井越。その体幹とパワーがあれば、きっと50本は打てるぜ」


「その予定だ」


 俺は柳に笑いかけたが、なにぶん頬が痛むのでうまく笑えていたかは分からない。だがそれでもいいのだ。俺と柳は心で通じ合っていた。


「それで、これからどうする気だ?」柳が聞いた。


「山に籠ってウイルスを克服する。ついでに足腰を鍛えて打球の飛距離も伸ばす」


 俺がそう言うと、柳は思わず噴き出した。「勝手にしろ。野球馬鹿」


「次会う時は日本シリーズだな」


 俺は柳に宣言して、バットを担いだ。これからまた放浪だ。人生はまだ長い。俺はヘルメットを脱いで球場に掲げながら、浜風の吹き抜ける甲子園を後にした。

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