第6話

 全てを思い出した俺は、楓香のもとから逃げ出すように帰宅した。

 あれ以上、共にいることが耐えられなかった。楓香は俺を現実に連れ出そうとしているのだ。

 だけど、俺にはもう家族のいない世界で生きていける自信がない。世の不条理に押し潰されてしまうだけだ。

 なら、夢に耽溺して死した方がずっといい。


「おかえりなさい、蓮」


 帰宅した俺を母が迎えてくれる。


「おかえり、蓮」


 リビングでテレビを見ていた父が迎えてくれる。


「ん、兄貴。おかえり」


 ちょうど部屋から飲み物を飲みに出てきた柚が迎えてくれる。

 それは俺が望んだ家族の姿。心の底から求めた日常。そのはずだ。

 けれど、今の俺の目には何かが欠けているように思えた。

 その理由はきっと、彼らが既に死んでいると知っているから。全てはまぼろしに過ぎないと知ってしまっているから。それだけだ。

 現に記憶を取り戻すまでの俺は何の疑問も抱いてはいなかった。


 だから、今の俺もただありのままに、家族が失われる前と同じように、振る舞えばいい。


「っ……」


 なのに、どうしてか言葉が出ない。以前のように振る舞えない。

 両親と柚は不審そうにこちらを見る。

 しかし、それが俺の目にはまるで人形がこちらを見ているように思えた。

 俺の意思が反映された不可視の糸が彼らを操っているように感じられた。


「……ごめん、ちょっと体調悪いからもう寝る」


 俺は何とかそれだけ言い残すと、自分の部屋に戻った。そのままベッドに横たわる。

 脳の過負荷に耐えかねたように、俺の意識は闇へと落ちて行った。




「おはよう、蓮。体調はどう?」


 朝起きた俺がリビングに行くと、母だけがいた。父は仕事で柚は部活だろう。


「……問題ない」

「なら、良かったわ」


 母はホッと安堵の様子を見せる。しかし、俺の目にはやはり作り物めいて見えた。

 この世界の全ては俺が生み出した存在に過ぎない。

 無意識的な部分も読み取ることで限りなく本物に違いのかも知れないが、それでもやはり何かが足りないと思えてしまう。


 魂、とでも呼べばいいのだろうか。

 現実でも決して認識し得ないものではあるが、俺は目の前の存在がそれを持たないことを確信してしまっている。

 だからこそ、違和感を覚えてしまうのかも知れない。


 それとも、魂の有無がその言動に確かな違いをもたらしているのだろうか。

 少なくとも、記憶を辿る限りでは一切の違いはないように思える。

 微細な感覚のみが違いを訴えかけてくる。

 そして、それは俺に生理的な嫌悪感を与えてくる。


 そんな今の俺には学校は地獄の様相を醸し出していた。

 視界を無数の人形が蠢いているような気味の悪さだ。

 吐き気を堪えるようにしながら俺は自らの席に着く。


「あいや~? 蓮きゅん、顔色悪くない?」


 いつものように陽気に話しかけてくる茉莉。しかし、その瞳の向こうは虚ろに思えた。

 身近な人間が異なって見えるのは、俺の心身に一層の負荷を掛けていく。


「……何でもないから気にするな」


 俺は不快感を堪えながら絞り出すように言葉を発した。

 しかし、茉莉は放っておいてはくれない。


「何でもないようには見えないってば。保健室行った方がいんじゃない?」


 茉莉は俺のことを心配してくれているのだ。きっと彼女ならそうするだろう。

 だからこそ、耐えられない。俺が願ったままに動いているように思えてしまう。

 無機質な人形が迫ってくる。本能的な恐怖を覚えた。


「っ……!」


 俺は気が付くと、茉莉の手を払い除けていた。

 危険を与えようなんて気は毛頭ない、優しさから伸ばされた手を。

 教室内は水を打ったように静かになる。

 茉莉は愕然とした表情で自分の手を見ていた。その目にじわりと涙が浮かんでくる。


「あっ……ごめん……わ、わたしっ……」


 喋り方も乱れた彼女は、慌てて目元を手で覆い隠し、目前から走り去った。

 胸に刺すような痛みが走る。

 今、俺は彼女の優しさを踏みにじったのだ。繊細な彼女の心を傷つけた。

 例え彼女が現実の茉莉でなくとも、それは罪深い行いだと強く実感させられた。


 周囲から非難の視線が突き刺さる。針の筵だ。

 けれど、今はそれが好ましく思えた。

 罰を受けなければならない。苦しまなければならない。

 きっとこの夢の世界こそが俺の求めた地獄。

 これまでの安穏とした日々は前座に過ぎなかったのだ。

 全ての存在が俺を拒絶し、否定し、心身を襲う苦しみの中で惨めに死んでいく。

 それは浅はかに家族の復活を願った俺に相応しい末路だろう。


「蓮ちゃん」


 俺が深く暗い思索の海に沈みこんでいると、急に声が聞こえた。

 光の向こうから伸びてきた手が、俺の意識を海の底から引き上げる。

 気づかぬ内に楓香が傍にいた。彼女の手は俺の腕を引っ張っている。


「行こう」

「……どこに?」

「んーと、どこか!」


 楓香はにこやかに笑みを浮かべて言う。もうすぐ始業だというのに廊下に連れ出された。

 彼女は転校してきてからというものの、俺の想像もつかないことばかりをする。その自由さは彼女の魂の煌めきのような存在を強く感じさせた。

 楓香は俺の手を引いていく。それは七年前を思い出させた。あの頃とは逆だが。

 俺が願った夢の世界を壊しに来たはずの彼女に、今はどこか安心している自分がいた。




「やっぱり授業をサボるならここだよねー」


 楓香が連れてきた先は屋上だった。

 金網に囲まれた正方形の空間。

 全てを吸い込んでしまいそうな青空と軽やかに吹き流れていく風を感じる。

 それは病んでいた気を少し楽にしてくれた。


「楓香、手」


 俺は繋いだままの手について指摘する。目的の場所まで来たのだから、不要なはずだ。


「えー、離さないと駄目?」

「別に逃げたりしないから離してくれ」

「ちぇっ」


 彼女は不満そうな顔で手を離す。離れた手のひらには僅かな温もりが残って感じられた。

 俺は地面に腰を下ろすと、金網にもたれかかった。すぐ隣に楓香も同じように座る。


「汚れるぞ」

「いいよ、別にそれくらい」


 二人してぼんやりと空に視線を巡らせる。

 少しして、俺はポツリと問いを投げかける。


「なあ」

「なぁに?」

現実むこうの俺はどうなってるんだ?」

「昏睡状態で入院中。神社の人が見つけたって」

「そうか」


 神社の人とは茉莉だろうか。彼女の両親のどちらかだろうか。

 誰にせよ、申し訳ないことをした。きっと迷惑を掛けたはずだ。いや、今も掛け続けているか。


「どれくらいの時間が経ってる?」

「三か月かな。現実あっちはもう秋だよ。私も二学期に合わせて引っ越してきたんだ」

「本当に戻ってきてたのか」

「そうだよ! 蓮ちゃんとの再会をワクワクしてたのに、学校で名前を聞いたら……」

「……悪いな」

「……仕方ないよ」


 少しの間、互いに口を閉じる。自然の奏でる音だけが響いていた。

 やがて、俺は楓香に一つの問いを投げかける。それは問わねばならないことだった。


「俺を、ここから連れ出すのか?」

「蓮ちゃんはどうしたいの?」

「……父さんも、母さんも、柚も、いない。そんな冷たい世界で生きてはいけないと思う」

「なら、それでいいんじゃないかな」


 俺は少し驚いて、楓香の顔を見た。彼女の表情に変化はない。本心で述べている様子だった。

 まさか肯定されるとは思っておらず、俺は肩透かしを食らった気分となる。


「じゃあ、楓香はどうして来たんだ?」

「そんなことも分からないの?」


 楓香は呆れた顔でこちらを覗き込んできた。

 俺はその理由に思い当たるものはなく、目を逸らす。


「……済まない」

「蓮ちゃんは仕方ないなぁ」


 彼女は軽く息を吐き出し、微笑を浮かべた。

 そして、姿勢を和らげたかと思えば、澄み渡った瞳で俺を見つめ、慈しむように言葉を紡ぐ。


「好きだよ。七年前からずっと」


 その言葉は清水のようにスーッと俺の心に入ってきた。彼女の想いに何の隔たりもなく触れたと感じさせる。

 胸の内が陽だまりのようにポカポカと温かくなっていく。鼓動が激しくなり、首元から熱が上っていくのを止められない。

 しかし、それは決して苦しみではなく、むしろ喜びに満ちていると思えた。


「あはっ、いざ言うと恥ずかしいね」

 楓香は照れくさそうに呟き、顔を赤らめていた。けれど、その目はこちらを見つめて離さない。

 俺は何かを言わなければと思うが、なかなか言葉が出てこなかった。


「……その、ありがとう」

「蓮ちゃん、顔真っ赤~」

「楓香だって」


 俺達は互いにはにかみ合う。そんな瞬間も心地良いと思える。

 少し落ち着いてから、楓香は改めて告げる。


「好きだから一緒にいたい。それが現実でも夢でもどこでも構わない。誰より大切なあなたと同じ時間を過ごしたい。だから、私は来たんだよ」


 その力強い宣言に、俺は一つの考えを棄却する。


「そうか……なら、ここから追い出しても無駄か」


 楓香を無理やり現実に戻すという手立ても考えはした。

 そうして、再び記憶を封印すれば元通りだ、と。

 しかし、彼女の態度からするに、何度でも戻ってきてしまうだけだろう。


「その時はあいるびーばっく! と言い残すよ」

「ターミネーターだったか」

「蓮ちゃんからすれば、未来から来てるしね」

「確かに」


 他愛もないやり取りだが、自然と笑みが零れた。


「これからどうしていくか、まだ決められそうにはない。だから、少しだけ待ってて欲しい。ちゃんと、考えたいんだ」

「うん、待ってる」


 楓香は晴れやかな笑みと共に頷いてくれる。

 そこで一時間目の終了を告げるチャイムが鳴り、俺達は教室に戻ることにした。

 まずは茉莉に謝ろう。それは今の俺が真っ先にすべきことだ。


 この世界の茉莉は俺に見えている彼女でしかないのかも知れないが、それは紛れもなく俺の知る彼女なのだと思える。決して異なる存在などではない。

 だからこそ、不義理をしてはいけない。誠心誠意を示さなければならない。

 そんな風に思うと、人々が操り人形のようには見えなくなった。違和感を感じることはなかった。楓香がくれた想いも関係しているかも知れない。

 何はともあれ、今の俺には向き合うべき相手がいると思えた。きっと、そこで答えが出るだろう。

 何となくだが、そんな予感があった。




 父さん、母さん、柚、そして俺。家族全員が食卓に揃っていた。

 それは既に失われてしまった風景。俺の心象が描いた夢。

 そう思うと涙が湧き出そうだったが、今はその時ではないと堪える。


「蓮、どうかしたの? 神妙な顔をして」


 母さんが優しく声を掛けてくれる。

 俺の不調や異変に誰より早く気がつくのは、いつだって母さんだった。俺自身が気づいていない時にすら、勘づいて教えてくれることがあった。


「何か悩み事があるなら、父さんに話してみるといい」


 父さんは鷹揚と語りかけてくれる。

 鈍感な部分はあったが、それでも一番頼りになる大人だった。豊富な知識と経験から、何度も俺が自分なりの答えを導き出す手助けをしてくれた。


「楓ちゃんに振られた?」


 柚はからかうように問いかけてくる。

 最近は年頃らしくませた言動も多かったが、それでも優秀で可愛い自慢の妹だ。何より、みっともない姿を見せたくない、かっこいい兄でありたい、と俺に思わせてくれる存在だった。


「えっ、恋人がいるの?」

「何だって、詳しく聞かせなさい」


 両親は興味津々な様子で顔を寄せてくる。


「別に振られてない」


 俺はすぐに否定したが、柚は箸を進めながら素知らぬ顔で追撃してくる。


「付き合ってることは否定しないんだ、ふーん」

「ぐっ……いや、付き合ってもいないぞ」

「付き合ってなくとも、その兆候はあるわけだ」

「むぅ……」


 俺はそれ以上、言い返せなかった。そんな様を柚は鼻で笑う。


「兄貴は意外とボロを出しやすい」

「なるほど、そういう話なら百戦錬磨の父さんに任せてもらおうか!」

「こらこら、息子の恋愛事情に口を出すのは野暮ですよ。というか、その百戦錬磨という部分について詳しく聞きたいところですが」


 母さんは穏やかながらも鋭い口調で父さんに詰め寄っていた。柚は特に気にせず食事を続けている。

 俺はそんな様子に頬を緩める。例えそこに魂がなくとも、本当の意思がなくとも、それでも紛れもない俺の家族がそこにはあった。

 だから、話をしよう。俺が進むべき道を知る為の話を。


「いや、そのことは関係ない。でも、悩んでることがあるんだ。父さん達に聞いて欲しい」


 俺の雰囲気から何かを感じ取ったのか、彼らは一様に頷いてくれた。マイペースな柚でさえも手を止めてくれていた。


「将来、について悩んでるんだ。これからどうしていくか、最近よく分からなくなってる」


 俺は言葉を選んで伝えていく。ありのままを語るのは避けた。

 皆は既に死んでいる、というのも意味不明な話で、それ以上にそのことを知って欲しくはなかった。

 この世界でくらいは幸せに生きて欲しい。


「将来、か。何かなりたいものはあるのか?」


 父さんの問いかけに、俺は首を横に振る。


「特には」

「なら、具体的な話というよりは、もう少し抽象的な話なわけだな」

「そうだと思う」


 俺が聞きたいのはどんなことだろう。改めて考えてみる。

 現実。父さん達が死んでいる世界。誰もがその身に魂を宿している。

 夢。父さん達が生きている世界。俺と楓香以外、誰も魂を宿していない。

 単にこの二つを比較した場合、どちらを選ぶかなんて明らかだ。今は魂のない存在と関わることにも苦痛はない。俺からすれば夢には何の不都合もないのだ。


 俺以外に唯一、魂を持つ存在として楓香もいる。そこに魂はなくとも、茉莉や梗介のように親しい人物もいる。

 これ以上に望むことなど何があるだろうか。

 俺にとっての幸いが夢の中には満ちている。魂の有無など些細な問題に過ぎないと思えた。

 その上で問いかけることがあるとすれば、より根源的な部分。

 俺という人間に彼らが求めるもの。


「父さん達は、俺にどんな風になって欲しい?」


 俺の問いに、三人とも黙り込んだ。何かを考えている様子だった。

 彼らの考えがまとまるのを俺は大人しく待つ。

 少しして、柚が初めに口を開く。


「わたしには、兄貴が何に悩んでるのかも良く分かんないけど、情けない人間にはならないで欲しい。わたしが自慢したいと思えるような、そんな人でいてくれないと、困る」


 柚の言葉を受けて、俺は考える。

 夢に逃げる俺は情けない人間だろうか。彼女が自慢したいと思える人ではないだろうか。

 家族の死も乗り越えて生きていくことこそが、柚が俺に求める姿だろうか。


「柚は昔からお兄ちゃんに憧れてるものね」

「む、昔はそうだったかもだけど、今は違うからっ」


 柚は顔を赤くして反論していた。

 続けて、母さんが語る。


「母さんはあまり難しいことは言えないけど、蓮が幸せでいてくれれば、どんな風でもいいと思う。好きに生きて欲しい。だって、あなたの人生なんだから。たった一度の人生に正解も間違いもないわ。後悔はしないようにね」


 母さんの言葉を受けて、俺は考える。

 俺は夢の中にいる限り、幸せでいられると思う。

 なら、現実に戻って苦しむのは母さんが望む姿ではないはずだ。

 最後、熟考の末に父さんが語り始める。


「蓮は前に話したことを覚えているか? 誰かを愛するには、前提として自分を愛する必要がある、という話を」

「ああ、覚えてるよ」

「父さんはな、幸せというのも同じようなものだと思っている。自分が幸せだからこそ、誰かを幸せに出来るんだ。母さんが言う通り、蓮が幸せであってくれればそれでいい。けれど、もしそれ以上に望むとすれば、誰かを幸せに出来る人間であって欲しい。その人数が少なければいいというわけでも、多ければいいというわけでもない。ただ、自分にとって大切だと思える相手だけは幸せにして欲しい」


 父さんの言葉を受けて、俺は考える。

 自分が幸せだからこそ、誰かを幸せにできる。その考えには覚えがあった。

 以前の俺が人助けをしていたのは、誰かを幸せにしたかったからだ。それがなぜ行えていたかと言えば、自分が幸せだったからに他ならない。

 実際、家族の死を知ってからの俺は自分のことばかりだ。とても誰かの幸いを考えられる余裕なんて持ち合わせてはいない。


 そこで俺は今の自分に欠けていた観点に気づかされる。

 この夢が持つ唯一の問題。それは、俺だけが幸せな世界ということだ。

 例外として楓香がいるものの、この夢には誰かがいない。投影されるのは俺にとっての誰かでしかない。

 その違いは一言で言えば、魂の有無だ。


 果たして、現実に魂が存在するかどうかは誰にも分からない。

 けれど、それは分からないからこそ、在るかも知れない誰かの為に祈ることができる。ないと断言できてしまうこの夢とは明白に異なるのだ。

 夢の中では、誰かを幸せにすることは決して出来ない。己の幸いへと終始してしまっているから。世界が閉じてしまっている。


 そして、それは決して宮沢賢治が目指した「ほんとうのさいわい」に至ることはない。

 世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない、と書いたように。


 自分が幸せだと思えるからこそ、誰かを幸せにしたいと思えて、そんな考えが広がり世界が幸いで満ちた時、それこそが自分にとっても最上の幸いとなる。

 そういうことなのではないか。

 理想論だ。けれど、理想が存在しない世界よりはずっといいと思う。


 多分、現実に生きる俺が幸せになるには時間が必要だろう。すぐに家族の死を受け入れられるとは思えない。

 けれど、きっと大丈夫。この胸には大切な人達がくれた無数の想いがあるから。こんな俺を好きだと言ってくれた人がいるから。

 冷たく残酷な現実にも踏み出していける。その先に「ほんとうのさいわい」が待つと信じて。


 そんな風に考えた時、俺の答えは一つしかなかった。


「ありがとう、父さん、母さん、柚。もう迷わない。俺は行くよ」


 俺の決意は世界に反映されていく。

 気がつくと、リビングには誰もいなかった。

 空間が震えている。悲鳴を上げているようにも思えた。


 全てが終わる。いや、始まるのだ。止まっていた時間が動き出す。

 誰もいないリビングを出ていく。一度だけ、振り返る。

 そして、俺は家族と過ごした最後の時間に別れを告げた。




 静かだ。人の気配を感じない。既に消えてしまったのだろう。

 夜なのに光が瞬いていた。それは町を端から呑み込んでいく。


「蓮ちゃんっ!」


 異変に気づき慌てて俺の家まで駆けつけた様子の楓香。


「楓香……」

「何が、起きてるの?」

「行こう」


 俺は彼女の手を引いた。迫りくる光とは反対側へと走り出す。

 その光には引力があるようだった。それはきっと、俺の未練を表しているのだろう。この世界に残りたいという気持ちだ。

 だから、示さなければならない。引力の届く外まで抜け出す必要がある。

 それはまるでロケットのようだ。宇宙速度。重力から逃れる為に必要な速度。


「蓮ちゃん……いいの?」


 状況を理解したらしい楓香は問いかける。


「……ああ。これでいいんだ」

「……そっか」


 彼女はそれ以上、何も言わなかった。

 世界が溶けていく。真っ白になる。それでも俺達は走り続ける。

 もうどこを走っているのかも良く分からない。何も見えず聞こえない光の中を駆けていた。

 唯一感じるのは、手に握った温もり。それだけが俺という存在を引き留めてくれた。

 例え自らの身体のことが分からなくとも、気持ちだけは前に向ける。

 進め。進め。進め。ひたすら意思を発露し続ける。


 突然、何かに背を押された気がした。良く知る三つの影が見えた気がした。

『行ってらっしゃい』と聞こえた気がした。


 それは俺の願望が生み出した幻だったのかも知れない。けれど、涙を流さずにはいられなかった。これで本当に最後だ。もう振り返らない。

 灰は灰に。塵は塵に。土は土に。そして、夢は夢に。

 ここでの体験は全て忘れてしまうのだろう。

 だから、この想いだけは魂に刻み込む。大切なことを忘れてしまわないように。

 やがて、俺を捕らえていた引力がフッと失われた。


 優しい夢は終わり、過酷な現実が始まる。

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