断章1
俺が楓香と初めて出会ったのは、小学四年生の時だった。
その日、俺は学校から帰った後、商店街に向かっていた。新しい本を買うことが目的だった。
俺の家から商店街までの道程の間には小さな公園がある。
そこを通りがかった俺の目は、赤色のベンチにポツンと座っている一人の少女を捉えた。
髪が随分と長かった。まるで日本人形のようだ。
無表情でぼんやりしているとは思ったが、特段おかしいとも感じず通り過ぎた。
しかし、帰り道でもまだ同じように佇んでいたので、流石に気にしないわけにもいかなかった。
本屋にはそれなりに滞在していた為、十分な時間が経過しており、既に日が暮れかかっている。
門限で親に怒られたりしないのだろうか。少なくとも、俺はそろそろ帰らないと怒られてしまう時間だった。
気づけば、俺は少女に声を掛けていた。
何か困ったことでもあるのなら、力になれたらと思った。
「ねえ、君。どうかしたの?」
「……あなた、誰?」
少女の虚ろな瞳がこちらを向いた。
そこにはどんな感情の色も見出せなかった。
「俺は狩谷蓮。君は?」
「……天野、楓香」
「なら、楓ちゃんだ」
安易に決めた呼び名だが、異論はなさそうだった。
いや、正確には興味がなさそうだった。
彼女はここじゃないどこかを見ているように呆然としていた。
「で、楓ちゃんは今何をしているの?」
「何もしてない」
「もう遅いけど、帰らなくてもいいの?」
「…………」
楓香は先程までと少し反応が違うように思えた。
なので、そこから想像したことを問いかけてみる。
「もしかして、帰りたくない、とか?」
「……帰る」
彼女は立ち上がると、プイッとそっぽを向いて歩いて行った。俺の家とは正反対の方向だ。
付いていくことは出来ないが、その背に何か言葉を掛けたいと思った。
「明日、学校が終わったらまたここに来るよ! だから、その時は一緒に遊ぼう!」
彼女は振り返ることはなかった。果たして来てくれるだろうか。
翌日、放課後に俺がやって来ると、楓香は同じベンチに座っていた。
俺は安堵と共に声を掛ける。
「来てくれたんだ」
「……別に。いつもここにいるだけ」
「それでも嫌なら別の場所に行くことだって出来たよね」
「…………」
彼女は何も言い返さない。本気で嫌がられてはいない、と思う。
もう一歩踏み込んでみよう。
「さ、一緒に遊ぼう」
俺は半ば強引に彼女の手を引いたが、抵抗はされなかった。
「ここの遊具で遊んだことはある?」
そう問いかけると、彼女はゆるゆると首を横に振った。
なら、順番にやっていこう、と俺は思う。
小さな公園なのでそれほど大したものはないが、遊びは工夫だ。
遊具に飽きたならそれらに頼らないことも色々と考えよう。
そうして、関わっていく内に分かったことだが、どうやら楓香はろくに遊んだ経験というものがない様子だった。
ブランコの漕ぎ方のような、小学四年生ともなれば当たり前に知っているであろうことが、彼女には欠けていた。
なので、俺は一つずつ教えていった。鬼ごっこやかくれんぼのルール、野球ボールの投げ方、取り方などを。
楓香は相変わらず無表情だったが、俺の言う通りにしてくれた。
初めは楽しんでくれているのか良く分からなかったけれど、次第に僅かな表情の変化を読み取れるようになっていった。
決して感情がないわけではなく、その表現の仕方が良く分からないのだろう、と思えた。
だから、俺は彼女と遊んでいる時は笑顔で過ごすことを心がけた。楽しい時はこんな風にするんだ、と伝えるように。
そうしていると、楓香は少しずつだが、俺に心を開いてくれるようになっていた。
ある時、俺は公園に自分の妹を連れて行った。
俺一人よりも他の人とも関わった方が、彼女にとって勉強になるのではないかと考えた為だ。
三人なら遊びのパターンが増えるという理由もあった。
「お兄ちゃん、この人は?」
「俺の友達だよ。楓ちゃん」
小学一年生になったばかりの柚は、俺の後ろで不審そうに楓香を見ていた。
「紹介するよ。俺の妹の柚」
「そう」
楓香は相変わらず何を考えているのか良く分からない表情で頷いた。
「お兄ちゃん……この人、何だか怖い」
「怖くないよ。ちょっと笑うのが苦手なだけなんだ」
柚はしばらくの間は俺の後ろからなかなか離れなかったが、何度か一緒に遊ぶ内に楓香のことを俺と同じく「楓ちゃん」と呼んで懐くようになった。
楓香もまんざらではないように感じられた。
公園で遊んでいるだけでは変わり映えもしないので、他の場所に行くこともあった。
例えば、商店街だ。
俺は楓香を商店街にあるコロッケ屋に連れて行った。
そこは我が家が昔から利用している店で、コロッケや他の揚げ物を買う場合は必ずここだった。
俺が商店街に来るついでに頼まれることもあり、また一人で買い食いすることも少なくはなかった。
それゆえ、老店主にはすっかり顔を覚えられており、こちらも気安く話しかけるようになっていた。
「爺ちゃん、コロッケ二つ!」
「おうよ。何でぇ、今日は友達連れか。珍しいこともあるもんだ」
「まるで俺に友達がいないみたいな言い方やめてよ」
「違ぇのか? いつも一人で来るから俺ぁてっきり」
「違うよ! ちゃんといるから!」
老店主は呵々と笑いながら、手元でコロッケを揚げていく。
パチパチと音を立てる高温の油の中で、コロッケは白から鮮やかな茶へと色合いが変化していく。
楓香は珍しいものを見るようにその様を観察していた。
やがて、紙袋に入ったコロッケを手渡される。
揚げたては袋越しにも感じる程に熱々だ。
その味わいは、家に持って帰ってから食べるのとはワケが違う。
片方を楓香に渡すと、俺は彼女の前で湯気が出ているコロッケにかぶりついた。
サクサクの衣の内から肉汁がじゅわぁと染み出てきて、その味わいが口中を満たす。
火傷しそうな熱さだ。けれど、それが一層ジューシーさを感じさせる。
「ん~、やっぱりここのコロッケは最高だ」
「たりめえよ。こちとら四十年この店を構えてんだ」
老店主は自慢げに語る。何でもこの商店街が出来た頃からあるらしい。
楓香も俺の真似をするようにコロッケにかぶりついた。
目を少し見開く。驚きの表情だった。
そして、その口元は僅かに緩んでいるように見えた。
「美味しい?」
「……美味しい、と思う」
「そっか。なら、良かった」
美味しい、という感情は生きていくのに不可欠だと俺は思う。
だって、何かを食べて美味しいと思えたなら、人はそれだけで幸せな気分になれるから。
例え日常に辛いことがあっても、その間だけは忘れていられるから。
それはきっと、母さんから学んだことだった。
俺と楓香が初めて出会ってから一月ほどが過ぎた。
その間、俺達はほぼ毎日一緒に遊んでいた。
いつからか彼女は俺のことを『蓮ちゃん』と呼ぶようになっていた。少しずつだが、距離が縮まっているように思える。
けれど、今も俺は彼女が抱える事情については知らなかった。
なぜ彼女が一日の多くの時間を公園で過ごしているのか。なぜ物事をあまり知らないのか。なぜ表に出す感情が少ないのか。
多少の想像こそ出来たものの、まだ幼い身には考えつかないことが多かった。
特に家族に恵まれた俺には、楓香の事情を理解出来ようはずもなかったのだ。
だからこそ、俺は気づかぬ内に地雷を踏み締めてしまうこととなる。
「やっぱここはひんやりして気持ちいいな」
「うん」
最近は白樹神社に入り浸ることが増えていた。
その理由としては、境内の探検中に偶然発見した、本殿の裏側にある祠だ。
本格的な夏が近づいており、外にいるだけでも汗ばむようになっていた。
けれど、祠のある場所は木々に囲まれているので日陰となっており、立地が周囲よりも高所な為の涼しい風も吹いていた。
そろそろ外で遊ぶのは辛くなってきた中、偶然見つけたこの場所はオアシスのようなものだった。
まだ日は高いが、心地良さが勝っていた。
「もうすぐ夏休みだけど、楓ちゃんは何か予定とかある?」
「ううん。蓮ちゃんはあるの?」
「たくさんはないけど、父さん達と旅行に行く約束はしてるんだ」
「そうなんだ」
「楓ちゃんはどこか行ったりはしないの?」
「…………」
俺は何の気なしに聞いたつもりだった。けれど、彼女は俯いて沈黙してしまう。
重い空気が場を支配した。俺は自分が何かまずいことを言ってしまったのかと慌てるが、それがどの部分かを察することは出来なかった。
やがて、彼女は俯いたままポツリと呟く。
「蓮ちゃんはいいよね……家族が仲良くて」
楓香はその時、初めて己の胸の内を晒け出した。
堰が一度決壊すれば水を吐き出し切るまで止まらないように、彼女はこれまで秘めていた言葉を紡いでいく。
「うちは駄目だから……お父さんもお母さんもいつも喧嘩ばかりしてるから。私だって、家族で一緒に旅行したいよ。お買い物に行ったりしたいよ。学校であったことを聞いて欲しい。冷たくしないで欲しい。もっと優しくして欲しい。どうして私の家族はこうなの。蓮ちゃんの家族みたいじゃないの」
「楓ちゃん……」
俺は愕然とする。自分の無神経さを呪った。
これまで俺はどれだけ彼女を傷つけてしまっていたのだろうか。
彼女が置かれている境遇を何も理解していなかった。
「こんな世界は嫌……私は、お父さんとお母さんが仲良しな世界がいいっ……」
楓香が悲痛な叫びを口にした瞬間だった。
祠が黄金色の光を放ち始める。周囲の木々がざわめき、リンリンと鈴のような音が鳴る。
光は辺り一帯を包み込んだ。
そして、それは楓香へ向けて収束したかと思えば、彼女はフッと目を閉じてパタリとその場に倒れ伏した。
「楓ちゃんっ!」
俺は急いで駆け寄った。倒れた楓香は正常に呼吸をしている様子だったが、揺さぶっても目を覚ます気配はない。
「一体、何が……?」
すぐに人を呼びに行こうと考えたが、たった今起きた現象を説明しても信じてもらえるようには思えなかった。
明らかに異常な事態が起きており、楓香はそれに巻き込まれたのだ。
パニック状態の俺の脳裏によぎったのは、夢攫い、という言葉だった。
それに遭った者は、白樹様の力によって永遠の眠りに就き、夢を見続ける。
そんな風に教えられてきた。まさにそれこそが楓香の身に起こっていることなのではないだろうか。
ならば、それがなぜ起きたのか。
きっかけとなったのは、やはり先程の楓香の発言なのだろうか。
彼女は両親が仲の良い世界を願った。
白樹様はその願いを聞き届け、彼女に夢を見せている。
それはあまりに突拍子もない考えではあるが、混乱する俺には自然に思えた。
では、楓香を目覚めさせるにはどうすれば良いか。白樹様に願えば良いのか。
仮に白樹様は願った夢を見せるだけなのだとすれば、例え俺が楓香が目覚めることを願っても何の意味もない。
俺は悩んだ末に、それが可能かは分からないが、一つの願いを口にする。
その願いは俺にとってきっと償いでもあったのだと思う。
これまで彼女を傷つけてしまっていたことへの。
「白樹様! 俺を、俺を楓ちゃんの夢の中に入れてくれ! 彼女を助けたいんだっ!」
例え現実に戻ってこれなくなったとしても、それでも俺は彼女のもとに行きたい。
そんな願いを白樹様は聞き届けてくれた。再び祠が黄金色の光を放ったのだ。
すると、全身の力が抜けてその場に倒れていくのを感じた。
薄れゆく意識の中で俺は楓香を救うことだけを考えていた。
随分と長い夢を見たような感覚。
朧気な意識が徐々に明瞭になっていく。世界に焦点が合っていく。
身体が地に這いつくばっているのを感じる。
目を開くと、すぐ傍に楓香の顔があった。彼女はまだ目を閉じていたが、瞼を僅かに震わせた後、開いた。
俺達は互いに目を見合わせる。すると、彼女はどうしてか頬を赤らめ、目線を逸らした。
身体を起こして辺りを見回す。そこは変わらず白樹神社、本殿の裏にある祠の傍だった。
ただ、時間は経過しているようで、葉の間から射す日差しは紅へと移ろいでいた。
「楓ちゃん、大丈夫?」
「……うん、大丈夫」
俺は楓香に手を差し伸べる。彼女はその手を取り、立ち上がった。
「何があったか覚えてる?」
彼女は首をゆるゆると横に振った。
長い夢を見ていたという感覚だけあるが、その内容はまるで靄が掛かったようだった。
そこで得た想いだけがぼんやりと胸の内に宿っていると思えた。
「でも、何となくは分かる」
楓香は慈しむように両手を自らの胸に当てる。
「ありがとう、蓮ちゃん。私を助けてくれて」
「
「そんなことない。蓮ちゃんがいなきゃ、きっと私はどこにも行けなくなってたから」
「そっか……そう言ってくれるなら嬉しいな」
少しの沈黙の後、俺は言う。
「今日のことは俺達の秘密にしよう。きっとこれを他の人に知られるのは良くないことだから」
「うん、分かった」
頷く楓香の顔は今までにない晴れやかさに思えた。
彼女を取り巻く環境は何も変わってはいない。けれど、彼女は夢の世界で心境に変化を得たのだろう。
俺自身がどのように関わったかは残念ながら不明だが、それでも誰かを救うことが出来たという実感は確かな喜びを与えてくれた。
生きる意味を得たように思えた。
それから夏休みになる直前、楓香に両親が離婚したことを教えられた。
そして、自分は母親に連れられ遠方に引っ越すことも。
引っ越しの前日、俺達はいつもの公園で会っていた。
「……私、必ずこの町に戻ってくる。それで、その時にはきっと笑えるようになってるから、待ってて」
楓香は自分の口角に指を当てながら、ぎこちのない笑顔を形作って見せる。
「ああ。楽しみにしてる。だから、またね、楓ちゃん」
寂しくないと言えば嘘になる。少し泣いた。それは楓香も同様だった。
けれど、また会える。俺達はそう信じて別れた。
この後も俺は自分の在り方を模索していくことにはなるが、楓香と過ごした日々が全ての起源となったのは間違いない。
誰かを幸福に導く。それこそが俺にとって何より大切な行動原理となったのだ。
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