第15話  お久の正体

 池田屋事件から一か月ほど後のことである。その日はまだ昼間だというのに土方の呼びかけで酒宴が開かれた。場所は土方がひいきにしている鴨川沿いの料亭だった。池田屋のときにあやうく女中に襲われるところを誠子に助けてもらったことに対して謝意を表することが酒宴の趣旨だったことから、めずらしいことに土方自らが宴席の手配りをした。その酒宴には、誠子に命を救われた二人――まだ傷の癒えていない藤堂とようやく床上げしたばかりの沖田も同席した。これだけの面子だとさすがに盛り上がりにかけると考えたのか、宴席の趣旨とは無関係だが酒好きの永倉と原田も呼ばれた。


 誠子が料亭に着いたとき、主役そっちのけで酒宴はもう始まっていた。誠子としてはもともと宴席に出ること自体が初めてだったし、芸者遊びはもちろんのこと酒にもまるで興味がなかったので最初から乗り気でなかった。だから、かえってそうやって気を遣われずに済んでほっとする思いだった。

 誠子は、料亭の女将の先導で、風流な箱庭に面した廊下を通って部屋の中に通された。立ったまま一礼して敷居を渡り、顔を上げたところで、目の前の光景に誠子は驚愕した。誠子の眼前で、すでにしたたかに酔っている土方がいた。もともと酒はあまり強くないためか、顔も赤くなっている。ただ誠子を驚かせたのは、土方のそうしただらしない酩酊姿ではない。その隣に座って酒を勧めている芸者の姿だった。それはまぎれもなくあの女だった。数か月前に岡田以蔵に襲われたときに道端の商家の柱の影から呼びかけた遊女姿の女だった。


 あの時、女はあきらかに以蔵とグルだった。そしてふたりは自分の正体や狙いを察知していると思われた。しかしふたりの真の狙いがなんなのか、刺客とはどのようなつながりがあるのかは、誠子にもわからなかった。


 その答えは、すぐにはっきりした。あれから岡田以蔵は土佐に送還され、刑死したと言われているが、捕まるまえに新撰組の隊列に大胆にも真正面から切り込んできたことがある。


 その日は、祇園で不穏な動きがあるという知らせがあり、午後から珍しく土方を先頭に隊の幹部を従えて市中見回り行っていた。そこへ以蔵が切り込んできたのだ。まだ日が沈んでいない夕刻だったこともあり、まさか敵が単身正面から攻撃してくるとは誰も思っていなかったので、油断した。しかも以蔵はまるで空気のようになんの殺気も放たずにそのまま土方歳三の目の前にまで進んできた。夕闇がせまっているとはいえその数日前に岡田以蔵と実際に剣を交えた藤堂平助でさえ、その接近に気がつかなかった。誠子は視力も記憶力も並外れているため、もしその目の前を以蔵が横切ればすぐに気づいたはずであるが、あいにくその時は隊列の後方にいて異変に気づくのが遅れた。以蔵は、土方の正面に立つや剣を抜いた。もし以蔵が居合の達人ならその場で土方は真っ二つに斬られていただろう。しかし、居合の達人にくらべればほんの少し剣を抜くのに手間取った。その間に斜め後方にいた沖田がラガーマンのように以蔵の腰に向かってしゃにむに飛び込み、刀の柄を握る手と刀の鞘を両手でがっちり抑え込み、文字通り抜き差しできぬようにした。

「斎藤さん、頼む!」

 と総司が叫ぶやいなや、その後方にいた四番隊組長の斎藤一が猛然と走りこんできたが、それよりも一瞬早く誠子は刀を抜き、宙を舞っていた。そして以蔵の足と刀にしがみついたまま地面に倒れこんだ沖田の体を飛び越えて、以蔵の頭頂部めがけて剣を振り下ろそうとした。ところが、誠子の足が地上に降り立ったとき、以蔵の姿はもうそこになかった。なりふりかまわず刀を鞘ごとうち捨ててその場から逃げ去ったのだ。武士の命といもいうべき刀をいとも簡単に捨てるなど、武士以上に本物の武士たらんと日ごろから研鑽を積んできている新撰組隊員にとっては、信じられないことだった。しかも振り返ることすらせず背中を向けたまま、ももだちになって遁走したのだ。新撰組隊員ならそれだけで局中法度違反で切腹もしくは誅殺に値する行為である。

 誠子と斎藤一、藤堂平助は、すぐに以蔵を追いかけたが、細い路地を伝ってどこかの民家に潜り込んでしまったらしく、しばらくして姿を見失ってしまった。


 その翌日のことである。夜回りを終え、一人で屯営へ戻ろうとしていると、背後から誠子を呼び止める声がした。

「ちょっとそこの令和の兄さん」

 誠子はハッとした。

 その声の主は、いつかの遊女だった。振り返った誠子は、刀に手をかけた。しかしその女はあやしい微笑を浮かべたまま、なにもいわずに一人でそそくさと街道脇の居酒屋に入っていった。

 誠子は女のあとを追った。そして刀に手をかけたまま居酒屋ののれんをくぐった。場合によってはその場で斬り捨てるつもりだった。しかしその遊女は、すでに店の片隅の席についていて、熱燗を店主に注文していた。そして誠子の姿をみとめるなり、微笑しながらおいでおいでをする。まるで誠子に敵意を示すどころか、殺せるものなら殺してごらんという態度である。居酒屋には他に何人かの客もいた。ここで誠子が罪もない女を殺めたとなれば、客の目撃証言によって役人にとらえられ、かりに死罪を免れ得たとしても当分牢獄に閉じ込められ、土方の警護をするという自分の最大のミッションを果たせなくなることを知っているのだ。


 誠子は女に誘われるままに面とむかって女とさしで座った。女は相変わらず笑みをたたえながら誠子に酒を勧めた。誠子は断った。するとその女は、名前はお久であると自己紹介をしたうえで、そんなふうに肩ひじ張って生きたところでつまんないよと言いながら手酌でぐいぐい飲み始めた。そして問わず語りをはじめ、自分が与党陣営によって三番目に送り込まれた刺客であることと、岡田以蔵が土方を襲うように色をつかって自らの手でそそのかしたことをいけしゃしゃあと告白した。そしてこんどは別の手段をつかってかならず目的を達成するつもりだという。さらに、お前はきっと軍部の差し金だろうが、完全にだまされている、軍部の奴らの悪巧みに利用されているだけだと言い切った。


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