第13話 池田屋の死闘(前)

 年が明け元治元年(1864年)、その年の京は、前年に起きた八月十八日の政変以降、長州の勢力が一掃されたせいか、年明けから気味が悪いほどに平穏だった。やがてそのまま夏になった。しかし、表には現れないところで事態は動きはじめている。それを象徴するかのように季節はずれの流行り風邪が市中に蔓延していた。集団生活をしている新撰組は精神的な結束力は強いものの、そうした伝染病の攻撃にはめっぽう弱い。そのためその日も多くの隊員が罹患し、屯所に出動している隊員は三十名ほどしかいなかった。もちろん誠子もその中にいる。

 

 そこへ監察方の山崎すすむが壬生の屯所に姿を現わした。山崎を見るのは一か月以上ぶりであった。山崎は諸士調方しらべかた兼監察方という偵察や内情捜査や風紀の取り締まりを行う部門のリーダー的存在である。誠子はこの男がやや苦手であった。大柄で色白、一見温厚に見えるが、すべてを見通しているような冷徹な目をしており、誠子の秘密もすべて握られているのではないかという気がしたからだ。さらにひとたび暴れだすと沖田ら幹部でも手に負えない暴れん坊に豹変するとの噂が立つほど、剣の腕にも定評があった。いずれにせよ敵に回すと非常にめんどうな相手になることは確実に思われた。


 前日に古高俊太郎という古道具屋を営む男が捕らえられた。山崎ら監察方は市中における長州派浪士の動静が俄かに活発化していることを知り、彼らの動きを一か月ほど薬屋や乞食になどに変装しながら監視していた。そして古高の営む桝屋には、長州派の尊攘浪士が盛んに出入りしていることをつきとめた。すぐに副長の土方自らが古高への尋問にあたった。そして古高は土方による言語を絶するほどの苛烈な拷問の末に、六月二十日前後の烈風の晩に御所に火を放ち、その隙に京都守護職松平容保を斬り、天子をさらって長州に連れていくとの計画があることを吐いた。


 さらにその前に仲間内で下打ち合わせをするということも古高はもらした。しかし場所や日時は決まっていないという。それ以上のことは土方がいくら拷問を加えても口を割ろうとしなかった。


 土方は、古高捕縛の情報は不逞浪士側にも伝わっていると考えて、おそらく一両日中にも緊急の会合が行われるに違いないと踏んだ。監察方の山崎からの報告では、市中の池田屋と四国屋が怪しいという。その報告をするために久しぶりに壬生の屯所に侍の装いで姿を現わしたのだ。そこでその日の晩からさっそく土方は二十名を引き連れて四国屋に向かい、残りの十名を近藤が率いて、池田屋に乗り込むことになった。その代わりに近藤には沖田、永倉新八、藤堂平助、武田観柳斎などの精鋭があてがわれた。実際夜間の屋内の白刃戦になると身動きが取れないこともあり、数が多いからといって、必ずしも有利というわけではなかった。必要以上に増員すると同士討ちになる危険もあるからだ。


「中岡君は私といっしょに池田屋に来てください」

 と沖田は言った。こういうとき、いつもはまるでピクニックにでも出かけるような明るさでいう沖田だが、その日は少し様子が違った。心なしか顔色が悪かった。


 誠子は日にちまでもは記憶していないものの、新撰組の代名詞ともいうべき池田屋の変のことはさすがに聞き知っていた。から土方達が四国屋方面に行くのは無駄だとわかっていたが、全員池田屋に行くべきだ、とはいえない。何の根拠もないのだ。とくに山崎のように他人の秘密を飯のタネにしているような男のいる前で下手に口を滑らせれば、まちがいなく素性を疑われる。未来から来たことを理解してもらえればいいのだが、頭が固いうえに疑りぶかく嫉妬深い新撰組内において、ひとたび曲解され長州の間者という疑いでもかけられれば、もうここにはいられないばかりか血みどろの修羅場になるのは火を見るより明らかだ。ほんの数か月前にもその嫌疑で三名の隊員が粛清されたばかりなのだ。――だから黙っていた。


 やがて日が暮れ、近藤隊、土方隊はそれぞれ事前に示し合わせたとおり、各々の目的地に向かった。近藤隊が池田屋に着くとすぐに門の前に張り込んでいた乞食に変装した探索方のひとりが近寄ってきて近藤に耳打ちした。近藤は鼻息も荒くだまって大きくうなずくとすぐに隊員に対して自分と沖田、永倉、藤堂の四人が屋内に突入し、残りの六名は屋外を固めるよう短く指示した。誠子も屋外を持ち場とする六名の一人だったが、沖田の様子がなんとなく気になったので、四人が裏木戸から屋内に突入すると、持ち場を離れ四人の背中を追ってそのままそっと池田屋の屋内に侵入した。


 池田屋の一階には誰もいなかった。監察方の報告によれば浪士は総勢二十名、いずれも二階で酒盛りをしているとのことだった。百戦錬磨の近藤勇もこの時ばかりは武者震いのせいかさすがに顔が紅潮していた。しかし躊躇は一切なく、先頭を切って屋内に入ると斬り込み隊長の永倉新八をひきつれて階段を駆け上がっていった。


 一瞬の沈黙の後、すぐに浪士の一人が死体となって階段から落ちてきた。それが戦闘開始の合図となった。たちまち建物が大きく揺れ、きしむばかりの阿鼻叫喚の壮絶な死闘があちこちで繰り広げられた。二階にいた浪士たちはわれがちに階下に降りてくる。そこを沖田と藤堂が迎え撃つのだが、敵もさるもので簡単には倒れない。たまらず誠子も加勢に入った。そのまま互いの呼吸が自他いずれのものか区別がつかぬほどの切迫した白刃戦が暗闇の中つづく。


 が、しばらくして沖田の姿が見えなくなった。折悪く一瞬の静寂が訪れた。

「中岡さん、総司はどうしました?」

 と藤堂が誠子に声をかけた。表情は明るかった。やはり浩介に似ている、と思いながら、誠子は首をふった。藤堂平助は誠子の反応にうながされるように、一瞬、切先を下げ、まわりを見まわした。しかしそれが油断となった。二階から飛び降りてきた浪士が藤堂平助の顔面に長刀を振り下ろしてきたのだ。藤堂平助は額を割られてその場に昏倒した。その浪士は誠子にも襲いかかってきたが、誠子は、その太刀を一瞬早くかわし、おおまじめに「斬らせていただきます!」と発しながら勇躍して反対にその浪士の側頭部を上段から斬った。

 しかし浪士はそれでも倒れず、屋外へ逃げた。

 誠子はそれ以上深追いせず、完全に意識を失って大の字になっている血みどろの平助のもとに駆け寄った。そしてその小兵の体を抱き起し、おぶって屋外へ連れ出した。奇跡的に鼓動も息もあった。誠子は懐から手ぬぐいを取り出すと、手と口ですばやく二つに引き裂いてから平助の額に巻いた。

「おい、中岡、持ち場を離れるな!」

 と助勤の武田観柳斎が瀕死の藤堂平助のことなどまったく眼中にないという様子で高圧的な怒声を発した。まるで大石内蔵助にでもなったつもりなのか返り血ひとつ浴びずに浅黄のだんだら染め袖を風になびかせながら悠然と立っている。しかし誠子は無視した。沖田のことも心配だった。

 再び屋内に入ると、沖田が階段脇でぐったりしていた。しかもこちらも血みどろである。てっきり沖田もやられたと思ったが、どうやら刀傷はどこにもなく、意識もある。ただ激しくせき込んでいた。

「血を吐きました……。僕は動けそうにない。中岡君、すまないが、僕の代わりにここを頼むよ」

 そう虫の息でそういって苦悶の表情をうかべながら、さらに口から真っ赤な血を吐いていた。


 そこへゆったりと階段を下りてくる男がいた。あまりに余裕綽綽とした足取りなので、近藤か永倉だと思ったが、見知らぬ顔である。誠子は瀕死の沖田から敵の注意をそらすためさりげなく沖田から後方へ離れた。しかし男は抜刀したまま、誠子に近づいてくる。誠子は正眼に構えた。

「肥後浪士宮部鼎蔵」と男は低い声でつぶやいた。誠子もこの名前の男が今回の騒動の首魁であることは知っていた。事前に近藤からもこの男だけは必ずとどめを刺すようにと言われている。逃がすわけにはいかなかった。


 そのとき、戸外から屋内に駆け込んでくる足音がした。


「中岡君、この男、私に任せろ!」

 ――それは土方歳三だった。四国屋に向かっていた別動隊の二十名が応戦に来たのだ。しかし宮部は、動揺する様子もなく、口もとには不敵な笑みすら浮かべている。するとやにわに手にしていた鞘を土方に向かって投げつけた。そして立ったまま刀を自分の腹に突き刺し、ガクンと両膝を床につくと同時に返す刀で自分の首を掻き切って果てた。


 土方は宮部の絶命を確かめてから、あらためてここは自分に任せろと誠子に告げた。誠子はその指示に従い、沖田を連れて屋外へ出ていこうとした。沖田は昏睡していた。すぐに土方が真っ青になって駆け寄ってくる。

「総司!--やられたのか?」

 その目は半分涙ぐんでいた。

「いえ、大量に血を吐いたんです」

 それを聞くと土方の顔にわずかだが明るさがもどった。

「そうか、中岡、総司を頼む」

 とそういって、刀を手にしたまま階段の方へ駆け寄っていった。その様子を見送りながら、誠子は沖田の体を背負って屋外へ行こうとした。が、そこで誠子は、部屋の隅で背中を向けてうずくまっている女中の姿をみとめた。可哀そうに小さな体が震えている。誠子は足を止め、声をかけた。しかしその女中は振り向きざまに小刀で誠子の喉元に切りつけた。誠子は間一髪のところで、のけ反ってその攻撃をかわしたが、女中は誠子にはそれ以上目もくれず、まだ事態を把握していない土方歳三の背中に向かって猛進した。

(刺客だ!)

 誠子は、沖田をおぶったまま、跳躍して女中の背中に太刀を浴びせた。

「斬らせていただきます!」

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