第12話 人斬り以蔵
それから数日後のこと。誠子は同僚二人と夜回りに出ていた。沖田はたまたまその日所用があり巡察に加わっていなかった。
木屋町通を高瀬川に沿って北に向かって歩いていたら、土佐藩邸をすぎてしばらくしたあたりで誠子は背中に人の気配を感じた。ややあって足元で物音がした。何者かが石つぶてを投げつけたらしい。背後に人影が動いた。同僚の二人がそのあと追った。しかし誠子は動かなかった。前方の商家の柱の陰にもう一人の人間の気配を感じたからだ。その人影は闇からゆっくり誠子に近づいた。女である。しかし刺客特有の殺気は感じられない。赤い着物をしどけなくまとまい、裾を引きずりながら歩く夜鷹だった。頭巾をかぶっているので顔はよくわからない。
「お武家様、お情けをちょうだいいただけませんやろか?」
おしろいの匂いが鼻をついた。誠子は眉をひそめながら、向こうへ行け、という合図を片手で送った。女はうなだれぎみにきびすをかえそうとしたが、その瞬間懐から取り出した小さな匂い袋大の物体を誠子の頭上にむかって投げつけた。誠子は反射的に刀を抜いて、それを宙で二つに切った。しかしその途端に液体が顔にかかり薬品臭いにおいがは鼻をついた。そのとたん誠子の足元がふらついた。それどころか意識も朦朧としはじめた。
そこへ背後から黒い別の人影が近寄ってきた。
(しまった。謀られた――)と思ったときはもう遅かった。その人影は丸太のようなもので誠子の後頭部に痛烈な打撃を加えた。誠子は刀を手にしたままたまらず片膝をついた。後頭部に激痛を覚えながらもかろうじてその人影がうめき声や体臭から男であることは知覚した。
すぐに立ち上がろうとしたが、すかさず男はがなり声をたてながら誠子の足腰へ体当たりを敢行した。たまらず前のめりによろけたところを膝蹴りが側頭部にくいこんだ。誠子は文字通りもんどりうって地面に転がった。さらにあおむけに横たわる誠子の顔を、男が力任せに片足でふみつけた。誠子は苦痛に顔をゆがめながらなんとか抵抗をこころみようとしたが、男は誠子の右腕をもう一方の足でふみつけていたので刀で応戦することもできなかった。
「この前はわしの顔を虫けらでも見るような目でよくもにらんでくれたのお。おれはおまんのような奴を見とると辛抱たまらんのぜ」
先日夜道で出くわした男、岡田以蔵だと気づいたとき、以蔵は誠子を足蹴にしたまま頭上で長刀を抜いていた。漆黒の闇にもかかわらず獣のような両目がギラりと光った。そして表情を変えることなく誠子の首めがけて刀を振り下ろそうとした。
誠子は絶体絶命の状況にあったが、一瞬の隙も見逃すまいと以蔵の呼吸に集中した。そしてなおも以蔵の片足に踏みつけられている右腕は徐々に感覚を失いつつあったが、気力をふりしぼって刀の柄だけはに握りつづけた。
すると遠くから、ウォー!!という声とともに疾走してくる足音がちかづいた。以蔵が一瞬その気配に気を取られた隙に誠子は体をねじり、左手で以蔵の袴の裾をひっぱった。その拍子に以蔵は体のバランスをくずし、誠子の顔を足蹴にしている片足がはずれた。それでも以蔵は誠子の細首目掛けて刀をふりおろした。誠子は顔を上げ間一髪のところで刀をかわした。そして以蔵が自分の動作でさらに前のめりによろけたため、誠子の右腕を踏みつけていた片足もわずかに宙にもちあがった。その隙に、誠子は右腕を抜き、機敏に立ち上がった。そして、くるりと反転し中腰になって刀を構えた。それと同時に疾風のごとく現れた男が以蔵の背後から刀を抜いて猛烈な一撃を以蔵に与えた。しかし以蔵はその太刀を大きくのけぞりながらかわした。
「大丈夫か!」
男は誠子にむかってそう叫びながら以蔵に対して刀をかまえた。男は浅黄色のだんだら羽織をまとっていた。声に聞きおぼえはなかった。しかしその横顔を見て誠子は驚いた。
(浩介!)
神田博士の一人息子であり、クラスメートでもある神田浩介にそっくりだった。
しかしその男の動きははまるで野生動物のように俊敏であり、態度もおちつきを払っていた。その様子は運動音痴で臆病者の浩介とはまるで違った。
「大丈夫です。ありがとうございます」と誠子が答えると、男はちらりと誠子の顔に視線をずらしながらかすかにうなずいた後、以蔵に正対したまま「藤堂平助です」とつぶやいた。
「土州藩士、岡田以蔵と見た。神妙に縛に付け!」
平助の言葉に対して、以蔵は返事をしなかった。
そのかわりに暗闇からえぐるような痛烈な突きを平助の喉元に入れてきた。藤堂平助はこの斬撃を刀で払いのけたが、頬にかすり傷を負った。
一方、誠子はすでに大きく飛び上がっており、頭上から以蔵に一撃を加えようとしていた。しかし、以蔵は横っ飛びでその攻撃をかわした。誠子は休む間もなく以蔵を追いかけ、つぎつぎと刀をくりだした。その都度、捨助の教えに従い、「斬らせていただきます!」とせわしなく連呼することも忘れなかった。
藤堂平助も誠子に呼応して一気呵成に畳みかけた。しかし以蔵はころげまわって二人の太刀をことごとくよけながら、そのまま高瀬川に身を投じた。すぐに二人とも以蔵のあとを追ったが、土佐藩邸の裏のあたりでやがて行方を見失った。
ずぶぬれになった二人は、高瀬川で大息をつきながら、互いに顔を見合わせた。
「ありがとうございます。私は一番隊の中岡新三郎です」
そういって誠子は袖で乱暴に顔をぬぐった。
一方の平助は懐から懐紙を二枚取り出し、一枚を誠子に手渡した。誠子は、懐紙を受け取りながら、平助の所作に今まで感じたことのないとまどいをおぼえていた。
「私は八番隊組長の藤堂です」
もう一枚で顔をぬぐいながら、平助は顔を寄せてニコリとわらった。
笑うとますます浩介に似ていた。
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