第10話 赤心沖光
試合の後まもなくして、誠子と捨助は土方に呼ばれ八木邸の奥の間に通された。捨助はてっきり土方からまた小言をもらうのかとおもっていたら、案に相違して待っていたのは総長の山南敬助一人であった。
山南は柔和な表情で二人を迎え入れた。
「中岡くん、さっきの立会は見事でした。感服しましたよ」
といってカラカラ笑った。誠子は近頃ようやく様になりつつある挙措で正座をしたままゆっくり頭を下げた。
「松本さん、あなたの奮戦ぶりも見事でしたよ」
予想もしていなかった言葉に捨助は思わず心を高ぶらせ、やや大袈裟に「はっ」と声を発しながら頭を下げた。その様子を見つめる山南の表情はますます柔和である。
「ただちょっと見てもらいたいものがあります」
といって山南は脇に置いた一本の刀を取り上げ、二人の目の前に差し出しながら、おもむろに抜いた。
趣のある黒呂塗りの鞘からは生臭い匂いと一緒に、ボロボロに折れ曲がった鈍色の抜き身が姿を現した。しかもそこには今しも滴り落ちそうなほどの血のりが赤々とべっとり付いていた。
「一昨日土方君たちと一緒に岩城升屋に討ち入った時に私が使った刀です。相手の不逞浪人は大柄な男で力がありました。しかも激しく応酬してきたので刃こぼれしたのです。なんとか斬り伏せましたが、肉がぶ厚く、そのうえ刀もまともに切れないので、なかなかとどめが刺せず、もたもたしている間に私も一太刀受けました」
そういって左手の袖をまくりパックリと割れた上腕部の傷口を二人に見せた。
「でも最後は刀先を片手で押さえながら、相手の喉元を
捨助はその表情の薄気味悪さに「ひゃっ」と声を上げながら腰を半分浮かした。
「我々もいずれは刀の錆になります。腕に覚えがある奴はほんの少しばかりそうなる時期が先にのびるが、鍛錬を怠る者は——もう錆になりかけていると言ってもいいでしょう。それが新撰組隊員の宿命です。松本くん、君にその覚悟はありますか?この錆は君自身だよ」
といって顔をニュッと捨助の鼻先に近づける。捨助の表情はたちどころに青ざめた。
が、山南はすぐに柔和な表情に戻り、刀も鞘に収めた。そして刀を捨助の足元に差し出した。
「これ、よかったら、あなたに差し上げます」
そう言い残すと何事もなかったかのような表情で、席を立ち、部屋を後にした。
「山南さん、ありがとう」
と、山南敬助が部屋を出たところで声をかけたのは土方歳三だった。この男にしてはいつになくにこやかな表情である。
「土方さんの見立て通りでしたね。きっとあの様子なら松本くんは明日にも荷物をまとめて江戸に帰るでしょう。しかし、中岡くんはやはり只者じゃないですね。あの刀を見せても微動だにしませんでしたよ。ありゃ、相当修羅場をくぐってますね」
土方は、山南のお陰で恩義ある親戚に対して不義理をせずに済みそうなことに心底ほっとしつつも、人を見る目なら誰にも負けないと言わんばかりの山南の得意げな表情にはやや辟易した。
一方、部屋に残された誠子と捨助の二人は、互いに何も言わずに、縁側から裏庭に出た。二人は肩を並べながら離れにある宿所に向かって歩く。すると捨助が気まずさに耐え切れず口を開き、負け惜しみの台詞を吐いた。
「くっそ、顔が怖いんだよ、サンナンさんは。びっくりさせやがって、まったく」
誠子はじっとそのこわばった表情を見つめる。そして重い口を開いた。
「兄貴、やっぱり兄貴は江戸に帰るべきだとおもう」
「なんだと!」
捨助はムキになって顔を近づけた。
その表情を見つめながら誠子は、侍に憧れながら、侍にはなれない捨助の本性を見たおもいがした。そして哀れだとおもった。山南の言う通り、もしこのまま白刃戦の渦中に飛び込めば、たちどころになますのように斬り刻まれ、真っ先に敵の刀の錆となるのは火を見るよりも明らかのように思われた。新撰組に入隊するとは、日々命がけの働きを要求されるということだ。必然的に弱い者は死ぬ。自分にはどうすることもできない。府中の老父母の悲しむ顔が浮かんだ。なおさら哀れに思えた。
「——な、なにを言う、新三郎」
誠子は両手で捨助の肩をつかんだ。
「悪いことは言わない。刀についた血糊を見ただけで腰を抜かすようでは、本当の鮮血が飛びかう決闘の場でどうやって敵を斬り伏せる?」
「バカ、あれはサンナンさんの顔にびっくりしただけだ」
「兄貴、人を殺したことはないな。もっと壮絶だぞ、断末魔の人間の顔は。それぐらいで心かき乱されてどうする?どんな小さなことだろうと一瞬の心の乱れが命取りなんだよ!」
と言いつつ本当のことを言えば、誠子も生の人間の死顔には出くわしたことがなかった。
捨助は息を呑む。言葉を失っていた。
「みんなにも迷惑がかかる。兄貴、悪いことは言わない。一旦江戸に戻り、もう一度心胆を鍛えて出直してこい!」
誠子はぶん殴られることを覚悟して言い放った。その時、誠子は初めて自分の心に自然と生じた感情を口にしていた。
しかし、捨助はやり返すどころかはたから見てももはっきりわかるほどに意気消沈してしまった。
「——すまん、正直言うと俺はさっき小便を漏らした。俺はやはりまだまだだ。だめだ。お前やみんなのようにはなれそうにない」
といって捨助は肩を落とした。
「大丈夫、きっとまだ迷いがあるだけだよ。それをふっきったらきっと新撰組の一員になれる。待ってるよ、兄貴」
根が単純な捨助はたちまち表情を明るくした。
「おお、戻ってくるとも!」
そして、二人は硬く手と手を取り合った。
——その様子を屋敷の縁側の柱の陰から見ていた人間がいた。土方歳三である。歳三はすばやく身を隠そうとした。
しかし捨助はその気配をめざとく察知し、そばへ駆け寄った
「歳三兄ぃ、頼む。こいつを俺だと思い、どうか引き立ててやってほしい。よくわからねえがこいつは兄ぃを守るために生まれてきたと心底から思ってやがるんだ。きっと兄ィの懐刀になってくれる。俺が保証するから頼む」
土方歳三は自分を守るために生まれてきた云々の台詞のところでは若干引き気味だったが、とにもかくにも捨助が江戸へ帰ることを受け入れてくれたことに胸を撫で下ろすあまり、話半分に聞きながらいい加減にうなずいていた。
そのとき一人の町娘が庭先から土方歳三に向かって近づいてきた。
「歳三さ〜ん!」
いかにも親しげな様子だが、歳三はどこの誰か思い出せずに戸惑っている様子だった。ただ女の様子がいかにも馴れ馴れしいのでこういうことはよくあることなのかもしれないと思って二人とも傍観してしまった。
しかし、やにわにその町娘が帯に片手を入れたと思った瞬間、沓脱石から縁側に向かって高く飛び上がった。その手には、逆手に持った小刀が握られている。一方の土方歳三は丸腰だった。もちろん
しかし、女はその標的に手をかけることはできなかった。再び地に足が着く前に女の首は飛んでいたからだ。女の切り落とされた首は、地面に落ちるまでの刹那、逆さまになって振り返りながら、
「風馬、せっ誠子………」
というかすかな絶句を真っ赤な血しぶきと一緒に口から吐いた。
その首と首を失った体躯がほぼ同時に地面に落ちて動かなくなったのを確かめてから、誠子は庭先に立ったまま刀をゆっくり鞘に収めた。よくよく見れば町娘の顔には見覚えがあった。名前は知らないが同じ高校に通う上級生だった。
捨助は驚きのあまり地面にへたり込んでいた。土方歳三は、なんとか二本の足で縁側の上に踏みとどまっていたが、一瞬のうちに起きた出来事を頭の中で
これが誠子が斬った最初の刺客だった。
「土方さん、隙、ありすぎです」
風馬誠子こと中岡新三郎の言葉に土方歳三は一瞬眉をひそめた。が、すぐまた放心したようにがっくりと膝をついた。
翌日松本捨助は京を発つべき八木邸の門前に立っていた。その腕には多摩の人々に宛てられた近藤と土方からの手紙の束と山南敬助から手渡された赤心沖光の刀がしっかり握られている。
見送りは誠子一人である。
「新三郎、歳三兄ぃのこと、頼むな」
「ああ。兄貴も気をつけて」
「ああ。じゃあな、あばよ」
と旅姿の捨助は、明るく笑いながら片手を上げてから背中を向けた。しかし一歩進んだところで足を止め、もう一度振り返った。
「新三郎、一言いい忘れてた。昨日のことだが………」
そういって捨助は中空に目をやりながらため息をついた。
「あんまり人を斬るなよ」
誠子はその言葉の意味をはかりかねた。
「——いや、斬るのは仕方ない。でなければ歳三兄ぃがやられてた。が、いきなり斬っちゃ、相手にも失礼だ」
(なるほど——)と誠子は素直にそれが武士道というものなのだろうと思った。
「では、なんと言うのだ?」
「うーん、そうだなぁ………」
捨助は顎に片手を添えながら思案顔を浮かべた。
「斬らせていただきます、かな」
と言いながら、捨助は、生きるか死ぬかの土壇場で流石にそれはないなとおもい返し、おかしくて一人笑いをした。
しかし、誠子は大真面目である。
「——わかった。そうするよ」
そういうと誠子は一方的にくるりと背中を向けた。そしてそれっきり捨助へは一瞥もくれることなく薬医門の中に姿を消した。
捨助は期せずしてしばし誠子の背中を呆然と見送っていたが、すぐに苦笑いしながら前を向いて歩み始めた。
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