第8話 京へ
その夜、誠子は鼻をつまみたくなるほどに臭いどぶろくを口に含ませながら捨助と義兄弟の契りを結んだ。
捨助は数年前に天然理心流宗主の近藤勇が佐藤彦五郎と義兄弟の契りを結ぶ場面にたまたま居合わせたことがある。義兄弟の契りというのは渡世人の世界の慣習だが、農民出身の佐藤彦五郎と近藤勇にしてみれば、近頃巷で流行りの三国志演義に感化されたこともあり、ヤクザな儀式に手を染めることにもためらいはなかった。
とはいえ佐藤彦五郎は日野の大名主である。同時に天然理心流の門人でもあり、土方歳三にとっては実の姉の夫、つまり叔父にあたる人間だった。それゆえに天然理心流道場及び新撰組を全面的に支援したし、その温厚かつ仁義に厚い人柄ゆえに近藤勇からも土方歳三からも兄のように慕われていた。一方捨助は、十代の頃から彦五郎が日野の自宅の敷地内に設営した道場に熱心に通いつめ、その指導を受けていた。つまり捨助にとって彦五郎は直接の剣術の師匠であった。正直なところ剣の腕前は、天然理心流の歴々の門人と比べるとさほど優れていたわけではないが、天然理心流への愛情にかけては宗主である近藤勇にも負けないほどの熱い情熱を傾けていた。そして捨助は、そんな彦五郎に対して強い憧憬と畏敬を抱いていた。
捨助は、その一方で四代目宗主襲名披露立会で初めて目の当たりにした時の近藤勇の気迫と剣技の衝撃が今もって忘れられない。近藤勇に会ったのはたった一度きりなのに近藤勇の残像は日が経つにつれ捨助の頭の中ではむしろどんどん大きくなった。そして今や近藤勇に対する捨助の想いはもはや信仰に近い。そして奇しくも同じ場所で中岡新三郎という人間と遭遇した。彼が自分との立会で見せた華麗な剣技は、まさに近藤勇との邂逅を彷彿とさせるほどに戦慄的だった。
つまり捨助は、彦五郎を自分、近藤勇を中岡新三郎になぞらえたのである。捨助は彦五郎が近藤勇に対してそうであるのと同じように、中岡新三郎という剣の天才を物心両面で本気で支えたい心境だった。それが捨助をして、誠子を兄弟盃の相手に駆り立てた動機だった。
それから約一ヶ月ほど誠子は捨助の実家である松本家に泊まらせてもらった。
松本家は府中でも指折りの豪農だ。捨助はその家の嫡男として生まれた。しかも一人息子である。当然のことながら幼い頃から大事に育てられた。正真正銘のボンボンなのだ。しかし、思春期を過ぎた頃から、漫然と家を継ぐだけでは決して飽き足らない、心の奥底にひそむ修羅にも似たもう一人の存在に気づくと、近所に住む博徒の家に出入りするようになったり、何日も家を飛び出して漂泊したり、彦五郎の家で剣術修行をするようになった。しかしそれでも捨助の空虚な心は決して満たされることがなかった。そして歳三たちによる浪士組結成の話を聞くと、矢も盾もたまらず、京へ上ることを決意した。しかしそのことを相談すると親からも歳三からも言下にたしなめられた。お前は家を継げと言われた。なぜ豪農の嫡男に生まれたからという理由だけで自分の人生をあきらめなければならないのか、捨助にはどうしても納得できない。そういう鬱々とした思いを紛らわせようとくる日もくる日も酒に溺れていた矢先に中岡新三郎こと誠子が自分の目の前に現れたのである。自分の人生を変えるチャンスが到来したと捨助は直感した。
しかし、京へ行くには親だけでなく佐藤彦五郎と三代目宗主であり近藤勇の養父でもある近藤周斎の許可を得る必要があった。裏を返すと二人の了解すら得られなければ、とても両親を説得できない、ということだった。
そこでまず翌日、日野の名主佐藤彦五郎を誠子と訪ね、彦五郎に誠子を紹介した。
彦五郎は温厚な性格には似つかわしくないかめしい顔つきで睨みながら自分の家に作った道場に誠子をぶっきらぼうに招じ入れた。そして自ら竹刀を取って立ち会った。最初誠子は手加減したが、傍らで見守る捨助が「新三郎、容赦するな!」というので、彦五郎の懐に思いっきり打ち込んだ。案の定、彦五郎はなすすべもなく叩きのめされた。彦五郎は、その場で誠子に深々と頭を下げ、同時に近藤周斎への周旋を約束した。
そのあと、三人で甲州街道を東上し、江戸の市ヶ谷に向かった。市ヶ谷には試衛館がある。理心流を江戸市中に広めるための起点であり、周斎の代に多摩の豪農たちの支援を得て開かれた道場だ。そして一昨年までは周斎の養子である近藤勇が道場主となっていたが、浪士組結成のため土方歳三や沖田総司などほとんどの名だたる精鋭を引き連れて京へ上ってからは、周斎が現役復帰し、自ら残った門人の指導に当たっていた。
周斎は一目見るなり、誠子の太刀筋を気に入った。そして好々爺然とした表情で目を細めながら、このまま江戸に残り試衛館の師範代にならないかとさえ言った。
周斎は近頃では中風のせいで足腰が満足に立たなくなり、道場の稽古も彦五郎に見てもうらうことが多くなった。後継ぎとした養子の勇も、さらにその後継として周斎自ら手塩にかけて育てた塾頭の沖田総司も京に行ったきりでいつ帰るのかわからない。一方、満足いくような稽古を受けられない門人の不満は、日に日に高まっており、道場に背を向ける門人も増えつつあった。そうした門人の流出をどうしても食い止めるためには、威勢のいい若い師範代が必要だった。
しかし、誠子はその誘いをにべもなく断った。周斎はなおもあきらめきれない様子だったが、誠子の表情が終始箸にも棒にもかからぬ鉄面皮だったため、やむを得ず引き下がった。そして最後には近藤勇と土方歳三へ紹介状を書くことにも了解を示した。その紹介状には彦五郎も連署した。
その翌日捨助は二人からの紹介状を持って誠子と一緒に府中の自宅へもどった。そしてまともに話しをすれば却下されるのは火を見るよりもあきらかだったので捨助は一計を案じた。両親に紹介状を見せながら、誠子を京へ届けるために自分も同行せよと二人の師匠に命じられたと嘘をついたのだ。両親はその言葉を信じた。そして必ず誠子を京へ送り届けたら、寄り道せずに府中へ戻ってくることを条件に捨助の上京を認めた。
両親の了解を得た捨助はその気持ちが変わらぬうちに彦五郎の家を再訪し、親の了解が得られたことを告げ、彦五郎から二人の道中手形発行を公儀に願い出るよう依頼した。彦五郎はその申し出を快く受け入れてくれた。
誠子は手形が発行されるまでさらにしばらく捨助の家に泊まらせてもらった。
松本家の人々は皆優しかった。特に捨助の両親は情に厚く、赤の他人の誠子に対してもまるで実の子供に示すような愛情で接してくれた。
松本家にとっては親戚筋の土方歳三は幼少の頃からバラガキのトシと呼ばれ、手のつけられない悪童であり、親戚の中にも歳三の乱暴狼藉に眉をひそめる者が多くいたが、捨助の両親は分け隔てなく歳三に接した。同じように悪童だった実の子である捨助に対してもおおらかだった。近頃ではさすがに世間の目もあって二十歳を過ぎても極道から足を洗おうとしない一人息子を表だっては勘当扱いにしたりしたが、本当は可愛くてしょうがないのだった。そんな捨助が弟同然に可愛がり、かつ将来的には歳三の片腕になるかもしれない人間と聞けば、やは放っておくわけにはいかない。それどころか、最初こそ少しばかり不自然な態度や受け答えに若干の違和感を覚えつつも、同じ屋根で暮らすうちにいつしか深い愛情を感じ始めるようになるのは、慈しみ深い捨助の両親にしてみれば至極当然のなりゆきだった。
手形は一週間ばかりで発行された。佐藤彦五郎は幕府の役人にも顔がきいたのでお墨付きを得るのも早かった。この頃になると新撰組の声望は江戸にもようやく聞こえるようになり、入隊希望者に対しては役人自ら積極的に支援の手を差し伸べてくれるようになっていたのだ。
旅立ちの日、捨助の両親は大声を上げて門前でオイオイ泣いた。捨助との別れではなく、中岡新三郎という若者との別れとその前途を心配して涙を流したのだ。
誠子は捨助の両親の好意により若侍風の立派な旅装を万端にあつらえてもらい、必要な路銀も用意してもらっていた。その誠子の手を捨助の老母は去り際に力強く握りしめ、しばらくその手を放そうしなかった。誠子は内心辟易しながら、人の手の温もりを初めて感じていた。
二人は府中を南下し、東海道に出て京へ向かった。百二十五里、約500キロメートルの旅程である。
戸塚宿、三島宿、府中宿、浜松宿、宮宿(熱田)、坂下宿を経てまっすぐ西へ歩みを進めた。
道中二人はよく話しをした。子供の頃から口下手な誠子だが、任務だと割り切って仔犬のように「兄貴、兄貴」と始終捨助の可愛い弟分役に徹していたら、不思議なもので表面だけでなく、本当に肝胆相照らす仲となった。
捨助は誠子のことを心から男だと信じていた。裸になるとバレるので誠子は松本家にいる頃から徹底的に風呂嫌いを通した。捨助から一緒に入浴しようと誘われても断り続けた。もともと誠子は上背もあり、声も低いし、色黒であり、筋肉質であり、さらにプロテインもボディビルダー並みに摂取していたので、胸には念のためさらしを巻いていたが、着物姿で歩いている限り紅顔の美少年で十分に通じた。しかし立ちションができない言い訳だけは見つけられないので、なるべく水分は取らないように心がけた。それでも捨助が誠子を訝しむ様子は一切なかった。
そして武蔵国多摩郡府中を発ってから七日目の夕刻、二人は大きなトラブルに巻き込まれることなく、予定通り三条大橋を渡った。
いよいよ京である——。
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