第7話 府中六所明神

 全身を駆け巡る猛烈な痛みに耐えかねて目を覚ました誠子は暗闇の中にいた。


 横を見たら、古ぼけた地蔵が半分土中に埋まったまま斜めに立っている。


 当初は自分が誰なのかここがどこなのかもわからなかったが、おぼろげに痛みの根源が自分の細胞レベルの分裂と再合成に起因していると悟るにつれ、自分のミッションとここに至る経緯を思い出し始めた。そして痛みが少しずつやわらいだころにゆっくりと顔を上げ、自分の左手を見つめ、指が五本あるのを確認した。次に右手、そして両足を確認した。それから体全体をまさぐり、最後に顔を触った。鏡で確認したわけではないが鼻も目も口もちゃんと付いている。


 そしてゆっくりと起き上がり、蛙の鳴き声だけがこだまするあたりの光景を見回した。


 月夜の下、見はるかす青田と森に覆われた田園の風景が広がっている。おそらくタイムスリップに成功した。きっと185年前の東京都府中市——つまり武蔵国多摩郡府中だ。


 誠子は全裸のままおもむろに片足を前へ踏み出した。痛みはほぼ消えていたが、まだ自分の体が自分自身のものではないような感覚である。呆然としながらよたよたと覚束ない足取りで坂道を下り街の灯りを目指した。


 江戸時代の府中は甲州街道の宿場街である。夜とはいえ、街の中心は行燈の明かりが灯り人通りも多い。さすがに全裸のまま、人前に飛び出すわけにはいかないので、通り沿いの木陰でじっと身をひそめた。——まずは身をまとう着物を手に入れるところから始めなければなならない。


 しばらくすると街道を行くひとりの男が目に止まった。酒に酔っているのか足元がふらふらしている。武士ではないが農民にも見えない。若いが、美しい柄の真新しい小洒落た着物をまとっており、いかにも大旦那の子息を思わせた。 

 その男は、おあつらえ向きに、誠子がひそむ木のすぐ近くの道端にうずくまってゲーゲー戻し始めた。草むらから抜け出した誠子はそっと背後から忍び寄り、苦もなく男を羽交い締めにして気絶させた。そして男を草陰に引っ張り込み、手際よくその着物を奪った。


 誠子は少し酒臭い着物を羽織り、髪を総髪に縛って、男衆の装いを整えた。そして褌一丁で横たわる男を草むらに置いて立ち去ろうとしたところで、片足に違和感を覚えた。

「待て」

 裸の男が俯したまま誠子の片足を片手でつかんでいる。

「何者だ?」

 誠子はひとおもいに殺しておけばよかったと思いながら、路傍に転がる石に目を止めた。しかし、男は意外な言葉を口にした。

「着物はくれてやる。だが、俺と尋常に勝負しろ」

「どうやって?」と誠子はおもわず聞き返した。

「もちろん、真剣でだ!」

「私」と言いかけて慌てて慣れない男言葉に修正した。「——いや、僕、俺、刀、持ってないけど」

 男は地面の上にあぐらをかいた。

「よし、わかった。刀は用意する」

 誠子は黙ってうなずいた。すると男はスクッと立ち上がり、

「いいか、六所明神で待っておれ。そこで勝負だ」と誠子の背後の方角を指差しながら叫んだ。

 そして男は裸のままあとじさりし、甲州街道の闇の中に走り去った。


 誠子は男の指示通り、その行方とは反対の方向に向かって歩き始めた。

 

 武蔵総社六所明神は、誠子が誕生した世界では大國魂神社と呼ばれている。徳川家康から直々に所領を受けたほどの格式をもつ、武蔵国の総元締めのような神社である。奇しくもここは、四年前の文久元年に近藤勇の天然理心流四代目襲名披露の野試合が開かれた場所だった。


 誠子は府中駅前にある大國魂神社に行ったことはなかったが、男の指差すとおり国分寺街道をしばらく歩いたら、やがて欅並木の参道を抜け、大きな鳥居にぶつかった。そして灯籠の火にぼんやり浮かび上がった朱色の本殿が見えて来た。そして境内に足を踏み入れた誠子は、本殿の回廊にもたれながら男を待った。


 しばらくして男は鮮やかな蒼の着物に身を包み、一人でやってきた。腕には二本の刀を抱えている。てっきり徒党を組んで襲ってくると思い込んでいたので、誠子は拍子抜けした。と同時にこの男のことを少し見直した。


 男は一振りの刀を鞘ごと誠子の足元に放り投げた。

「俺は捨助、松本捨助だ」

 といって男は自分の刀を抜いた。

「私、いや、俺は中岡新三郎、だ」

 そう答えたつもりだったが、照れ臭さのあまり早口かつ小声だったようで、男から「はっ?」と聞き耳を立てられた。仕方なく、誠子はバツの悪そうな表情でもう一度名前をゆっくりと名乗った。


 しかし男は必死の形相である。灯籠の明かりに怪しく浮き上がる抜き身を上段に構えた。そしてジリジリと間合いを詰めてくる。 

 そしてこよりを切ることなく、片手で鞘ぐるみの刀をつかんだままダラリと下げている誠子に向かってまっしぐらに直進し、いきなり誠子の頭頂部へ抜身を打ち込んできた。誠子は刀を構えることも抜くこともなく、ひらりとその一閃をかわした。すると男はすぐさま体勢を整え、今度は正眼に構えを変え、まっすぐ突きを入れてきた。誠子は下段に構えたままその攻撃も難なくかわした。そして捨助の体が前方に流れたところを見逃さず、鞘ごと男の小手を叩いた。相手が呆然としたところで一気にその刀を叩き落とすつもりだった。しかし打ち込みが浅く、男は刀を握りしめたままだ。しかもその攻撃は男のプライドと感情に無用な火をつけた。男は怒りに任せて、無茶苦茶に刀を振り回しながら、さらに猛烈な攻撃を仕掛けてきた。誠子は太刀筋をすばやく見切って、紙一重のタイミングで男の太刀を次々とかわす。


「だあ!」

 とたまらず男が甲高い気合とともに大上段に飛びかかってきたところを誠子は体をわずかに横にずらしながら素早く踏み込んで鞘のまま相手の胴を強かに払った。男はそこで刀を落とし、前のめりに倒れ込んだ。

 誠子は刀を抜いて男の喉に突き付けた。

「勝負あった、でしょ?」

「殺せ!」と男は拳で地面を叩きながら大声で叫んだ。

「えっ?」

 きっと命乞いをするか、そうでなくても恐怖で顔をひきつらせるに違いないと思っていた誠子は、男の言動に素直に驚いた。

 男は潔く裾をまくり地面にあぐらをかいた。そして片手で首を打つ真似をしながら、その首を前に差し出した。

「やれえ!」

「ばかばかしい!」

「うるせえ、お前に俺の気持ちがわかるか!どこの馬の骨かもわからねえ野盗に身ぐるみ剥がされた上に叩きのめされたんだぞ。どうやってオメオメ家に帰るってんだあ!」

 誠子はもう一度男の恰好を見た。どう見ても武士ではない。百姓ではないにしても明らかに町人なのだ。しかし、まるで本や映画で聞きかじったままの侍のような台詞を吐くのはなぜだろうか?

「新撰組に入りたくても親には反対され、兄貴にも愛想尽かされ、俺はもう生きていてもしょうがねえんだ」

 誠子は男に興味を持った。

「新撰組に入りたいのか?兄さんが新撰組なのか?」

「兄貴っていうか従兄弟だけどな。土方歳三っていうんだ。副長だぞ」

 誠子は刀を地面に放り投げた。

「俺は、その土方歳三に会いたい——」

「お前も入隊希望者か?」

「ああ」

「入隊試験は難しいぞ。でもお前ほどの腕なら上手くいくかもしれない」

「頼みます。俺を副長に紹介してくれ」

 誠子は男——捨助に頭を下げた。自分でもビックリした。おそらく生まれてはじめて人に頭を下げている。

 捨助もキョトンとしている。

「新撰組が駐屯してるのは京の都だぞ」

「うん、わかってる」

 捨助は一瞬思案顔を浮かべてからニヤリとした。


「なら、一緒に行くか?」

「本当か?ありがたい。連れてってくれるの?」

 正直、いかにして府中から京まで行くべきか考えあぐねていた誠子にとって、捨助の誘いはまさに渡りに船だった。

「ああ、連れて行く。路銀はあるのか?」

「ない、一文無しだ。着物も財布もみんな取られたんだ」

「なら路銀も宿代もぜんぶ俺が面倒を見てやる」

「ありがとう。恩に着るよ」

「えっと、名前は?——」

「中岡新三郎、甲州藩士の三男坊。——野盗ではない」

 と少しばかり尊大な調子で返答した。

「武士か——でもやってることは野盗同然だ」

 返す言葉見つからなかった。

「ところで新三郎さん、おめえさん、いくつだい?」

「十八、だが」

 満では十七歳だが、誠子は数え年で答えた。

「なら、俺の方が年長だ。悪いが、歳三兄いの前では俺を立ててもらうぜ」

「もちろんだよ。兄貴と呼ばせてもらうよ」と言って誠子は膝をついた。

 捨助は照れ臭そうに顔をくしゃくしゃにする。

「じゃあ、ウチに来い。盃を交わそう」

「いや、僕、いや俺は、酒は飲めない」

「馬鹿言うな。新撰組の隊士になろうって奴が酒ぐらい飲めなくてどうするよ」

 といって捨助は誠子の袖を無理やり引っ張った。


 誠子は酒など生まれてこのかた口すらつけたこともなかったが、捨助の人懐っこい嬉しそうな顔を見ていたら、がらにもなく、つい情にほだされ、腹をくくった。

「よし、飲むぞ!」

 と気がつくと捨助と肩を組み、自分でも驚くほどの大声で男前の気焔をあげていた。

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