第5話 近衛宅別邸(下)
「だがそれは危険すぎるぞ。たとえ今がいいからといってこの先も同じとは限らない。そんな他力本願の平和は必ず壊れる。それに300万人もの犠牲者を出すなんて、過去の出来事とはいえ看過できるわけがない」と南郷海軍大臣が憮然とした顔つきで見解を述べた。
「同感だ!そもそも敗戦国の汚名と植民地の屈辱を背負ったまま、アメリカの属国としてむざむざ生き残るなんて、俺にはとてもできん!魂も誇りもない軍隊でどうやって国家を守るというのだ。日本男児が日本男児でなくなるということじゃないか!こんなことは許されん!」と陸軍大臣が拳を握りしめる。
「そうですよ。国家に対する反逆です。それにパラレルワールドに飲み込まれたら首相たちだって消えるかもしれないのだろう?」といささか核心をつくような瀬島総長の発言にも三枝室長の表情は微動だにしない。
「尾崎首相はパラレルワールドと現実世界との合流時の統合座標軸——それは刺客の帰還地点でもあるのですが——それを自分自身に置いているようです。つまり、自分だけは何も変わらない、ということです。おそらく彼に近い人間であるほどインパクトが小さく彼に敵対もしくは彼と疎遠である人間ほど影響が大きいといえると思います」
「それこそ国家反逆罪じゃないか。憲兵を出動させてはどうなんだ?」と瀬島総長が重ねて訴える。
「証拠がありません。今お話しした内容はほとんどが、内閣調査室に潜り込ませたスパイからの報告です。しかし、その男も先週から行方不明です」
「そんなものはどうにでもなるだろう。君のとこはそのへんのプロじゃないか。こっちから先に踏み込んで尾崎首相、官房長官の井伊、それに風馬所長を逮捕すればよい」と参謀総長。
「残念ながら、もう遅いのです。たとえ首相を拘束してもすでに刺客が土方歳三暗殺に成功したと思われる以上、この流れは止められません。刺客がこの世界に戻ると同時に統合座標軸の尾崎首相は何事もなかったかのように拘束から逃れて、新たな統合世界で首相を継続します」
「なら、いっそ尾崎を消せばいいではないか」と参謀総長が独り言のように呟いたが、まわりの参加者は発言の恐ろしさに慄いてわざと聞こえないふりをした。百年前に起きた五・一五事件や二・二六事件は、太平洋戦争終結後、歴史的壮挙として首謀者が英雄視された時もあったが、さすが、平成以降、一般企業や国民による軍部に対する風当たりが非常に強くなり、それにつれ、過去の軍部によるクーデターをはじめとする力による体制変更に対して国民の捉え方も大きく変化した。つい先月も陸軍大臣自ら国会答弁の場で五・一五事件、二・二六事件いずれも軍部による重大な組織犯罪であったと正式に認め関係遺族に謝罪を強いられたばかりであった。その陸軍幹部が舌の根も乾かぬうちに再び同じ過ちを犯すとなれば、たとえ首相暗殺に成功しても場合によってはこんどこそ国民の信用を失いかねないという直感的危機感をさすがにこの場にいる指導者はもちあわせている。
「なるほど、ではその刺客を消せばよいのだな。――そうすれば危ない橋を渡ることなく、ゆがめられた歴史をもう一度修正しもとの正しい流れに戻すことができる」と秋山部長が聞き間違いをよそおいながら話を巧みにそらした。そして三枝が小さくうなずくのを確かめてからさらにこう付け足した。
「なら、テレポーターを破壊して現在に戻れないようにしたらいいのではないか?」
しかし三枝はこんどは表情を曇らせた。
「しかし、刺客の体内にはミッション完了と同時に現実世界へ帰還することが、DNAプログラムとして注入されています。帰還するためのワームホールも一旦形成されれば半永久的に消えることはないし、タイムトリップに必要な超光速ビームも、往路で使用したビームをあらかじめ計算された時空間反射壁に跳ね返すことで、そのビームにさえ乗ることができれば新たなビームを生成することなく帰還できるためテレポーターそのものを今壊しても、刺客の帰還を食い止めることはできないそうです。——だから、唯一の方法は、土方歳三を暗殺する前の刺客を倒すことなんです」
老齢の三人の大臣にはことさらにかみ砕いてわかりやすく行ったつもりの三枝の説明もいささか難解だったようで、三人ともチンプンカンプンな様子で呆気に取られている。しかし、海軍随一の知能と言われる秋山部長は二人の陸空参謀と同様にその説明に理解を示す様子で大きくうなずいた。
「——で、刺客の情報は入手済みなのか?」
「先ほど申し上げた通り、ログデータを分析したところ、最大十人のクローンを幕末に送ってます。もどってきたものは一人もいませんがいずれも戦闘用に育てられたクローン兵士です。特に十人目は最強でしょう」
「ならこっちも凄腕の追手をさしむけねば。重装備に身を固めた陸軍特殊部隊の精鋭クローン兵士あたりがいいんじゃないか?」と瀬島参謀。
「残念ながら、武器や防具のような無機物は分子再結合用のプログラムが作動しないため、時間移動できないようです」
「なら武道家とか、プロレスラーのような屈強な男たちがいいんじゃないかのね?」
「いえ、時間移動できるのは生物の雌、つまり人間なら女に限られるのです。雄のクローンでもなんどか実験を試みたようなのですが、染色体の違いのせいか、分子再結合がどうしてもできないそうです。しかも十日に一回しか超高密度核融合エネルギーの充填ができないため複数の刺客を一度に時間移動させることはできません」
「——で、最強とかいう十人目のガイノイドはどういうバックグラウンドなんだ?」と秋山部長。
「表向きは風馬博士の娘ということになっていますが、モデルとなった人間は風馬博士とは何の血縁関係もありませんし、すでに亡くなっています。ただし、生前は元剣道世界ランク1位の剣豪でした。皆さんよくご存知の市村少佐の娘です」
「市村の娘か——たしか二人いたはずだが?」と寺内大臣。
「ええ、その刺客クローンのモデルは姉の方です」
「そうか、姉も妹もたしかあの時に親父と一緒に亡くなったのだったな………可哀想なことをした。しかし風馬が密かに市村の娘のクローンを作ってたとは知らなかった」と陸軍大臣は嘆息をもらす。
「もしかして妹のガイノイドも作られたのか?」と瀬島総長。
「ええ、そうです。しかし妹はまだここにいます。どうやら十一人目の刺客として考えられていたようですが、結局タイムトリップは直前で取りやめになったようです。おそらく土方歳三の暗殺成功を確認したからでしょう。いま、神田博士の家にいます」
「風馬所長は、どこに?」とまたも瀬島総長。
「行方不明です」
「神田さんは我々に協力してくれるのか?」とさらに瀬島総長。
「はい、了解は取り付けています。タイムテレポーターの取り扱いもおおよそ理解されているようです」
「うん、あの人なら話は早い」と南郷海軍大臣。
「しかし、肝心の追手はどうするんだ?」と岩本空軍大臣。
「はい、神田博士の意見では十人目の刺客に最も近いDNA配列をもったガイノイドがもっとも時間移動成功の可能性が高いとのことなので、もう一人の市村少佐の娘のガイノイド、つまり妹の方を追手にしようと考えているところです」
「妹も確か姉と同じ階級で世界王者になった剣豪だったな。が、姉妹で戦うのか——クローンとはいえ、嫌がりはしないのか?」と人情派でも知られる寺内大臣の表情がやや曇った。
「大丈夫です。二人とも感情去勢されたクローン兵士ですから」と三枝は軽く笑い飛ばしながら陸軍大臣の懸念を否定した。
「つまり、十人目の刺客である市村さんの姉のクローンが、この世界に戻って来る前に追手である妹クローンを幕末に送り込み、土方歳三が暗殺される前に妹が姉を殺害すれば、すべては元通りになるということだな」と秋山軍令部長が冷静に確認を求めた。
「はい、その通りです。——しかし殺害に成功したのは十人目の刺客でない可能性もあることから、確実に作戦を成功させるためには十人全員を殺害しなければなりません」
「それは大変だ」と秋山部長は腕を組んで顔をしかめる。
——そこで南部部長が何か思い出したように不意に顔を上げた。
「三枝君、君はさっき十人の刺客はまだ誰も現在に戻っていないといったが、テレポーターを調べれば彼らがこの世界に戻る日付けもわかるんじゃないのか?」
「ええ、実はそうです」
「それがすなわち、パラレルワールドと現実世界との合流日になるのだな」と再び秋山部長。
三枝は厳粛な表情でうなずく。
「はい」
「いつだ?」と寺内大臣がここぞとばかりに獰猛な目を見開いた。
「十人とも令和30年12月1日午後零時丁度、つまり明日のお昼に首相官邸に帰還予定です」
「——ということは、今晩中もしくは明日の午前中には追手を送らなければならいってことじゃないか!」
そういいながら鬼のような寺内大臣の顔面がみるみるうちに蒼白になっていった。
「はい、その通りです。失敗は許されません」
「——で、準備はどうなのだ?」と南郷海軍大臣。
そこで竹中中央情報局長官がスクッと立ち上がった。
「ご一同のご了解さえ得られば、今夜中にも市村少将の娘のガイノイドである風馬誠子を、土方歳三を狙う十人の刺客の追手として幕末に時間移動させます」
「わかった」といって近衛元帥がおもむろに立ち上がった。「我々にできることはその作戦の吉報をただひたすらに待つということだな」
「はい、その通りです。くれぐれもも軽はずみな行動は厳に慎んでいただけますようお願いします。われわれの動きが漏れれば、官邸は必ずさらなる先手を打ってくるでしょうから」と竹中長官は細い目で参加者を見渡してから頭を下げた。
無論、一同表情をこわばらせながらも、互いに顔を見合わせてうなづいた。
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