第4話 近衛宅別邸(中)
「それは——」といって三枝情報機密室長はもう一度その場にいる全員の顔を目で見渡した。「土方歳三の暗殺です。ここ数日の首相の発言やその周辺の動向及び世論の急激な変化から考えて、すでに十人のクローン刺客のうちのいずれかがその殺害に成功したと考えて間違いないでしょう」
話についていけないイライラを紛らわせるためにちょうど葉巻を吸おうとした南郷大臣だったが、三枝室長の発言を聞いて思わず煙にむせんだ。
「ひ、土方提督の祖父をか?」
三枝は小さくうなずく。
「はい、しかも土方元帥の父上が生まれる前に、です」
「つまり土方提督はこの世に存在しなくなるということか?」と秋山軍令部長が口を挟む。
「はい、そうです。あくまでパラレルワールドでのことですが、少なくともその世界ではかの真珠湾攻撃にも、ミッドウェー海戦にも、ガダルカナル島攻防戦にも元帥は参加しないということです」
「——どうなるというのだ?」
寺内大臣の眉間に皺が寄っている。
「日本は太平洋戦争で米英ソ中の連合国軍に惨敗します」
「……」
一同黙り込む。
土方歳和は、昭和16年の真珠湾攻撃で米太平洋艦隊を完全に無力化し、その翌年のミッドウェー海戦でも大勝利を上げ、さらに続くガダルカナル島の攻防戦で米海兵隊をほぼ覆滅し、米国民の太平洋での戦争継続意欲を完全に挫き、一年半に及ぶ太平洋戦争を実質的な勝利に導いた日本海軍の歴史的英雄である。
「敗戦の代償として、我が国は少なくとも300万人以上の死者——それに原爆も投下されます」
「——どこが落とすというのだ?」と石田空軍大臣がまさかといった表情で聞いた。「本土周辺の制空権は完全に日本軍が握っていたはずだ。当時の米軍の技術で本土やハワイから直接投下できるような爆撃機を開発できるはずがない」
「それは真珠湾攻撃で大戦果を上げ、ミッドウェーでもガダルカナルでも勝利したからいえることです。パラレルワールドでは、最新スーパーコンピュータ『崎陽』の試算によると、土方提督のいない日本海軍は、真珠湾攻撃では勝利するものの、第二次攻撃を躊躇したために敵航空部隊を完全に無力化するまでには至らず、かつミッドウェー海戦ではニミッツ提督率いる米太平洋艦隊に航空母艦四隻以上を撃沈される大敗を喫し、そしてガダルカナル島では度重なる作戦ミスから撤退を余儀なくされ、その結果フィリピンも沖縄もサイパンもすべて奪われ、絶対国防圏どころか本土近海の制空権も制海権も完全に失ってしまうというのです」
「……」
石田大臣は文字通り言葉を失う。
「そして、呉、八幡、小倉、下関、長崎、佐世保といった軍事施設、もしくは京都、広島、新潟といった都市を狙い、最悪はアメリカ、そしてソ連までもが先を競うように本土へ最低でも二発以上の原爆を投下します。日本はやむなく無条件降伏し、アメリカ、ソ連、中国、イギリスによって一時的に分割統治され、天皇制そのものも形骸化します。当然軍隊も解散です」
「——なんてことだ!ソ連まで参戦するとは!我々の先人が薄氷を踏む思いで今日まで営々とつないできた栄光と平和の歴史をむざむざ破壊しようというのか!愚かだ。尾崎はいったい何をしたいのだ?」と寺内大臣が立ち上がる。
「軍人の影響力を排した文民統制を盤石なものにしようとしているようです」と竹中長官が足を組んだ姿勢で答えた。
「これは立派なクーデターだ」と南部作戦部長が同調する。
「だが、それと土方歳三の暗殺がどう関係するというのだ。それはパラレルワールドの話だろ。我々の現実世界の歴史はなにも変わってないじゃないか!」と瀬島参謀総長が興奮のあまり顔面をブルブルふるわせながら三枝の顔をのぞき込む。
「どうやら、理研副所長の神田博士の説明によると、パラレルワールドが生まれると、分岐した川の支流のように紆余曲折はあってもいずれは本流と一つになるみたいです。普通はおおもとの現実世界がパラレルワールドを飲み込むらしいのですが、稀に逆のケースもあるみたいで、今回はどうやらそのパターンであり、パラレルワールドがいつのまにか本流になり、我々の現実世界が支流になっているんです」
「もしそうなったら、我々はどうなるんだ!」と陸軍大臣ががなり立てる。
「我々の世界の歴史も我々個人の記憶もすべてパラレルワールドのものに上書きされます。その結果、今から百年以上前に軍隊そのものが解散となるわけですから、少なくともこのままの地位に残ることはないでしょう」
「皇室はどうなのかね?」と久しぶりに近衛元帥が口を開いた。
「皇室はかろうじて存続しますが、陛下の権限も英国のように象徴的役割に制限されるでしょうし、皇室以外の華族はすべて廃止されます」
元帥は小さく舌を鳴らした。
「ということは場合によってはこの世から消える人もいるってことだよな」と秋山部長がまわりを見回しながら呟いた。
「太平洋戦争という歴史的大事件の結末そのものが変わるわけですから、不幸にしてそうなる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、すべては一瞬のうちに、しかもなんの疑問や不安をはさむ余地もなく世界が切りかわるため、直接の被害者であろうと肉体的苦痛や精神的混乱は一切生じないといわれています」
「なぜそんなことが起こるんだ?」と瀬島参謀はさらに顔面を震わせた。
「私も信じられないのですが、歴史の優越性というものが関係するらしいです」と竹中長官が間に入った。
「その通りです。神田博士の説によると、パラレルワールドと現実世界が一つになった後の世界にとって、どちらの過去がそれまでの過程としてふさわしいのかということを決めるのが、歴史の優位性です」
「よくわからんが、未来の世界にとってどっちの過去がより望ましい結果をもたらすのかってことか?」と秋山軍令部長が聞いた。
「ええ、そうです」
「だったら、この現実世界の方がいいに決まっておる。我が大日本帝国は中露米英を倒した無敵の常勝国だ。経済発展や民主化も平成以降大いに進んだ。こんなにすばらしい栄光に満ちた過去をもつ国は他にない。これ以上の歴史があってたまるか!」
そういって寺内大臣はドンと威勢よく席に座った。
「ええ、普通はそう考えるでしょう。パラレルワールドでは、国は分割占領され、憲法も連合国軍から押し付けられ、自国の軍隊もありません。さらに戦後も百年以上もの間、国内の至る場所でアメリカに基地を提供し続けています。ただ、戦後一時的に分割された領土もすぐに統一を果たし、その後は未曾有の経済発展を遂げ、経済規模は戦後25年弱で世界第二位に躍進するとの予測です」
一同息を呑む。
「そんなに早く復興するのか——。我々は、令和になって、ようやく世界10位の経済力を得たというのに……」とは秋山軍令部長。
「それは、昭和時代を通して戦争と独立運動の鎮圧に明け暮れ、平成は植民地時代の賠償や補償に振り回された結果です。しかし、パラレルワールドでは太平洋戦争敗戦後、百年以上一切戦火に巻き込まれないのです」
「台湾沖海戦や朝鮮事変、ベトナム動乱にもまったく関与していないのか?」と寺内大臣は信じられない面持ちである。
「ええ、パラレルワールドには軍隊はないですし、太平洋戦争での敗戦で朝鮮も台湾も南部仏印も外地の領土をすべて失っています」
現実世界では昭和初期に太平洋戦争や日中戦争に勝利し、北は千島列島、樺太、満州、朝鮮半島、台湾、ルソン、ミンダナオ、ボルネオ、インドネシア、ベトナム、ラオス、カンボジア、マレーシア、シンガポール、ニューギニア、ソロモン諸島、マーシャル諸島、ミクロネシアのほぼ全域に広がる大東亜共栄圏を築くことに成功するが、1950年代になると各地で独立運動が盛んになり、たび重なる抵抗運動に悩まされた挙句に、いちはやく核兵器の開発に成功した米国、ソ連、英仏の積極的な軍事行動や中国共産党の勃興などによる外圧に抗しきれなくなり、次々と独立承認を余儀なくされ、日本国の国土も1990年頃にはほぼ明治初頭の本州、北海道、九州、四国を中心とする領域に戻っていた。
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