第3話 近衛宅別邸(上)

 荻窪にある近衛家の別邸の居間。


 その日の招待客はぜんぶで8名。すでにそのうち6名は家主である陸軍元帥近衛富麿を中心に車座になって端然と着座し、陸軍大臣と参謀総長の到着を待ちわびている。


 やがて車寄せにハイヤーが止まる気配がした。つづいてドカドカと廊下の床を踏み鳴らしながら居間に近づく足音が近づく。間違いなく陸軍大臣寺内丈太郎の足音だ。そしてその足音の主は居間のドアを開くなり、大音響を上げた。

「なんだ今朝の閣議は!いったい何を考えておるんだ、尾崎の奴。本気で憲法を改正しようというのか!」

 すでに先に到着し、近衛元帥の右隣に着座している海軍大臣の南郷征四郎が忌々しそうな表情で低い声を発する。

「ええ、小耳に挟んだところでは、戦争放棄の条文を加えること以外に、陸軍海軍空軍すべてを廃止して自衛隊なるものを作るともいってますな」

「なんです、その自衛隊というのは?」

 寺内大臣は真っ赤な顔で吠えながら、小さく「失敬」といって近衛元帥の左脇の空席に腰掛けた。

「なんでも決して自分たちからは攻撃しない自衛のためだけの軍隊のようです」

 そういったのは寺内大臣の左横に腰かける空軍大臣の岩本孝太郎である。

「専守防衛ってことですか」と近衛元帥がボソッといった。

「そんなのできるわけがない!不可能だ。あいつはいくさがどのようなものかちっともわかっちゃおらん!」

 と寺内大臣は口角泡を飛ばす勢いでまくし立てた。

「ええそのとおりですな。そんな理想論じゃ、この生き馬の目を抜くような国際情勢の荒波を乗り切ることはできませんよ。帝国陸海空軍がいるからこそ、中国もロシアもアメリカも手出しできないのは、歴史が如実に語っているではないですか」と寺内大臣と一緒に遅れて入室した瀬島虎雄参謀総長が言葉を継いだ。

「どうやら尾崎首相はアメリカと軍事同盟を結び、その核の傘に入るつもりのようですよ」と言ったのは、南郷海軍大臣の右隣に座っている海軍軍令部長の秋山貢である。

「しかも沖縄基地を譲渡するという話まで出てます」とやや遠慮がちに説明を付け加えたのは空軍作戦指導部長の南部航平。

「売国奴か、奴は」と寺内大臣。

「そんなことで国の独立が本当に守れるとおもってるのかね」と南郷大臣。

「絵空事だ!」と寺内大臣がすかさず切り捨てる。

「本当にけしからんことです。沖縄基地が、そもそも戦略上いかに我が国において重要なのかをわかっておらん」と岩本空軍大臣。


「……で、竹中君、どうして尾崎がかくも強気に憲法改正を推し進めようとしているのか、背景はわかったのかね?」と瀬島参謀総長が冷静な口調で、元帥のほぼ真正面に座っている国家中央情報局長官の竹中亮平に問いかけた。


 竹中局長はけげんな表情で「ええ」とうなずき、隣に腰かける機密情報室長の三枝龍太郎に目で指示をした。三枝は小さくうなずいて、

「どうやら政府は理化学研究所と結託して過去の歴史を強引にひん曲げたようです」と答えた。


 一同呆気にとられる。


「歴史をひん曲げるとはどういうことだ!」

 寺内大臣がいらだたし気に声を荒げた。が、三枝室長は眉一つ動かさず平然と答える。

「タイムトリップを行うことで過去における歴史上の出来事を改変したのです。イスラエルのユリワーグナー博士と理研の風馬博士が共同開発したタイムテレポーターはご存知ですか?」

「それは知ってる。物質を時空間へ送り出す超光速ビームと時空トンネルを作り出すネガティブエネルギーを同時に生成する画期的な機械だと認識もしているが、結局タイムテレポーターは量子レベルの物体しか運べないと聞いている。人間どころかミジンコのような微生物だって運べないはずだが——」と手前味噌の知識をひけらかしたのは秋山軍令部長だ。

「はい、確かにそうです。しかし、実はミジンコではすでに成功しています。のみならずマウスや犬などの哺乳類でも成功しているようです。それらはすべて驚くべきことに現在と過去の一点との間で時空間往復移動を行うことにも成功しています。——つまり過去へ時間移動するだけでなく、そのままの姿で現在に戻ってきたのです。——どうやら、風馬博士の特殊研究室は密かに生物を分子レベルに分解し、自動的に再結合するDNA型埋込みプログラムの開発に成功したようです。そのプログラムは単に一方向の時間移動を実現させるだけでなく、ある種の刺激や制限時間をあらかじめ記憶させることで、遠隔地に居ても自発的に同じプロセスを踏み、出発地点に自動的に戻ることも可能にするらしいです。——しかし、おっしゃる通り、そんなリスキーなことを人間で行うわけにはいきません。それそれゆえに人間はタイムトリップできないのですが——そこで風馬博士は、戦闘用クローンを使った実験を試みたのです」

 瀬島参謀総長が、身を乗り出す。

「戦闘用クローンは陸軍としても将来の地上戦の切り札として最も期待している特殊兵器だと認識しているが、タイムトリップの実験にも利用されているというのかね?」

「ええ、その通りです。どうやらその実験は理研内部でも風馬所長以外誰も関わっていない超極秘事項だったようです」

「その実験の依頼者が尾崎首相というわけです」と竹中長官。

「——それは成功したのか?」と秋山軍令部長。

「ええ、どうやら。テレポーターに内臓されたコンピュータのログデータを調べたところこれまでに十人のクローンを過去の世界へ送ったようです。時代はいずれも幕末。少なくとも既にパラレルワールドが生成された様子から判断して作戦はほぼ成功したと考えて間違いありません」

「パラレルワールドとは、なんのことだ?」と南郷大臣が急に目が覚めたようなとぼけ顔で聞いた。

「もう一つの世界のことです。尾崎首相と風馬博士は、歴史的事件を作為的に改変することで、まったく別の歴史をたどる世界を作ったのです」

 なんだそりゃ?という表情で腕を組んで顔をしかめる寺内大臣を横目に瀬島参謀が質問を続ける。

「歴史的事件とは何ですか?」

 三枝は、一瞬息を呑みこんで、全員を見渡した。

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