第2話 首相官邸

 首相官邸のもっとも奥の半地下に設けられた洋間の一室。完全防音、完全防火の壁に覆われ、放射能や毒ガスの侵入も遮断する文字通り鉄壁のシェルター。——その部屋の煉瓦作りの暖炉の前に置かれた肘掛けつきのソファにゆったり腰掛ける初老の男二人。——一人はブランデーのグラスを弄び、もう一人は葉巻をくゆらせている。


「どうやら、うまくいったようですね」とブランデーの男が満足気に微笑む。

「うん、さすがに市村少佐の娘だけのことはあるね」と葉巻男。

「——のクローンですけどね。正確に言うと」

 互いに目を合わせて鼻で笑う。

「世論もだいぶ変わった」と今度は葉巻男。

「ええ、どうやらすべては風馬博士の計算通りに事が運んでいるようです」

「ああ、本当によかった、ここまでは——しかし、軍部も気が付いているようだ」


 ブランデー男が心配そうな顔つきを浮かべる。


「そうですか、何か手を打ってくるでしょうね」

「どうやら神田副所長と話をしてるらしいな」

「神田副所長というと理化学研究所のデカ鼻博士ですか?」

 葉巻男は紫の煙を吐く葉巻を奥歯で噛み締めながら小さくうなずく。

「だが、とてつもなく優秀らしいぞ。しかも南郷海軍大臣とは高校の同窓だし、中央情報局長官の竹中とは姻戚関係にあるらしい」

 ブランデー男はグラスに口をつけてゴクリと嚥下した。

「それは厄介ですね。でもまさか時間移動装置の操作方法はわからないでしょう」

「言ったろ?神田は天才だ。風馬所長とは人間のタイプは正反対だが、我が国の時間移動物理学界の双璧と言われているし、理論においてはむしろ第一人者と言われているのだ。きっとすぐに操縦方法ぐらい会得するはずだ」

「しかし、刺客はすでにターゲットの殺害に成功したのですから、もうどうすることもできないのでは?」


 葉巻男は苦み走った顔で小さく首をふる。


「軍部の奴らが時間移動装置を利用して、風馬理子ら刺客全員が先に殺されたらどうする?」

「——追手を差し向けるということですか?」

 葉巻男は大きくうなずく。

「もしそれができればせっかく生まれたパラレルワールドも煙のように消えるらしい」

 ブランデー男は眉間に皺を寄せる。

「それは困ります」

 葉巻男も黙ってうなずく。

「どうやら神田は、風馬所長の娘、つまり市村さんの娘のクローンの妹の方を自宅に連れ込んだらしいぞ。俺の勘では、妹をその目的のために時間移動させようとしてる。——おそらく間違いあるまい」

「……それは厄介ですね」といってブランデー男は神経質そうに片膝をゆすった。

「だから今日、その妹の腕と足を一本ずつへし折るぐらいのつもりで、こっちから先手を打ったのだ。——だが、屈強の戦闘用アンドロイドが二人とも手もなくひねり倒された」

「そんなにすごいんですか」

「ああ、ひょっとしたら姉貴以上の戦闘用ガイノイドかもしれないな、あの妹は」

「であれば、なおさら早めに始末しておかないといけないじゃないですか。頼みますよ」


 葉巻男は糸を引いたような細い目でギロリとブランデー男を睨みつけた。


「バカいえ、相手は有名私立高校に通う女子高校生だぞ。しかもクローンとはいえ、特別指定ガイノイドだ。一国の首相が殺しにかかわっちゃまずいだろ?」

「まあそうですね。どっちみち明後日でしたね、風馬理子が現代に帰還するのは。明後日になれば、すべては終わります」

「ああ、そうだな。風馬博士だって最初の何回かは失敗の連続だった。いくら神田が秀才とはいえ、たった一度で時間移動に成功するとは思えんしな」

 そこでブランデー男はようやく貧乏ゆすりを止め、油ぎった顔面におぼつかない笑顔を浮かべる。

「まあ、軍部の奴らがそれまでに手荒なことをしなければいいが——」

「野党の動きも心配ですね」

「そっちは俺の方でなんとかするよ」

「そうですか、よろしくお願いしますよ、井伊官房長官」とブランデー男は目の前のサイドテーブルにグラスを置いて頭を下げた。

「ああ。が——あんたも無用に軍部を刺激しないようにしてくれよ——尾崎首相」といって葉巻男は、手に持った灰皿に葉巻を押し付けその火を揉み消すと、スクッと立ち上がった。そして一拍遅れて立ち上がって見送ろうとするブランデー男を手で制した。

「ここで結構。明日の閣議は大もめになるかもしれんな」

「ええ、それならそれで望むところです。——まあ、最後の悪あがきでしょうから。でも井伊さんのお陰で、やっとこの国にも本当の民主主義が根づきますよ。ありがとうございます」

 そういってブランデー男は座ったまま背中越しに葉巻男を見送りながら、ブランデーグラスを頭上に掲げた後、もう一度口をつけた。

 去り際に葉巻男が、

「あんたもくれぐれも身辺には気をつけてくれ」というお為ごかしの言葉を残したが、結果的に逸る心を押さえきれない様子のブランデー男の耳には届かなかったようだ。


「じゃあ、また明日」

 そういって葉巻男はそのままふりかえることなく部屋を出た。


 そして首相官邸の車寄せから迎えの車にすばやく乗り込むと、すぐに携帯で電話をかけた。

「ああ、俺だ。井伊だ。うん、うんそうだ——あとは、万事よろしく頼む」

 そういって電話を切ると、瞑目したまま口元に笑みを浮かべた。



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