第63話 幕間~???~


「シルフィ嬢が出奔しただと!?」


 マリス教国の首都のとある一室で執務中だった壮年の男は、目を通していた書類から顔を上げると低い声で叫んだ。


「はいベルク団長、さきほどコルネリウス家からそのような知らせが入りました」


「ならばすぐに衛兵隊と騎士団を手配して法都を封鎖しろ。いいか、発見した場合は丁重におもてなししろと命令を徹底させろ。決して手荒な真似は許さぬ、ともな」


「そ、それが……」


「なんだ、まだ何かあるのか?」


「コルネリウス家によるとシルフィ嬢が出奔したのは一月も前のことのようでして……」


「なんだと!?それでは三日後の作戦に間に合わんではないか!?」


 部下と思しき若者に最初のセリフを繰り返した男だったが、明らかに二度目の方が何倍も怒気が籠っていた。






「どういうことか説明していただきましょうか」


 それから少し時は進み、壮年の男ベルクの姿はコルネリウス家の屋敷の応接間の中にあった。

 そのベルクと向かい合って座る上質な法衣を着た小柄な男は、ペコペコ頭を下げながら謝罪の言葉を繰り返していた。


「ベルク殿、この度はまことに申し訳なく。何分わがまま放題に育ててしまったがゆえ、あの子の行動を父親の私すら予想できずにこのようなことに……」


「私は謝罪が聞きたいのではないのだ、コルネリウス司教。この大事な時に作戦の中核となるべきお方が、しかも一か月も前にいなくなっていたことが、なぜ今頃になって私の耳に届いたのかということを説明してもらいたいのだ」


「そ、それは、あくまで我が家のことですから、ベルク殿の御手を煩わせることはないと思いまして……」


「バカな!シルフィ嬢の失踪があなた方だけの問題で済むとでもお思いか!?」


 その言葉に、これまで何とか平静を保とうとしていたベルクから、憤激の声と共に、目の前にあった重厚な木のテーブルを割らんばかりの拳の一撃が部屋中に響き渡った。


「よいか、今回、北の山脈に出没しては周囲の民を脅かしている大型ドラゴンは、通常なら一個師団を当てて討伐に臨むところなのだ。それを、あなた方コルネリウス家の強引な横車で、急遽シルフィ嬢の強力な法術を当てにした作戦に変更されたのだ。それを直前になって、その要のシルフィ嬢が失踪したでは、コルネリウス家だけでなく我が騎士団にとっても大失態となるのだぞ!」


「そ、それは……」


「勘違いしないでほしいのだが、私は別に他の神殿騎士団の団長や教会の生臭坊主共に何を言われてもなんとも思わんし、左遷の憂き目にあっても再び返り咲けるだけの実力が自分にはあるという自負もある。だが作戦の失敗は病床にある猊下の御心の負担になることは間違いないし、何より次期教皇候補にその名が挙がっているシルフィ嬢の失点となることだけは我慢がならん。まったく、シルフィ嬢もこんな大事な時期に教都を抜けるなど何を考えておられるのか……」


 ここぞとばかりに不満をぶちまけたべルクだったが、先ほどからびくびくしっぱなしのコルネリウス司教の目が四方八方に泳いだ瞬間を見逃さなかった。


「司教、言うなら今のうちですぞ。もし、後日まだ私が把握していない事実があなた以外から知らされた時には、コルネリウス家とは金輪際絶縁させていただく」


「そ、それが、その、まだシルフィーリアには討伐作戦のことも教皇候補のこともまだ言ってなかったもので……」


「この馬鹿者がっ!!」


 そうコルネリウス司教を大喝したのはベルクではなく、突如従者に扉を開けさせて応接間に入ってきたかくしゃくとした老人だった。

 自分の言いたかったセリフをそのまま老人に取られ、肩透かしを食らった形のベルク。

 だが老人の顔を見た瞬間、一言文句を言ってやろうという考えは霧散していた。


「これはコルネリウス枢機卿閣下」


「ち、父上!?いつ御戻りで!?」


「つい先ほどじゃ。ようこそ我が屋敷へ、ベルク殿。どうやら茶のもてなしも受けておらぬ様子、気が付かぬ息子で申し訳ない。これ、誰か茶の用意を」


 ポンポンと手を打って従者を呼ぶ老人。

 それを見たベルクもコルネリウス司教も微妙な顔を見せたが、マリス教国において教皇に次ぐ権力を有する枢機卿の一人の厚意を遮ることができる者はこの場にはいなかった。






「さてベルク殿、まずは息子の度重なる不手際をお詫びしよう」


 屋敷のメイドによって香り豊かな紅茶が三人に供されそれぞれが一口付けた後、最初に口を開いたのはこの場で最も位の高い老人だった。


「すでにお分かりかと思うが、我が不肖の息子は政治にはまるで疎くてな、本人もそのことを自覚しておるから司教以上の出世は望んでおらん。ならばとワシが留守の間の家のことくらいなら任せられようと思って、三か月ほど各地を回って帰って来てみればこの事態じゃ。誠に申し訳ない」


 そう言って、なんとマリス教国において教皇の次に強い権力を有する枢機卿の一人が、二十以上も年の離れた男に向かって頭を下げた。


 それを見たコルネリウス司教も慌てて父親に倣うならう

 普通ならここまで実の父親から厳しい言葉が出れば卑屈な態度を取りそうなものだが、コルネリウス司教の目には申し訳なさそうに伏せられてはいても感情の濁りは一切感じられなかった。

 やはり育ちの良さが出ているのだろうか、とベルクは何気なく思いつつ言った。


「謝罪は受け入れましょう」


 枢機卿の謝罪に対する返事としては不遜そのもののベルクの態度だが、それは、彼もまたマリス教国において要職の立場にあるからに他ならない。


 マリス教国教都を守護する三大神殿騎士団の一つ、聖枝騎士団の団長にして個人としても五指に入るほどの実力者、まさにマリス教国の武の象徴と言える人物だ。

 枢機卿の職にあるものと言えど、仇やおろそかにしていい存在ではなかった。


「しかし司教殿にも説明申し上げたが、三日後に迫った討伐作戦はもはや中止にできない段階にまで来ております。実際問題、シルフィ嬢が担うはずだった回復魔法の使い手が足りぬままでは、私は部下をみすみす死なせる羽目に陥ってしまいます」


 ベルクの重い言葉を受けて、コルネリウス枢機卿は初めて沈黙した。

 枢機卿が方策を考えているのはベルクの目から見ても明らかだったので、目の前の紅茶を飲みながらその答えが出るのを待った。

 ちらりと息子の司教の方を見たが、同じ沈黙でもこちらは深い考えがあって黙っているわけではなさそうだった。

 やはり噂通り、コルネリウス家の次期当主は嫡男であるはずの彼ではなさそうだ、とベルクの中の情報の確度が一段階引き上がったところで、応接間の主が口を開いた。


「……ワシが同行しよう」


「閣下がですか!?」


「ち、父上!?それはいくら何でも!?」


 同時に椅子から立ち上がって驚きの声を上げたベルクとコルネリウス司教だったが、それ以上の言葉を枢機卿が手を上げて制したため、再びそれぞれの椅子に腰を落ち着けた。


「まあ聞け。理由はいくつかある。一つはあと三日で討伐作戦に必要な治癒術士を揃えるのはわしの力を以てしても現状では極めて難しい。ワシの派閥に声を掛ければそのくらいの頭数を揃えるのも不可能ではないが、いかんせん時間がない。それならば孫娘ほどではないにせよ、神樹教屈指の治癒術士と謳われたワシが行けば声を掛ける人数を大幅に減らすことができる」


「しかし父上、何もそこまでせずとも……」


「わかっておる。他の派閥に頭を下げて優秀な人材を借りればよいと言うのじゃろう。じゃが二つ目の理由がその方法を許さん」


「シルフィ嬢、ですな」


 口を挟んできたベルクに対して咎めるでもなく、重々しく頷くコルネリウス枢機卿。


「左様、元々、今回のドラゴン討伐作戦はベルク殿も察しておるように、我が孫娘シルフィーリアに手柄を立てさせるためにワシが息子に命じて、圧力をかけさせて変更したものじゃ」


 本来あるべき建前を忘れたかのような枢機卿の言葉に、ベルクは軽くだが目を見開いた。

 目の前にいる老人は、枢機卿の位に上がってからすでに三十年を数える教都の古狸の異名を持つ神樹教屈指の権力者だ。

 そんな彼が極秘の話とはいえ、こうも赤裸々に内情を明かすとは完全に予想外だった。

 枢機卿自ら討伐作戦に参加する意志を固めていることも含めて、どうやら目の前の老人はこの討伐作戦に大きな望みを賭けているのだと改めて気づかされたベルクだった。


「残念なことにその望みは絶たれてしまったわけじゃが」


 言葉を区切って枢機卿はただ一瞥しただけだったが、視線の先にいた司教は真っ青な顔で震えあがった。

 過去に老人の真の恐ろしさを知る機会があったベルクは、自分があの立場にいたなら同じ反応をしただろうな、と背筋に冷や汗を感じた。


 ちなみに、その視線を受けた当時出世街道のトップをひた走っていた若者だが、魔族が圧倒的に優勢な戦線に従軍司祭として投入されて、死体すら見つからず行方不明扱いになっているという。


「ワシが討伐作戦に参加すれば、シルフィーリアの功績にはならずとも失点になる事態だけは避けられる。ついでにドラゴン討伐の功績で発言力が増したワシが次の機会を作ってやることもできるじゃろう。じゃが」


 そこで一旦言葉を止めた枢機卿は、すっかり冷めてしまった紅茶を一口飲んでから話を続けた。


「ここで討伐作戦を延期、または他派閥の力を借りればシルフィーリアの出奔の噂が教都中を駆け巡り、次期教皇選挙への致命的な失点となるじゃろう。それだけは避けねばならぬ。ベルク殿には負担をかけてしまうことになるが、協力してはもらえぬか?」


 これまで見せたことのないコルネリウス枢機卿の真剣な表情を見て心を動かされたわけではない、とベルクは自分に言い聞かせながら改めて老人に向き直った。


「自分の使命はあくまでも教国の安寧を守ることにあります。どのような形であれ、その手段があるというならそれに従うまでです。ただ一つ、私の任務に治癒術士として同行するということは閣下も私の指揮下に入るということになります。私の命令には従っていただきますし、指揮系統の乱れとなるような特別扱いはできません。それでもよろしいか?」


「もちろんじゃとも」


 間髪入れずに即答した老人にコルネリウス司教が何かを言いかけたが、先ほどの父親からの目を思い出したのか結局何も言うことはなかった。






「よろしかったのですか、父上?いえ、決して父上やベルク殿の力を侮っているわけではないのですが……」


 応接間の一面を占拠する巨大なガラス窓から、屋敷を出るベルクを見下ろしながら、コルネリウス司教は現当主に尋ねた。


「さっきはああ言っておったが、ベルクは一度引き受けた任務はどんな障害があろうと必ずやり遂げてきた男じゃ。やつが討伐任務を請け負った時点で、すでに成功は約束されておったのじゃ。じゃからこそ、肝心の主役が抜けておることは返す返すも惜しいのじゃがな」


「は、この度はまことに申し訳なく……」


 身の置き所がないと言った様子で冷や汗をかきっぱなしの息子を見て、これでもう少し肝が据わっていればわずかな間だけでも当主に据えることもできたのに、とコルネリウス枢機卿は内心溜息をついた。


「まあ済んでしまったことは仕方がない。幸いシルフィーリアの出奔の理由は分かっておるのだ、美談にして教都に流布させることなど、討伐さえうまくいけばどうとでもなる」


「なるほど、さすが父上。さっそく家令に準備をさせておきます」


 そう言った息子の言葉に頷くコルネリウス枢機卿。


 もちろん、コルネリウス司教が実際の段取りや流布する噂の内容を考えるわけではない。

 実際には、枢機卿が信頼するコルネリウス家の家令を始めとした家臣たちが行動するのだ。

 自分の息子はただ命令を下すだけ。

 息子の為というよりはコルネリウス家のために長年苦心して作り上げた仕組みに思いを馳せながら、老人はちょっとした違和感に気づいた。


「そう言えばセシルはどうした?いつもならワシが帰ってきた時には真っ先に挨拶に来るだろうに」


「それなのですが、シルフィーリアがいなくなってからというもの、騎士団の任務を放りだして昼夜問わず妹の行方を捜し回っているようで、最近では三日に一度ほどしか家にも帰ってきません」


「……まだ国外に出た可能性については話しておらんのか?」


「そのことをセシルに話せば確実に追って行ってしまうことは、私にも分かりますから、屋敷の者にはかん口令を敷いております」


「賢明な判断じゃな」


 家族のことなので当然と言えば当然のことだが、老人は息子の処置を支持した。


「この際だ、暴走せぬようにワシ自ら監視する目的も兼ねて、セシルをワシの護衛という名目で討伐作戦に参加させよう。あれでも騎士院を首席で卒業した俊才じゃ、討伐隊の足を引っ張るようなことにはなるまいて」


「早速呼び戻します」


 しかし、そんなコルネリウス親子の目論見は早々に崩れることになる。


 コルネリウス家の屋敷のセシルの部屋の上にあった「シルフィを捜して来ます」との書置きの発見と、コルネリウス家の印章を使ってマリス教国の各関所を通過した若い騎士が国外へと出たという報告が届いたのは、その日の夜のことだった。






「全員整列、静かに急げ」


 それから三日後の早朝、相次ぐ孫の失踪に憔悴したコルネリウス枢機卿の姿は野生の大型ドラゴンが潜むという山の中腹にあった。


「いいか、もうすぐ討伐対象のドラゴンのテリトリーに入る。各自荷物を置き装備の点検を――」


 部隊の指揮官が金属音を鳴らさないために全身革装備で固めた騎士たちと同行する数名の治癒術士に指示を与えている中、離れた場所で休憩している老人の元に近づいてくる人影があった。


「大丈夫ですか閣下?どうやらあまり睡眠をとられていないご様子ですが……」


「心配をかけるなベルク殿。じゃがこれでも昔取った杵柄、この程度の行軍など疲れた内に入らんよ」


「それはなによりですが、一つ気になる報告を部下から受けました」


 内密の話と察した老人は周囲にいた部下の治癒術士たちに目顔で合図を送り、無言の命令に彼らは二人に一礼すると森の奥へと消えていった。


「気を使わせてしまったようで」


「構わんよ。あ奴ら全員よりもお主一人の方が護衛としては頼りになるしのう。それにこのような人目のない場所でないと話せぬことなのじゃろう?」


「察しが早くて助かります」


 苦笑したベルクだったが、それでも話しづらいことなのか一段と声を潜めて話を始めた。


「実は私のところにも、とある騎士が国境を超えたとの知らせが密かに入ってきました」


「……」


 マリス教国屈指の権力を持つ老人の顔が無表情を貫こうと試みたが、失敗し、口元がひきつった。

 老人自身、それほどまでに今回の情報封鎖には自信を持っていた証拠でもあった。


「ご安心を。今回私の耳に届いたのは偶々騎士のことを知る部下が国境付近の任務中に見かけただけのことです。その騎士から直接報告を受けたので、このことを知るのは私を含めて二人だけです。もちろんその騎士にもかん口令を敷いてあります」


「……やれやれ、今回ワシが参加したことで君への借りは返したつもりじゃったが、どうやら知らぬうちに新たな借りを作ってしまったようじゃな」


「できますれば一つ、その部下の妹が閣下の派閥の末席を汚しているそうなので、目をかけていただければこれに勝る喜びはありません」


 ベルクはその後にマリス教国において中の下の家格に位置するある家の名を告げた。


「今は主がおらぬが、とりあえずシルフィーリア付きの世話役、ということでどうじゃ?」


「有り難き幸せ」


「お主も欲のないことじゃな」


 枢機卿への借りという大きなアドバンテージを部下のために惜しげもなく使うベルクに、呆れ半分で感心する老人。


「話を戻しますが、やはりセシルはそちらにも戻っておりませんか」


「そう言えば、わが孫は聖枝騎士団に所属しておったのじゃったな」


「は、このようなことを閣下に話すのは臆病者のそしりを免れぬでしょうが、今回閣下の私的な護衛として参加すると期待、というより有体に申し上げると主戦力の一つとして計算に入れておりました」


 ベルクの意外過ぎる言葉に老人は目を見開いた。


「息子からは騎士としては十分立派にやっているとは聞いておった。じゃが、お主が認めるほどの腕前だとは知らなんだ」


「少々素行に問題はありますが、もはや騎士団内の模擬訓練で相手になるのは私くらいなものでしょう。私の杞憂ならよいのですが、今回討伐する大型ドラゴンによる被害を洗い出してみたところ、どうにも被害規模が大きすぎる気がするのです。一応知能の低い野生のドラゴンに対応できるだけの戦力は連れてきたつもりですが、最低でも私の他にもう一枚は切り札を用意しておきたかったのは事実です」


 この世界における最強生物の一角として名前の挙がることの多いドラゴンだが、一口にドラゴンと言っても大別して二種類に分けられる。


 一つは竜族とも呼ばれる、個体によっては人族や魔族よりもはるかに高い知能と寿命を有する知的生命体だ。

 その多くは言葉を理解し、時に会話することのできる者までいるという。

 また、他種族にはない様々な秘術を有しているとも言われているが、その実例を記した文献が非常に少ない、謎に包まれた種族である。


 もう一つが獣並みの知能しかなく、魔物の一種に分類される野生のドラゴンである。

 理性のある竜族とは違い、長距離を移動できる大きな翼と鋼の武器を通さない固い鱗、鋼鉄の鎧を引き裂く爪と牙にすべてを焼き尽くす炎のブレスなどの身体能力を欲望の赴くままに躊躇なく発揮するため、少なくとも人族の間では最優先討伐対象の危険生物として認知されている。


 だが中にはこの二つの境界線を突破した、つまり竜族並みの特殊能力を備えた野生のドラゴンが突然変異として出現することがある。

 聖枝騎士団団長ベルクは歴戦の騎士のカンでその可能性を示唆したのだ。


「……まさかシルフィーリアだけでなく、もう一人の孫の失踪までもが祟ってくるとは……」


「閣下、これはあくまで私のカンです。常識的に考えて、そのような事態になる可能性は論じるだけ無駄、という程度のものです」


「じゃが、それでもお主はワシに告げた。ワシは現場の判断は重視する主義でな、討伐対象が突然変異であるという前提で覚悟した方がよさそうじゃ」


「閣下……」


 まるでそのセリフを待っていたかのように「よし、出発するぞ!!」と指揮官の声が二人の耳にも届いてきた。






「だ、団長、あれはまさか……」


「各員に通達、予定通り部隊を四つに分けて四方に潜ませろ。絶対に気取られるなよ。それから私が斬り込むまで絶対に手は出すな」


 ここは問題の野生のドラゴンを目の前にした茂みの中。

 討伐部隊はドラゴンに気づかれないように各所に潜んでいたが、そのほとんどが大なり小なり予想外の事態にわずかながらの恐怖を感じていた。


 上司の命令を受けて革の鎧を着た部下が下がったのを気配で感じたベルクだったが、その視線は茂みの向こうに鎮座する小山ほどの大きな影に固定されたままだった。


(くそっ!!よりによって属性竜、それも黒だと!?これでは討伐はおろか、負傷者を撤退させることすら難しいぞ!)


 ベルクの目に映る大型ドラゴンの体には多少の赤が混じっているが、ドラゴンの中でも特に危険と言われている黒色の鱗が確かに見えていた。

 もはや多少の犠牲はやむを得ないと覚悟したその時、ベルクに声をかける者がいた。


「そう逸るなベルク殿」


「閣下!?このような危険な場所まで出てきてもらっては困ります!」


 後方で控えているはずのコルネリウス枢機卿の姿を見て、叫びそうになる声を必死に抑えるベルク。


「もちろんあれが属性竜、それもひときわ厄介な黒の色を持つ竜だということは重々承知じゃ。じゃがおかしいと思わんか?いや、皆の命を預かる身としては目の前の脅威に集中するあまりに違和感に思い至らぬのも無理はないが」


「話ならば後で聞きましょう。それよりも今はすぐにお戻りを。一度攻撃を始めてしまえば、いかに私といえど閣下をお守りする自信などありません」


「すべての感覚をあの黒竜に向けてみよ、ベルク殿。さすればお主なら、アレから何の気配も感じられぬことに気づけるはずじゃ」


 一時的にとはいえ指揮下に入ったはずのベルクの命令をを無視する形となった老人の言葉だったが、その意図を一瞬で理解したベルクの表情に緊張の代わりに驚愕の色が表れ始めた。


「馬鹿な、いやそんなまさか……!?」


 思わず隠れていた茂みから飛び出した団長の姿に、周囲から少なからぬざわめきが聞こえてきたが、ベルクはすべてを無視してそのまま黒竜に駆け寄った。


「し、死んでる……」


 もはや触れられるほど近寄ったというのに、反応どころか寝息一つ聞こえない黒竜の体を見てベルクは確信した。


「やはりか。ワシにはお主のような鋭敏な五感はないが、本来黒竜から感じられるはずの魔力の量があまりにも少なすぎたのでな、もしやと思ったのじゃ」


「迂闊でした。相手が黒竜だと知ったことで、少々舞い上がっていたようです」


「いや、最悪を想定して事に臨んだお主を責める者は誰もおらんよ。それよりも今はすべきことがある」


「――はい、見た限りでは、老衰で死んだとはとても思えない若い個体です。まずは死因を特定しなければ」


 それから、遠巻きに見ていたそれぞれの部下を使って、外傷と残存魔力の二面から調査を開始したベルクとコルネリウス枢機卿だったが、先に手がかりを発見したのは老人の方だった。


「ベルク殿、ちょっとこっちに来てもらえまいか」


「何か見つかりましたか?」


 枢機卿が待つドラゴンの頭部へと移動したベルク。


「見つけたというほどではないのだがのう、何やらこの頭の中にドラゴンのものではない魔力反応があるようでな。中を見てみたいのじゃが、ワシもワシの部下も解体作業には不向きじゃからな、ここはお主に任せてもよいかのう?」


「もちろんです。ただ、ドラゴンの体は使えぬ箇所はないと言われるほどに、素材として有用で貴重なものです。解体にはしばし時間がかかりますが、それでもよろしいですか?」


「言ったじゃろう、この討伐作戦中はお主の指揮下に入ると。全て任せた」


「ありがとうございます。では、頭部の解体を最優先で済ませますので、少々お待ちください。副官!副官はいるか!」


 それからしばらく後、慎重に解体作業を進めていた聖枝騎士団の一人が黒竜の脳内から本来あるはずのない異物を発見した。


「閣下、お探しのものはこれでしょうか?」


 黒竜の血と脳漿にまみれていた異物を洗浄した後、ベルクは待ち構えていたコルネリウス枢機卿の手に渡した。


「それを探す過程で、黒竜の死因も判明致しました。はっきりとした致命傷はまだ不明ですが、どうやら黒竜の口から何かが侵入し、口腔内と脳をずたずたに切り裂いたことが原因で絶命したものと思われます。頭部を隅々まで調べましたが、出てきた異物はそれだけ、にわかには信じがたいですが、凶器はそれで間違いないようです」


 ベルクの報告は簡潔かつ完璧だったが、コルネリウス枢機卿の耳には届いていなかった。

 正確には、ベルクの報告を聞く余裕が、この時のコルネリウス枢機卿にはなかった。


「………………なんということだ」


「閣下?いかがなされましたか?」


「……ベルク団長、今すぐこれを取り出した際に関わったすべての団員をここに呼びたまえ。さらにそのほかの者たちには休憩を取らせて絶対にここには近づかないように指示したまえ。これは枢機卿としての命である」


「――は、直ちに」


 突然前言を撤回して、普段滅多に濫用することのない、枢機卿としての強権を発動させた老人に驚いたベルクだったが、ためらいを見せたのは一瞬で、すぐに言われるがままに指示を飛ばし、全ての関係者を枢機卿の前に勢ぞろいさせた。


 その様子を確認した後、コルネリウス枢機卿は重々しい口ぶりで話し始めた。


「諸君、今から君たちには、私とベルク殿の二人と魔法による契約を交わしてもらう。その内容とは、ドラゴン解体中に見聞きした一切を口外しないというものだ。これに違反した際には君たちだけではなく、家族親類縁者友人に至るまでことごとく処刑することになる。異論反論は一切認めない。さあ、これに署名したまえ」


 この、狂気としか思えない老人の言葉に、正気を疑った者は一人や二人ではなかっただろう。

 だが、彼らも教国中から選ばれた精鋭中の精鋭、時には他国の騎士よりもはるかに厳しい責務を負わされる覚悟をして、教国の騎士になった者たちばかりだったので、老人がいつの間にかに用意した魔法契約書に一人一人無言でサインしていき、仲間たちの元へと戻っていった。


 そうして全ての騎士が去りベルクと老人の二人だけになった頃、壮年の騎士団長が冷静を装いながら口火を切った。


「――コルネリウス枢機卿、これはいったいどういうことか、説明していただけるのでしょうな?」


「言えぬな、と言ったらどうするつもりかね?」


「まことに無礼ながら、部下の命を守るために誅させていただく」


 腰の剣を握るベルクは抜剣こそしていないが、放たれる殺気は本物だった。

 そして一たび剣が抜かれれば、老人が指一本動かす前にその胴と首が離れることは確実だった。


「これはお主のためを思って言っておるのじゃがな、聞けば二度と安寧の暮らしはできぬかもしれんぞ?それほどの秘密じゃ」


「すでに教国と神樹教にこの身命を捧げた身、何を恐れることがありましょう」


 枢機卿の諭すような言葉にも一切ぶれることなく己の信念を語ったベルク。

 その瞳はどこまでも澄み切っていた。


「仕方がないのう。では、話すとしよう」


 大きなため息をついた後、コルネリウス枢機卿は威儀を正した上で話し始めた。


「ベルク騎士団長よ、そなたは神樹についてどれほど知っておる?」


「……経典にも詳しい記述が記された書物は少ないため、太古の昔にこの世界に生命をもたらした万物の源としか――その後神樹は忽然と姿を消し、それ以降に神樹探索を目的として発足した一団が今の神樹教の前身であったとか」


「うむ、十分じゃ。それでは神樹の実際の姿形は知らぬというわけじゃな?」


「はい、その通りです」


「これじゃよ」


「……は?」


「正確にはその欠片じゃがな、ワシもまさかこのような教都の近くで、先祖代々コルネリウス家の当主に伝えられてきたとおりの代物をこの目にするとは夢にも思わなんだ」


「お、お待ちください閣下!恐れ多くも閣下は聖遺物を発見したとおっしゃっているのですか?それは神樹教徒積年の悲願、後で間違いだったでは済みませぬぞ!」


 礼節を重んじることで有名な聖枝騎士団長が、珍しく我を忘れて教皇に次ぐ権力者に食って掛かった。


「……うむ、どうやらワシとしたことが少々冷静さを欠いていたようじゃ。よく見ると聖遺物と呼ぶには魔力が少なすぎる。じゃが、少なくとも形状、質感などは言い伝えに酷似しておる。真偽のほどはともかく、これは国内外を問わず神樹教の総力を挙げて探索し、コレの正体を暴かねばなるまいて」


「国内外問わず、ですか。それはもしや――」


「うむ、『根』を張る」


 そう宣言した老人の手には、細い棒と薄く鋭く削られた細い板を組み合わせて作られた、ごく一部の人間から竹トンボと呼ばれている奇妙な形の木の細工があった。






 その直上、人族には到達はおろか視認すら不可能な領域で、ソレは下界のその様子をを見ていた。






 カナラズ、カナラズミツケテワガツメデヒキサイテヤル

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