第4話 少女と海

目を開けていちばん最初に映った色は黒。

なにも見えない。もう一度目を閉じた。やっぱり黒。

暗い。怖い。寒い。寂しい。痛い。

ひとりぼっちの痛み。

ひとりじゃないことを知ってしまったからわかるひとりぼっち。

でも私は覚えている。暖かい光と優しい音を覚えている。

それに、今の私は言葉を紡ぐことができる。息を吸った。

どこからも漏れてしまわないように。たっぷりと時間をかけて体中をめぐるように。

そしてそれらを一気に吐き出した。


「アルドおにいちゃん……!」



 ――次元の狭間――


――チリン。


「よかった。ここにいた……リン。

 君の名前は リン……だよな」


陽だまりのおにいちゃんは私を探し出してくれた。


「そうよ。わたしのなまえはリン。鈴の音と同じ リンよ。

 ようやく アルドおにいちゃんに言えた。

 最初の質問のこたえ。おそくなってごめんなさい」


「いやいいんだ。……そうか。君は猫だったんだな。

 その……もう大丈夫なのか?」


「お別れする時間を作れたんだもの」


私が悲しむ資格はない。心配される資格はない。


「あのね……おねがいがあるの。

 最後のわがままを 聞いてくれる……?」


「ああ。何でも言ってくれ」


「ふふ。ほんとうに優しいおにいちゃん」


これが最後のわがまま。

あの子と会えて話せたことも奇跡だったのに

わがままな私にはもうひとつ未練が残っている。

人間の姿でいられることに意味を感じた。

この姿なら、人間の言葉を操れる。人間と言葉を交わせる。


「……わたしが元いた場所に行きたい」


「元の場所……どこかわかるのか?」


「海が見えて 大きな船が泊まってて お魚がおいしいところ……」


「それなら大丈夫だ」


「え……!? 今のでわかったの……?」


「ああ。いろんな時代を見てきたからな。

 海と船と魚って言ったら それは港町のリンデだよ」


「リンデ……」


初めての響きなのにしっくりきた。

リンデ。リンデ。港町のリンデ。

音を覚えるように、何回も口の中で転がす。


「わたしが元いた場所は 港町のリンデ」


いつかのように、きらきらが私の体の周りを舞う。

きらきら。ぴかぴか。ゆらゆら。

いつかのように、光は溶けながら、私の服を変えていく。


「服が元に戻っていく……」


「これは どの時代の服……?」


「オレが暮らしていた現代だよ。リンデがある時代だ」


そう。最初から教えてくれていたのね。

服は肌に馴染んだ。微かに磯の匂いがする。


「それじゃあ リンデに行こうか」



 ――港町 リンデ――


空が遠い。手をめいいっぱい伸ばしても雲をつかめそうにない。

白い鳥が飛んだ。水が跳ねる。魚が顔を出した。

白い煙が流れた。大きなカバンを持った人たちが走り出す。汽笛が鳴った。

お腹を空かせたことを知らせる鳴き声。縄張りを主張する鳴き声。

網で焼いた貝の匂い。おこぼれを狙う仲間の眼光。

家屋。小道。縄。桟橋。船。海。

知っている。すべて知っている。なつかしさに心が悲鳴を上げそうになる。

――私は故郷へ帰ってきた。


「ここにいるわ」


海が見える家の前で、私は足を止めた。

アルドおにいちゃんの顔を見て、頷いて、こぶしを握る。

一呼吸おいて、扉をたたいた。


「はいはい。どなたかしら……」


――チリン。


「こんにちは……おばあちゃん」


「あら……? これは珍しい。

 いらっしゃい 小さなお客さん」


皺をくしゃっとさせて、おばあちゃんが私たちを迎え入れる。

記憶のふたが緩んで、中身がこぼれた。


「……あの……。えっと……」


なんて言ったらいいのか。なんて言ったらわかってくれるのか。

言葉はわかるのに、伝え方がわからなかった。


「はいどうぞ。座って お茶でも飲んでちょうだい。

 待っててね。おいしいお茶請けも 持ってくるわ」


私がもたもたしていると、おばあちゃんはてきぱきと客をもてなす準備を進めた。

そうだ。こういう人だった。

おっとりしているように見えて実はせっかち。

こうと決めたことは必ず貫く。芯が強い女性。

おばあちゃんが台所へ入った隙に、アルドおにいちゃんが耳打ちをした。


「あのお婆さんが 君の会いたかった人?」


「うん……。でも いざ会ったら

 なんて言ったらいいか わかんなくなっちゃって……」


「ゆっくり。君のペースでいいんだ」


「ありがとう……」


「これ この前買った新鮮なお魚をすり身にして 甘く味付けしたものなの。

 お口に合うとよいのだけれど……」


「いただこうか」


おにいちゃんに促されて、お団子みたいな見た目のお菓子を口に入れた。

おもちよりもふわふわで、おもちよりもほんのりしょっぱい味だった。


「とっても……おいしい」


涙が一筋こぼれた。


「あら……?」


「うぅ……ぐすん……」


おばあちゃんが不安そうに見つめている。早く止めないといけないのに。


「ごめんなさい。違うのよ。さっき風が強くて なにかが目に入ったみたいなの。

 とってもおいしい。ありがとう おばあちゃん」


「そう……? それなら よいのだけれど……」


「お婆さんは ずっとリンデに住んでいるのか?」


おにいちゃんは私が泣き止むまで、話題を切り替えてくれた。


「はい。若い頃は 海に潜ったり漁をしたり 生粋の浜っ子だったんですよ。

 ……あらいけない! あの子にあげる分を取り分けないと」


そう言って、軒下に小さな白いお皿を置いた。

中には、私が今食べたお菓子が一口サイズに切ってある。


「あの子……?」


「ええ。よく家に遊びに来てくれる 白い子猫がいるんです。

 今はもう随分と長い間 来てくれないのだけれど……。

 いつでもお腹を空かせて帰ってきていいように

 毎日こうして置いておくんですよ」


毎日――。あれから毎日。

私が未来へ行ってしまってから、どれくらいの時が流れたのだろう。


「それは……もしかして……!」


「……どうかされましたか?」


アルドおにいちゃんは気がついて、私の表情を見て、口をつぐんだ。

ありがとう。いつも私の歩幅に合わせてくれてありがとう。


「いや……その……。毎日って……どのくらい……?」


「そうですね……。孫夫婦とお爺さんが東方へ行ってからなので

 ……だいたい十年くらいでしょうかねえ」


それは、私を待っているために……? たった猫1匹のために……?

おばあちゃんに言いたいことが見つかった。

言わなければならないことが見つかった。

そのために――。


「おばあちゃん」


「おや どうしたの?」


「渡したいものができたの。

 今はまだ持ってないから……少しだけ待っててくれる?」


「私に……? 何かしら 楽しみにしているわね」


――チリン。


外は夕日が沈んでいた。急がないといけないと思った。

たぶん今日が終わるそのとき――それが私の最後の日。


「わがままばっかりでごめんなさい……。

 キレイな砂浜で取れる あれがほしいの」


「気にしないでくれ。オレの意思で一緒にいるんだから。

 砂浜だな。未来の最果ての島に 綺麗な海岸線があるから一緒に……」


「ごめんなさいおにいちゃん……。体が……きしんでいるの……。

 あと1回でも時を超えたら 私の体は私じゃなくなってしまう」


「そんな……! わかった オレが急いで取ってくるから

 リンはここで待っててくれ!」


「ありがとう……」


アルドおにいちゃんの背中が遠ざかっていく。

私は私のやるべきことを――。

私は宿屋に向かった。言葉がわからなくても、身振り手振りで伝えた。

道端に置いてある木箱の上に、宿屋のおじさんからもらったものを置く。

人間の言葉は難しい。でも届けられる。つたなくても伝えられる。

私は月の光を頼りに、文字を綴った。

体が透けていく。あと少し。あと6文字……。

最後の1文字を書いた後、私はペンを落とした。

力が入らない。立っているのか座っているのか、感覚がなくなっていく。


「……リンッ!」


アルドおにいちゃんの声が聞こえた。

アルドおにいちゃんの横にはおばあちゃんがいた。ふたりとも息を切らしている。

私のために走ってきてくれた。そんな些細なことだけで、力が湧いてくる。

手放しかけた意識をたぐりよせた。

おばあちゃんの手には私がおにいちゃんに頼んだものが握られていた。

キレイな色。透明な色。空の色を映す。海の宝石――真珠。


「貴方は……?」


「しんじゅ受け取ってくれたのね。

 ……初めて会ったときに わたしのせいで 失くしてしまったでしょ?

 代わりにはならないかもしれないけど……」


「そんな昔のこと……。やっぱり貴方は あの白猫なのね……!」


「うん。不思議なことがたくさん起きて こうやって会いに来れたのよ」


「お帰りなさい……。お帰りなさい……!」


――ただいま。

手が見えなくなる。

指の隙間がせまくなった。人の手はねこの手になる。


「ほんとうは わたしが取ってこれたら よかったんだけど……。

 おにいちゃんが選んでくれたんだもの。きっとステキなものよ」


――ひさしぶり。

足が見えなくなる。

2本足で立っていられなくなった。人の足はねこの足になる。


「……さっきのお菓子 いつもくれたお魚の味がした」


――ありがとう。

顔の半分が見えなくなる。

口が動かなくなってきた。話す言葉はねこの声になる。


「きょうはおはにゃしできて うれしかった。

 ……さようにゃら……」


体が完全に猫の姿になったとき、私は世界から消えた。

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