第6話 たった一つの願い事

 私は、まだ生きているのか。

 夕方磔にされてから、夜が来るのは三度目だった。飲まず食わずでここに放置されて、今にも死んでしまいそうだと思うのに、夢とうつつの境を彷徨ってはまたここに戻って来ている。闇夜の中草や木が揺れる様が滲んで、今まで殺めてきた人間が、手をこまねいて地獄へと誘っているように見えた。

 賊や人斬りと言った、私が闇討ちしてきた人間共は、卑劣な私をさぞ憎んでいることだろう。けれど仕方がなかった。群れを成していたり、腕に覚えがあったりと、奴らを正面から相手にしていては身が持たない。“あの人”の為にできるだけ多くの人間を殺める必要があった私にとって、負傷することは何よりも避けたい事態だった。奴らは夜に顔を隠して行動する。魔物の蔓延る紅葉街道で、その危険を冒してでも闇に紛れたい理由があるからだ。私とて、罪の無い人間や、戦う術を持たない人間はできるだけ手にかけたくなかったから、襲撃する相手は選んでいたつもりだった。

 しかし夜に顔を隠して行動する人間が、全員悪人というわけではない。それをわかっていたのに、私は、お忍びで外遊に出ていた家老の娘を手にかけてしまった。勿論、殺めたときは気が付かなかった。数日もしない内に捕えられた折、“なぜ殺した”と家老自らの手による尋問を受け、“私の娘が何をした”と恨み言をぶつけられて、漸く己の過ちに気が付いたのだった。私を晒し者にすることに飽いたら、八つ裂きの刑に処すのだそうだ。何の罪もない未来ある若者の命を奪った罪人には、当然の報いだと言えた。

 そこまで考えた後、再びぼんやりと遠ざかりそうになった意識の中で、“あの人”の顔が思い浮かんだ。目の奥がツンとしたけれど、干からびた身体から涙が流れることは無い。

 私はここで死ぬ。

 あの家に残された“あの人”は、矜持を失い、腕を奪われ、心まで手放してしまった優しい“あの人”は、たった一人生きていけるだろうか。情け容赦なく現実を突きつけてくる、ちっとも優しくないこの世界で。

 あぁ、私は、間違えてしまった。何を拾い、何を捨てるべきか、その選択を。

 そんなことに今さら気が付くなんて、愚かしい話だ。あまりにも愚かすぎて、笑い話にもならない。大切なことに気が付くのはいつも、すべてが手遅れになってからだと知っていたのに。

 もっと一緒にいれば良かった。もっと一緒にいたかった。今は出口の見えない闇の中にいるのだとしても、何年か先に見える光があったかもしれなかった。ごめんね。愚かで、無力で、ごめんなさい。

 もしも奇跡が起きて、二度目のチャンスがあるのなら、その時は――……


“……おもい、だした……”


 強い光が収まった時、妖刀“竜胆りんどう”の声がか細くそう呟いたのが聞こえた。あの強力な衝撃波も消えていて、まだ万全というわけにはいかないが、身体を動かすこともできる。

 アルドは、まずイスカに駆け寄って立ち上がるのを手伝ってやりながら、妖刀“竜胆”を呆然と見つめて立ち竦むスイセンを見遣る。


「今の、記憶は……?」


 アルドとイスカには、スイセンと妖刀“竜胆”が何を見たのかまではわからなかったけれど、二人の言葉から、妖刀“竜胆”――それに憑り付いた異形――が忘れてしまっていた過去の一部を覗き見たのだろうと察することができた。

 スイセンの問いかけに、妖刀“竜胆”が震える声で答える。


“わたし……私の名は、スイセン……辻斬りを続けた結果、リンドウの元へ帰れなくなったスイセンだ……”

「ええっ!?」


 アルドは、思わず声を上げてしまった。

 つまり、妖刀“竜胆”に憑りついた、あの顔の無い異形は、辻斬りに手を染めたスイセンの成れの果ての姿だったということだ。

 なぜ帰れなくなったのかと問おうとして、言葉を飲み込んだ。スイセンなりの理由があったとはいえ、彼女自ら身を置いた裏の世界で、凄惨な結末を迎えることは珍しくない。わざわざ問わずとも、“帰れなくなった”と言う言葉一つに、全てが現れていた。


「……じゃあ、リンドウは、私が死んだ後どうやって……」

“私は何も為せなかった。あんな状態のリンドウが、一人で生きていけるとは思えない”

「そ……ん、な……」


 妖刀“竜胆”の言葉を聞いたスイセンは、その場に頽れる。

 

「そう、よね……考えなかったわけじゃない……私がいなくなったら、リンドウは……」

「スイセン……」

「考えないようにしていたの……リンドウの為に何かしなきゃって、そればっかりで……私、自分のことしか……!」


 スイセンとリンドウに待ち受ける未来はあまりにも過酷だった。

 志半ばで斃れ、リンドウのところへ帰れなくなっても、執念や未練を捨てきれずに異形と化して刀に宿り、“リンドウの名を世に知らしめる”という目的を達成するために、人間に憑りついては周囲を傷つけながら彷徨う内に、記憶を失って行ったスイセン。帰らない彼女を、一人あの荒屋で待ち続け朽ち果てたリンドウ。

 二人が道を踏み外してしまったことは確かだけれど、スイセンは死後八百年も彷徨ったことで、リンドウは腕を痛めつけられたことで、もう十分すぎるくらい罰を受けている。

 アルドやイスカ、それから妖刀“竜胆”がこの時代へやってきたことは、きっと意味がある。そんな残酷な未来が訪れるとわかっているなら、ここで変えてしまえばいい。

 アルドがそんな結論に至った時、アルドに支えられながらふらりと立ち上がったイスカが問う。


「それで、妖刀“竜胆”――……いいや、スイセン。“大事なあの人”のことを思い出したきみは、この世界で何を願うんだい?」


 すべてを、自分自身をも憎み、壊してしまおうとしていた異形は、自分の過去を取り戻した今、もう空虚な亡霊などではない。それでも破壊を願い、アルドやスイセンの身体を支配しようというのなら、ここで止めなくてはならないが、もう異形からはそんな邪悪な意思は微塵も感じなかった。


“リンドウに――……リンドウに会わせて”


 妖刀“竜胆”の意思に従って、三人は、無言で紅葉街道を進んだ。この時代の“竜胆”を鞘ごと胸に抱きながら、今後の身の振り方を考えているらしいスイセンに、アルドはかける言葉を見つけられないでいた。

 リンドウの傍にいてやれ、と言えば、これまでの辻斬りの罪はどう償うのだという話になるし、罪を償え、と言えば、リンドウの世話は誰がするのだという話になる。何かいい方法を見つけられればいいが、今すぐには思いつきそうにない。

 

「イスカ……あの異形の正体がスイセンだって、気が付いてたのか?」

「そうかもしれないとは思っていたよ。スイセンが妖刀“竜胆”に触れれば何かわかるんじゃないかとね」


 これには、さすがイスカと言う外なかった。アルドの中で、対面しても何らの反応が無かった以上無関係なのだと片づけられていたことが、イスカの中では全く違う捉え方をされていたのだ。確かに、妖刀“竜胆”が語り掛ける相手は、いつだって“自分に触れた相手”だった。記憶を取り戻すためのトリガーも、“触れる”ことだったのだろう。

 もし仮に、あの時妖刀“竜胆”が記憶を取り戻してくれなかったら、異形の意思とシンクロしたスイセンが水を得た魚のように暴れまわっていたかもしれないと思うと、背筋が凍るような思いがするが……。


 そんな話をしているうちに、リンドウの隠れ家が見えてくる。満月の光に晒された荒屋は昼間と寸分違わず静かにそこに佇んでいたが、その縁側には人影があった。


「……リンドウ……!」


 縁側に腰かけ、ぼんやりと満月を見上げる姿を目に入れた途端、スイセンが駆け寄っていく。アルドに背負われていた妖刀“竜胆”がびくりと怯えるように刀身を震わせたのがわかった。記憶を取り戻した今、言葉もなく別れてしまったリンドウに再会することを恐れているのかもしれない。

 リンドウは、“どうしたの”と話しかけるスイセンに反応することはなかったけれど、スイセンが触れた途端、力が抜けてしまった様子で倒れこんでしまった。咄嗟にそれを受け止めたスイセンの身体を、イスカと二人支えてやる。弱った身体で布団を抜け出したのは、スイセンが傍にいないことに気づいて探していたからじゃないか、なんて思う。


“……ねぇ、スイセン。リンドウに触れてもいい?”


 妖刀“竜胆”に問われたスイセンは、こくりと頷いて、リンドウの隣に腰かけて、リンドウの身体を自分にもたれさせるような形で支えてやる。イスカもまた反対側に腰かけ、スイセンが身体を支えやすいようにリンドウの腰に腕を回して補助してやる。そんな二人と視線を合わせ、コクリと頷いたアルドは、リンドウの膝の上に、ゆっくりと妖刀“竜胆”を置いて、彼の指先をその柄に触れさせた。


“あぁ――……”


 ふわりと、月明かりのような淡く白い光が、妖刀“竜胆”から発せられた。これまでの禍々しいものとは全く違ったその光は、優しく四人を包み込んだかと思うと、一つに集合し、満月と星空を背景に宙に漂い始める。それは蛍のように儚く、人魂のように物悲しくもあった。“火の玉みたいなものが見える”とIDAスクールの男子生徒が証言していたことを思い出す。


“ずっと傍にいてくれたのね……リンドウ”


 妖刀“竜胆”にそう語り掛けられて、光は人を模って姿を変える。酷くぼんやりとした姿だったけれど、アルドよりも少し背の高いやせ型で、肩口までの髪を一つに纏め、穏やかな笑みを浮かべる姿は、やはりリンドウの姿によく似ていた。死して尚、二人は共にあったのだ。

 スイセンは、リンドウの身体を支えながらも、己の横に置いた刀に視線を落とす。遠くへ行ってしまったと思っていたリンドウの心は、思っていたよりもずっと近くに存在していて、どんな時もスイセンのことを見守っていたのかもしれなかった。


“さぁ――……今度はあなたの番よ”


 鞘から飛び出し、またも宙に浮かんだ妖刀“竜胆”は、白い光の隣に浮かぶ。エルジオンで出会った、あの顔の無い骨の異形が姿を現したかと思うと、七本の髪の刃の切っ先を、虚空を見つめ続けるリンドウに向けた。リンドウは、ゆっくりと視線を漂わせたかと思うと、最後に異形をしっかりと見つめた。僅かだったけれど、確かでもあったその変化に、スイセンが目を見開く。


“あなたの願いは何?”

「……」

“答えて!リンドウ!!”


 異形は問う。リンドウは何も答えない。

 固唾を飲んで見守ることしかできないアルドとイスカだったが、心の中で“がんばれ、がんばれ”と何度も応援の言葉を呟く。

 名匠と比べられ、評価されない日々はさぞ辛かっただろう。理解はできなくても、想像することは容易い。けれどそれでも、彼女と共に過ごした日々は幸せだったはずだ。何物にも代えられないほど大切だったはずだ。耐えきれずに心を手放しても尚、命を落としても尚、スイセンと共に在り続けたその想いを、ちゃんとスイセンに届けてやってくれよ。


「――…………を…………せに……」

「え……?」


 その時、リンドウの唇が震え、言葉を発したのがわかった。何と言ったのか、少し離れているアルドには聞き取れなかった。隣にいるイスカとスイセンにもだ。

 しかし、異形には確かに聞こえたようだった。姿がぐにゃりと揺らぎ、七本の刃が黒髪に戻ったかと思うと、巨体はすぅっと闇に溶けだして、代わりに蒲公英たんぽぽ色の小袖に身を包んだ女の姿――スイセンの姿が現れる。


“そう……わかった。私の願いを叶えてくれたら、あなたの願いを叶えてあげる”

「……」

“約束よ、リンドウ”


 スイセンの姿をした異形は、そう言って泣きながら美しく微笑み、その実体を持たない手のひらで、空虚を見つめ続けるリンドウの頬を優しく包み込んだ。

 瞬間、リンドウが大きく目を見開く。


“……ありがとう”


 笑顔から零れた最後の言葉は、彼女をリンドウの元まで連れてきたアルドとイスカに向けられたものだったと思う。

 その直後、空高く宙に舞い上がった妖刀”竜胆“が、スイセンの傍らにあった彼女の刀――“妖刀と化す前の竜胆”に振り下ろされたかと思うと、パキィイィイイン!と激しい音を立てて、思わず目を背けてしまうほどの強く眩い光を発する。

 ぎゅうと目を瞑っていたアルドの瞼の向こう側が静けさを取り戻し、漸く目を開けた頃には、リンドウを象っていた白い光も、スイセンの姿をした異形も、妖刀“竜胆”も、どこにも姿はなかった。スイセンの持つ刀が静かにそこに在る他は、キラキラと、星の瞬きのような細かな光が舞っているだけだった――まるで、妖刀が粉々に砕け散ってしまったみたいに。


「……スイ、セン……」


 そんな折聞こえてきたのは、聞き覚えのない、掠れた男の声だった。まるで、何年も使われず錆びついてしまったオルゴールを、必死で奏でようとしているかのようにぎこちなくて、絞り出したようなものだった。この場で声の持ち主が誰なのか、考えなくても答えは出ているのに、信じられない思いだ。

 息を呑んでリンドウの方へ視線をやる。彼は、一筋だけ涙を流しながら、隣に座るスイセンのことをじっと見つめている。


「リンドウ……?あなた、言葉が……」

「スイセン」


 スイセンの言葉を遮るように名前を呼んだリンドウは、倒れ込むようにして、スイセンをぎゅうと抱きしめる。彼女の肩に顔を埋めるリンドウに、スイセンは、驚きに身を固まらせながらも、恐る恐る、愛する人の温もりを確かめるようにそっとその背中に腕を回した。


「ごめんね、スイセン――……弱くてごめん」

「………ッ」

「君はずっと僕を支えてくれていたのに、がんばれなくてごめん」

「そんな、こと」

「それでも僕のそばにいてくれてありがとう」


 スイセンの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。リンドウがその髪を優しく撫でてやると、堰を切ったかのように後から後から止まらなくなる。


「謝るのは……ッ、私のほう、 ……っごめんなさい……!」

「何を謝ることがあるの?」

「私、何もできなくて――、あなたが苦しんでるって、わかっていたのに……!」

「君はどんなときだって励ましてくれたじゃないか。僕の刀は世界一だって、そのままの僕が大好きだって。それなのに、君を置いて自分の殻に閉じこもってしまった」


 抱きしめる力を解いたリンドウは、泣きじゃくるスイセンの涙を拭ってやりながら、その瞳をじっと見つめる。


「君が僕を追ってナグシャムまで来てくれた時、僕がどれだけ嬉しかったか、知ってるかい?」

「――……ッ」

「初めて刀が売れた時、“猫正しかいらない”と突き返された時、贋作に手を染めた時――……どんな時も君が変わらず傍にいてくれて、どれだけ心強かったか」

「うん、……うん……っ」

「君が傍にいてくれないと眠ることすらできないんだ」


 そこで言葉を切ったリンドウは、着物に包まれた自身の腕へ視線を落とした。かつて名匠と呼ばれたにも関わらず、刑罰によって腱を傷つけられ、後遺症の残るその腕は、間違いなく、かつてリンドウの生きがいだっただろう。

 けれど彼は、再びスイセンへと視線を戻して、綺麗な笑顔を浮かべたのだった。


「僕は、君が傍にいてくれるならそれでいい。他にはもう、何もいらないよ」

「……っ」

「スイセン。僕の願いは、大切な君を幸せにすること。それだけなんだ」


 “未来の君とも約束したしね“と付け加えたリンドウに、スイセンは嗚咽を漏らして涙を流す。

 アルドとイスカは、ゆっくりとその場を離れ、一度ナグシャムに戻ることにした。今はただ、あの二人に静かな時間を過ごさせてやりたかった。

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