Episode︰20 二人の想いはシンメトリー

 土砂降りだった雨はひとまず止んだが、梅雨入りを迎えた今の季節、いつまた降ってくるか分からないほどに、空には分厚い白灰色の雨雲が覆い尽くしている。


 何も分からなくなってしまったあの日、ともかく一度帰宅した蓮は、一度美姫と連絡を取ろうとした。

 しかし、RINEで通話を掛けても繋がらず、メッセージを飛ばしても一向に既読が付かない。

 それもそうだ、無視されても仕方ない、と諦めていた節もあった。

 何せ美姫は、告白するつもりも無いのに不本意に告白させられたのだ。

 自分のことは、単なる男友達の一人としか数えていなかっただろう、とさえ思える。

 付き合おうと思ってもいないのに付き合うことになり……ずっと気を遣ってくれていたのだ。

 あるいは、彼氏彼女(仮)の関係でさえ無ければ、距離を置きたいとさえ思っていたのかもしれない。


 連絡が取れない以上、とりあえずいつもの駅前広場で少しだけ待ってみて、美姫が来なければ諦めて学園へ向かうことにして――案の定、彼女は来なかった。それどころか、通り掛かることすら無かった。

 蓮との鉢合わせを避けるためにわざと違う道で登校しているのかもしれない。


 そうして、今日は一人で教室へやって来た。


「おーっす蓮、……って、今日は元気ねぇな?」


 いつもの調子で、駿河が話しかけて来た。


「まさか、朝霧さんにフラれちまったか?なーんて……」


「、…………」


 駿河は冗談のつもりで言ったのだろう。

 だが、今の蓮には笑えない冗談だった。


「お、おい、何だその間。ちょ、まさか……?」


 駿河が何か言おうとするが、


「おはよう蓮。……ちょっと場所変えようか」


 それよりも先に鞍馬が遮り、場所を変えようと提案してくれた。




 ひとまず教室から出て、屋上へ続く階段の踊り場へ移動する。

 他に誰もいないことを確認してから、蓮は昨日に起きたことをポツリポツリと話し始めた。


 美姫が、本当は自分に告白するつもりではなかったことを。


「えぇっ!?ウッソだろお前……あの朝霧さんがっ?」


 蓮の話を聞いて、駿河は信じられないような顔をする。


「……フラれるとか以前の問題だった」


 しかしその本人である蓮が、憔悴し切ったようにこう言うのだから、やはり本当のことなのだろう。

 駿河からすれば、どう考えても信じられない話だ。

 お互いに、あんなにも純粋に好意を向けあっていて、友人という立場の贔屓目を抜きにしても、お似合いだと言うのに。


「ってか鞍馬、なんか反応薄いな?」


 自分と同じように驚いてもおかしくない話だと言うのに、鞍馬は至って冷静――だとしてもリアクションひとつ見せないのは不自然極まりない。


「……まぁ、僕は知ってたからな」


「マジか!?え、いつから知ってたんだソレ……」


 蓮ですら昨日に初めて知ったことが、それよりも以前から鞍馬は知っていた。

 どうやってそれを知ったのか知りたい駿河だが、鞍馬はそれ以上追求させないように蓮に言葉を向ける。


「それで、朝霧さんから本当のことを告げられて、蓮はなんて言ったんだ?」


「……何も言ってない。それよりも先に朝霧さんが走り去っていったから。その後も、連絡が取れなかったし……」


 そもそも蓮自身、例え昨日のあの場で美姫が逃げなかったとしても、何を言おうとしたのかまるで覚えていない。


「……ふむ、良くないパターンかもな、コレ」


 鞍馬がそう呟くと、駿河が反応する。


「あー、何となく気まずい距離感が出来て、そのままなし崩し的に自然消滅ってアレか?」


「それに近いものがあるってだけだ。まだ取り返しはつく」


 と言うか、と鞍馬は意外そうに駿河の顔を見る。


「駿河も意外と冷静だな?もっとこう、「ふざけやがって」とか言って怒るものだとばかり」


 鞍馬は、今回のことが明るみに出れば真っ先に怒るのは駿河だろう、と思っていた。

 義理人情に厚い彼なら、裏切るようなことなど言語道断だと。


「ん?そりゃまぁ「朝霧さんは何も悪くない」とは言わねぇぞ?そのつもりじゃなくても、蓮が騙されてたってのは気分のいいもんじゃねぇし」


 でもさ、と駿河は屈託のない表情を見せる。


「思うんだよ。これまでの蓮と朝霧さんを見てきたから、「大丈夫だ」ってな」


 駿河も、美姫の行動には思うところがあったようだが、それは些末なことなのだろう。ある意味で、この三人の中で最も事の本質が見えているのは彼なのかもしれない。


「鞍馬は?前から知ってたみてぇだけど」


 懸念していた本人はどうなんだ、と駿河は鞍馬に訊ねる。 


「当然怒った。……少々やり過ぎたかもしれないけど、"けじめ"は付けさせたからな。それ以上責めるのは筋違いだ」


 この瞬間、蓮と駿河は「("けじめ"って、何をしたんだ……!?)」と内心で畏怖した。

 それよりもだ、と鞍馬は蓮に向き直る。


「朝霧さんは「今まで騙していてごめんなさい」って言っただけで、その後どうするかとかは、言ってないわけだろ?その辺、もう一度会って話すべきだろ」


「そうしようとは思ってるけど、朝霧さんとの連絡はつかないし、そもそも今朝だっていつもの待ち合わせ場所に来なかった。……朝霧さんはもう、俺と顔を合わせたくないのかもしれない」


 思考がマイナスな方向に傾きつつある蓮を見兼ねてか、駿河は軽く背中を叩いてやる。


「なーにそんなビビってんだよ。ちょっと気まずいだけで、ほんとは朝霧さんだってお前と話したいって思ってるに決まってる!」


「……だったらいいんだけどな」


 はぁ、と蓮は溜息をつく。


「……結局俺は、朝霧さんの彼氏として理解者でいようとしながら、何ひとつ理解出来てなかっ……」


「自惚れるのも大概にしろよ、蓮」


 何ひとつ理解出来てなかったんだな、と言いかけた蓮を、鞍馬は強い口調で遮った。


「何も理解出来てないわけないだろ。確かにこの二ヶ月は朝霧さんの不本意から始まったものだ、そこに違いは無い」


 有無を言わせないままに言葉を畳み掛ける鞍馬。


「でもな、お前が『今まで見てきた』朝霧さんは、全部嘘で塗り固めたものだったのか?少なくとも僕はそうは思わない。駿河はどうだ?」


「そうだな。俺から見ても朝霧さんの行動が全部演技だとは思えねぇし、そもそも朝霧さんは、そんなに嘘が得意とも思えねぇしな」


 鞍馬の言葉に、駿河は同意で応じる。


「俺が、今まで見てきた朝霧さん……」


 蓮は、脳裏から記憶を辿る。


 最初は、ただの恥ずかしがりやの女の子だった。


 けれど、些細なことでも詫びをさせてほしいと嘆願してくるほどに、真面目で一生懸命な人だった。


 突然告白されて、急に付き合うことになり、擦れ違ってばかりだったのも、彼女もどうすればいいか分からなかったのかもしれない。


 初めてのデートを通じて、部活漬けでささくれ立っていた自分を知ってもなお「優しい人」だと言ってくれた。


 それからと言うもの、彼女のあらゆる所が愛おしくなり始めた。


 クレープを美味しそうに頬張る姿、ボウリングやカラオケが下手でも頑張る姿、至極真面目にブラックコーヒーの飲み方を教えてほしいと頼む姿、普段とは違うメイド服、間接キスで真っ赤になる姿、後夜祭で見た無防備な寝顔。


 それら全ては、決して嘘や演技だけではないはずだ。


 思考がそこまでに至った時、蓮のポケットの中にあるスマートフォンからRINEの着信を告げた。

 反射的にそれを手に取り、内容を確認する。


 それは、静香からのメッセージだった。


『もう学園には来てる?来てるなら、話したいことって言うか、謝りたいことがあるの』


 美姫からのメッセージで無かったことに落胆しかけて、しかしそれは美姫に関係することだと再認、すぐに『来てる。教室に行こうか?』と返信する。

 既読はすぐに付き、『いつもの中庭のベンチでお願い』と再返信される。

 すぐに了解を返し、どうしたのかと見ている駿河と鞍馬に向き直る。


「悪い、ちょっと松前さんに呼ばれたから行ってくる。先に教室に戻っててくれ」


 それだけ言うとスマートフォンをポケットに戻し、すぐに中庭へ向かう。

 残された駿河と鞍馬は、蓮が中庭へ向かうの見送ると、互いに顔を合わせた。


「本当のことをずっと黙っていて、朝霧さんとしては良心が耐えられなかった、のかねぇ」


 それがついに先日爆発したのか、と駿河は言う。

 しかし、鞍馬の捉え方は違った。


「良心、だけじゃないかもな。『"本当のこと"の、さらに奥にある"もうひとつの本当のこと"を言うために、か」






 要求通り中庭にやって来ると、既に静香は待ってくれていた。

 向こうも蓮を視認すると、至極真面目な顔になり、歩み寄ってくる。

 そして、


「ごめんなさい」


 謝りたいことがある、と言うメッセージ通り、真っ先に謝罪の言葉と姿勢を示した。


「美姫から全部聞いたよね。九重くんに告白するように仕向けたの、あたしだって。……怒ってる、よね」


 怒って当然のことをしたんだから、と静香は頭を下げたまま蓮の言葉を待つ。


「朝霧さんがそう言ってたのは知ってる。でも、最終的にどうするかを決めたのは自分だから、悪いのは自分だ、松前さんは何も悪くない、とも言ってた」


 蓮自身、静香に対して怒りを向けるつもりは無い。

 無論、美姫にもだ。


「いくら仕向けたことだからって、ここで俺が松前さんに怒る理由にはならないよ」


 これはあくまでも、自分と美姫の二人の問題であって、静香は直接的に関してはいないのだから。


「……美姫がお人好しなのは今に始まったことじゃないけど、九重くんも結構なお人好しね」


 似た者同士かも、と静香は下げていた頭を上げる。


「松前さん。俺、昨日から朝霧さんと連絡が取れてないんだけど……もしかして、俺のことを避けてるのか?」


「え?……あぁそっか。今、美姫のケータイは壊れちゃってるの。思いっきり泥水の中にドボンしたみたいでね」


 どうやら、蓮を避けようと思って着信拒否設定をしているわけではないようだ。


「それと、今日は美姫、風邪で休んでるって聞いてるよ」


「風邪で……まさか、昨日のアレが原因か……!?」


 二人して、雨の中で立ち尽くしていた時のことを思い出す蓮。


「いや、これはさすがに九重くんのせいじゃないよ?何時間も雨に当たってたらしいから」


「それでも、事の原因の一端は俺にもあるし……」


「……あのさ、九重くん」


 こりゃ美姫も苦労するわけだ、と静香は小さく溜息をついた。


「あたしが言えた口じゃないけどさ、九重くんはもう少し、自己中になってもいいと思うよ?九重くんは優しいから、自分より誰かのことを優先しちゃうんだろうけど……」


「自己中って……そんなの他人に迷惑を掛けるだけだろ」


「うーん、言い方が悪かったかな?もっとこう、「自分はこうしたいんだ」って言うのを、前面に出してもいいんじゃないかなって」


 静香の言わんとすることは、蓮にも分かる。

 だが理解は出来ても、それを行動に移せるかどうかはまた別の話になるのだが。


 ふと、予鈴のチャイムが鳴り響く。


「っと、予鈴鳴っちゃった。教室、行こっか」


「……うん」


 ひとまずはここまでだ。


 校舎に戻って行くが、その途中で静香は「あっ」と何か思い付いたように手を鳴らす。


「九重くん、今日の放課後って予定空いてる?」


「え、空いてるけど」


「上手くいけば、美姫の本音が聞けるかもよ?」


 ニヤリと、しかし悪巧みのそれではない笑みを浮かべる静香。






 美姫は、自室のベッドの中で目を閉じながら横になっていた。

 

 朝起きた時から、身体に異常があることは感じていた。

 頭は熱くて重いのに、首から下は震えるほどに寒い。

 明らかに風邪だった。

 当然だろう、土砂降りの雨の中、傘も無しに何時間も外にいればこうもなる。

 さすがにこんな状態で学園には行けない。


 午前中から昼過ぎまで掛けて死んだように眠ったおかげで、幾分か身体の具合はマシになった。

 ようやく自分の体調以外にも意識が回るようになって――蓮のことを思い出す。


 彼はもう、こんな自分のことなどどうでも良いとさえ思っているかもしれない。

 彼に嫌われて当然のことをしたのだ。

 覚悟は出来ているつもりだった。

 なのに、だと言うのに、


「九重、くん……」


 気が付けば彼の名前を口にしている。

 何も考えたくないと思いながらも、無心になろうとすればなるほど――むしろ他のことを考える必要がないせいで――彼のことしか考えられなくなる。


「好き……会いたいよ……」


 自分でフッておきながら何を言っているのかと思いたくなる。

 好きと言う理由も、会いたいと思う心も、全部自分で台無しにしたではないか。

 彼からすれば、自分のことを騙していた奴に会う理由などない。


 それでも。

 もう一度彼に会えるなら、もう一度彼と話せるなら。


 もう一度彼と付き合えるなら。


 ふと、インターホンが鳴る。

 きっと母が出るだろうと思い、再び寝るべく意識を眠らせようとして、


 今度は部屋にノックの音が聞こえる。

 一拍を置いてから、ドアが開けられる。


「起こさないように、失礼しまーす……」


「……って、美姫は起きてるみたいだけど」


 静香と雛菊の二人だった。


「ど、どうしたの二人とも……?」


 慌てて上体を起こす美姫。

 目覚まし時計を見て時刻を確認してみると、既に十六時前を指しており、授業はもう終わったようだ。


「お見舞い……と言うか、様子を見に来たの。ちゃんとおばさんには"話を通してるから"ね」


 静香は鞄を開けると、その中からスポーツドリンクを取り出した。


「具合はどう?」


 静香がペットボトルのキャップを開けている隣で、雛菊は体調を訊ねる。


「んー……朝に比べたらだいぶマシかな。でも……」


 不意に、美姫の表情が曇る。


「……夢じゃ、なかった」


 夢じゃなかった、と言う美姫に、どう言うことかと静香と雛菊は小首を傾げる。


「昨日……九重くんに「本当は告白するつもりじゃなかったの」って言ったのが、夢だったら良かったのにって……」


「……美姫、とりあえず飲んで」


 美姫の独白の途中で、静香は少し強引にスポーツドリンクを差し出した。

 ありがと、と頷いて美姫はスポーツドリンクに口を付ける。

 汗をかいて水分を失っていた身体に染み渡り、頭も回るようになった。


「本当のことは言わなくちゃいけないのに、九重くんと別れるなんて絶対イヤで、……それで結局、何も分からなくなっちゃった」


 泣きそうになる顔を、毛布で隠す。


「……ねぇ、美姫」


 優しく諭すように、静香は問い掛ける。


「こんなことになった元凶のあたしが言うのもなんだけど……美姫は九重くんのこと、好き?」


 深く考えなくていいように、出来るだけストレートに答えられるように。


「好き、だよ」


 美姫の答えももちろん決まっていた。


「今日なんか起きてる時は、ずっと九重くんのこと考えてたもん……」


 これを聞いて、静香と雛菊は大なり小なり驚いた。

 今までは、「好き」と言うにはその頭に「どちらかと言えば」と言う八文字を付け加えていた。

 だが今回のこの答えは、美姫自身の恋愛感情を如実に表している。


「だったら、どうして昨日は「ごめんなさい」しか言えなかったの?」


 これほどまでにストレートな恋愛感情を抱いていながら、何故それではなく、謝罪の言葉しか言えなかったのか、雛菊は少し分からなかった。


「そんなの、言えないよ……」


 毛布で顔を隠している美姫の肩が震える。


「だって……っ、私はずっと九重くんに嘘ついて、騙していたのに……今更になって「最初は付き合うつもりじゃなかったのに、付き合う内に好きになりました。だから付き合ってください」……って、そんなの私が言う資格なんてないっ……」


「……み、」


 雛菊が何かを言いかけて、不意に静香にそれを止められる。

 口元にひと差し指を当てて、「言っちゃダメ」とジェスチャー。


「もうっ……私は九重くんのことを好きになっちゃいけないのっ……!うぅんっ、好きになるのは私の身勝手だけど、九重くんはもう私のことなんてどうでもいいって思ってるよっ……なのに付き合い直そうなんて、そんなのダメにっ……」




「そんなことない!!!!!」




 突如、静香とも雛菊とも違う――それでも聞き慣れた男の声が聞こえた。

 同時に、半開きになっていたドアが勢いよく開けられた。


「……こ、ここの、えく……っ!?」


 その声を聞いて、美姫は反射的に顔を上げた。


 そう。

 今の彼女が一番求めていた存在――九重蓮がそこにいたのだ。


「あっちゃぁ……やっぱり我慢出来なかったかぁ」


 やれやれ、と静香は溜息をついた。


「ごめん松前さん。でも、今のはちょっと聞き逃がせなったんだ」


 蓮は静香に謝りつつも、真っ直ぐに美姫の傍へ歩み寄り、彼女の顔と正面から向き合う。


「朝霧さん。さっき、『九重蓮はもう朝霧さんのことなんかどうでもいい』って思ってたんだよな……悪いがそれは"大間違い"だ」


「九重、くん……怒ってないの……?私、あんなひどいこと言ったのに……」


「いいや、怒ってる。でもそれは、昨日のことじゃないんだ」


 彼の激情の理由は、昨日に美姫から言われたことではない。


「俺が怒りたいのは、朝霧さんのことなんかどうでもいいって『勝手なイメージを抱かれた』ことだよ……!」


 熱くなっている、とは自覚している。

 だが、蓮の感情のブレーキは今にも壊れそうになっている。


「昨日から連絡が取れなくて、待ち合わせ場所にも来なくて、それで風邪で休んでるって聞いて……俺がどれだけ心配したとッ……!」


「九重くん落ち着いて。相手は病人よ」


 トン、と雛菊は蓮の右肩に手を置く。


「……ごめん。でも、そこだけは訂正したかったんだ」


 雛菊に諭されて、蓮は意図的に呼吸を入れ替えて、昂りかけていた感情を落ち着ける。


「……確かに、昨日はショックだった。好きでもないのにずっと気遣ってくれていたのかって思うと、申し訳なくも思う」


 でも、とすぐに言葉を紡ぐ。


「さっき朝霧さんの言った「好き」を聞いて、安心した。それなら俺も、「まだ朝霧さんのことを好きでいられるんだ」って」


「え……じゃぁ、九重く、……っ!」


 ふと、美姫は自分の状態に気付く。


 ボサボサの髪に、着崩れそうなパジャマ、寝起きから洗ってもない顔、汗もかいている。


 ……と言うより、人を招き入れる準備もしていない自室に、思い切り男子が入っている。


 そこまで思い至った瞬間、美姫は慌てて毛布に潜り込んで自分の姿を隠した。


「あ、朝霧さんっ?急にどうし……」


「だ、ダメッ。こんな格好じゃ、九重くんとお話なんて出来ないっ……!」


 毛布越しのくぐもった美姫の声。


「いや、パジャマだからって俺は気にしないし、むしろ新鮮だったし……」


「〜〜〜〜〜ッ、私が気にするの!」


 どうやら、蓮が部屋から出ていくまで梃子でも毛布から顔を出すつもりはないらしい。


「あ、明日っ。明日、ちゃんと学園に行くからっ。待ち合わせ場所にも行くからっ、だから、今日は……」


「う、うん。じゃぁ、また明日」


「……うんっ、『また明日』、ね」


 また明日、と言う何気ないその一言。


 だが蓮にとって、そして美姫にとっても、希望を持って明日を迎えられる、特別な言葉だ。


 蓮がゆっくりと部屋を出て、最後に静香と雛菊も一言告げる。


「じゃ、またね美姫」


「また明日、学園でね」


 雛菊が先に出て、最後に静香がドアを閉めてやる。


 途端に部屋が静かになった。


「……よかった」


 もそもそと毛布から顔を出す美姫。


「九重くんに、嫌われてなくてよかった……」


 それだけで、もう安心できた。




 美姫の部屋からリビングを経由しつつ、玄関口に向かう三人。


「……よかった。朝霧さんが、俺のことを好きでいてくれてよかった」


 それが分かっただけで、蓮は一気に肩の荷が降りるのを感じた。


 今朝、静香が蓮に持ちかけた提案とは、『美姫のお見舞い』……と言う名目の、『彼女の本音を聞き出す』ことだった。

 最初に静香と雛菊だけで美姫の様子を覗い、頃合いを見て美姫の本音を引き出し、蓮と美姫を会わせることなく"誤解"を解く……はずだったのだが、蓮が思わず声を上げて反応してしまったことで、計画通りにはならなかったものの、結果オーライ。

 美姫は少し恥ずかしい目に遭ったかもしれないが、彼女としても悪くない顛末のはずだ。


「あたしもびっくりしたよ、いきなり「そんなことない!!!!!」って超イイ声で叫んじゃうんだもん」


 いよっ男だねぇ、と静香は茶化すように言うが、


「あそこで九重くんが出てきたのは、半分くらい博打でしょう。下手したら本気で美姫に拒絶されるところだったのよ」


 雛菊からすると、蓮が独断で介入してきた時は内心で冷や汗をかいていたものだ。

 自室にまで踏み込んで来たのだ、美姫が本気で蓮のことを好きだったから些末なこととして流されたが、他の女子ならこうはいかなかっただろう。


「うっ、そ、それは考えてなかった……」


 蓮も、あそこで『男子たる自分が年頃の女子の部屋に無断で入る』と言うことに意識が回っていなかったようで、今になって拒絶される危険性を認識した。


「まぁまぁ、結果的にはよかったじゃないの。美姫も、九重くんと会えて嬉しそうだったし」


 大丈夫大丈夫、と静香は話を締め括る。

 玄関口へ向かう前に、リビングにいる美姫の母に挨拶。


「じゃぁおばさん、お邪魔しましたー」


「突然多人数で押しかけたりしてすみませんでした」


「お邪魔しました」


 三者三様の挨拶をすれば、「はーい、今日はわざわざありがとうねぇ」と返してくれる。

 それを確認してから、静香と雛菊の後に続いてリビングを出ようとしたのだが、

 

「あ、九重くん。ちょっと待って」


 ふと、美姫の母は蓮を引き止めた。


「時間は大丈夫?良かったら、お茶のひとつでも出すけど?」


「え?今日はいきなり来たって言うのに……いいんですか?」


 いくら娘の彼氏とは言え、いきなり自宅にお邪魔した挙げ句、土産のひとつもなくお茶をいただいても良いものかと蓮は迷う。


「それに、あなたと少しお話しもしたいから……じゃ、ダメかな?」


「……えーっと、じ、じゃぁ、お言葉に甘えて……」


 緊張はする、しかしせっかくの機会だ、失礼なことをしなければ多分大丈夫だろう、と自分で自分を納得させつつ、静香と雛菊を先に見送ってから、蓮はその厚意を受けることにした。




 蓮はリビングの席に座りつつ、美姫の母がお茶が用意するのを待っていた。


「粗茶ですが」


「お、お構い、なく……」


 無理矢理に姿勢を正している、と言うのは自覚している。

 だらしのない所を親御に見せて「娘の彼氏はこうにもだらしのない男なのか」と思われたくない、と言うある種の見栄張りなのだが。


「そんなに緊張しなくてもいいんだけどね」


 小さく笑いつつも、美姫の母も席につく。

 ちょうど、対面する形だ。


「九重くんのことは、あの子からよく聞いてるわ。本当に優しい人だって……うん、誠実そうな男の子で何より」


「は、はぁ……どうも」


 どうやら第一印象では、プラス方向に受け取ってくれたようだ。


「それでね、うちの美姫は、どう?」


「ど、どう、って言うと?」


「あの子、ちょっと鈍くておっちょこちょいな所もあるから、親の私が言うのもなんだけど、彼氏が出来たって聞いた時は、本当に驚いたのよ。それがまぁ、こんな優良物件で……」


「優良物件て……か、買い被り過ぎですって」


 彼女の親にそんなことを言われても、どう反応すれば良いものか。


「それに、俺自身も……美姫さんが告白してくれた時、本当に信じられないくらい、嬉しかったんです。俺みたいなのが、こんな可愛い彼女を持っていいのかなって」


「……ちょっと、自己評価が低過ぎると思うけど」


 お茶を一口啜って、話は進む。


「そう言えば、美姫が「失礼なことをしたから何かお詫びをしたいって言ったら、お弁当を用意してほしいって言われた」って言ってたけど……もしかして、九重くんのことだったの?」


 まだ二年生に進級して間もない頃、そろそろ二ヶ月前になる。


「あ、はい。……すみません、美姫さんに無理なことをさせてしまったみたいで」


「あぁ、違うのよ、そのことで責めたいんじゃなくてね。美姫のハンカチを拾ってあげて、そのまま思いっ切り引ったくられたのが九重くんだったのね、って」


 くすくすと少しおかしそうに笑う美姫の母。


「まぁ、その時に美姫さんと初めて出会ったんです」


 いただきます、と蓮も差し出されたお茶を一口啜った。


「……一目惚れしたって言うんでしょうか。最初は、「あの子可愛かったな、同じクラスだったらいいな」くらいでした。次に、失礼なことをしたからお詫びさせてほしいって言われて。俺はそんなに気にしてなかったのに、すごく真面目な子だなって。そしたら、次の日に突然告白されて、付き合うことになって。付き合っていく内に、何事も真剣に受け止める子なんだなって。……そんな真摯な姿勢、いや、心?が、好きになっていったんです」


「……うんうん、なるほどね」


 蓮の言葉を黙って聞き、区切りを見つけて頷く。


「昨日、びしょ濡れの泥だらけで帰ってきたからどうしたのかと思ったら……あの子、本当はあなたと付き合うつもりじゃなかったって言ったらしいわね?」


「……それは、言われるまで本当に気付きませんでした。何か悩みを抱えているとは思っても、それが自分に対する悩みだなんて、思いもしなくて」


「あぁ、違うの。その事で責めたいんじゃなくてね。でも、結局はお互い両想いで、ついさっきに仲直りしたじゃない。聞こえてたからね、凄く情熱的な声で「そんなことない!!!!!」って。録音したかったくらいよ?」


「やめてください恥ずかしくて死にますから」




 それからもう数十分ほど話して、そろそろ帰るべき時間になり、蓮は玄関口で見送られていた。


「それじゃぁ、今日は家に上がらせてありがとうございました」


「いいのよ、いつでも遊びに来てくれたら」


 終始、楽しそうににこやかな笑顔を見せていた美姫の母だったが、不意に微笑むように真面目な顔になって蓮と真っ直ぐ目を合わせる。


「九重くん」


「はい」


「娘を、よろしくお願いします」


「……なんか、結婚するのが決まったみたいな感じですね?」


 さすがにちょっとプレッシャーが、と蓮は苦笑するが、


「あら、美姫を貰ってくれるんじゃなかったの?」


 真顔でそう言われてしまった。

 これはどう答えるべきか。

 ほんの数秒悩んでから、大言壮語を並べるよりも自分なりの言葉で応じた。


「え、えーっと……その、まだ口約束にしかなりませんけど、俺は俺なりに、美姫さんと一緒に幸せになってみせます」


「……うん、よろしい」


 どうやら満足の行く回答だったようだ。

 そのやり取りを最後にして、今度こそ蓮は玄関を出た。


 明日はちゃんと美姫と会えるのだと、心を弾ませながら――。

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