Episode:12 Bitter or Sweet?

 蓮と美姫の二人がそれぞれ明日に必要な材料を持ち帰った、その翌日。


 駅前で待ち合わせてから登校するのはいつも通りだが、今日は教室へ向かう前に、やるべきことがある。


 職員室から家庭科室の鍵を借りて、その家庭科室に設置されている冷蔵庫に、蓮が持って来た牛乳や卵と言った要冷蔵品を保管し、美姫が持って来たケーキミックスとドリップコーヒー、ケーキシロップの常温保存品はその近くに置き、材料それぞれに『2−A』と書いた付箋を貼っておく。

 こうしておけば、他所のクラスや料理研究部などが誤って使うことはないはずだ。


「……これでよし、と」


 付箋を全て貼り終え、蓮は頷いた。


「じゃぁ九重くん、教室行こっか」


 持っていた付箋に学年と組を書いていた美姫は、鞄を持ち直す。


「その前に、家庭科室の鍵を返しに行かないとな」


 いくら駿河と静香と言う実行委員が話を通しているとは言え、解放したままではよろしくない。

 戸締まりも確認して、再度職員室に立ち寄ってから教室へ向かう二人。 




 教室に入るなり、駿河が出迎えてくれた。


「うーっす、お二人さん!昨日はお使いありがとな!」


 まぁこっち来いよ、と蓮と美姫は駿河の席にまで誘導される。

 席の周りには、静香、雛菊、鞍馬も待ってくれていた。


「九重くんか美姫、昨日の買い物のレシートって持ってきてる?」


 静香は、蓮と美姫の顔を見比べる。


「あぁ、昨日の代金のことか。ちょっと待って……」


 どうやら、昨日の買い物の代金を割り勘して、今ここで蓮に返すようだ。

 蓮は鞄から財布を取り出し、中のポケットから昨日に確保したレシートを取り出して、静香に手渡した。


「あっ、私もお金返さなきゃ。小銭ってあったかな……」


 それを見て、美姫も鞄から財布を取り出した。

 レシートの内容を読み取った静香は、スマートフォンの電卓アプリに合計金額を打ち込み、6で割った数値を割り出す。


「……ん、九重くんの手間賃もプラスして、一人辺りざっと300円ってとこね。異論は無い?」


 レシートと電卓の内容を全員に見せる静香。

 美姫、駿河、雛菊、鞍馬の四人がそれを見て、問題のない金額であることを確認し、それぞれ300円ずつ蓮に手渡していく。


「うん、確かに受け取りました」


 受け取った15枚の百円玉をジャラジャラと財布の小銭入れに流し込む蓮。


「んよしっ、払うもんも払ったところで、今日の放課後だな!」


 楽しみだ、と意気込もうとした駿河だが、意気込むよりも先に予鈴のチャイムが鳴り響いたので、六人ともすごすごと席に着いていく。






 放課後。

 男子三人は昼食を終えてから、職員室を経由した上で家庭科室へ向かっていた。

 学園祭実行委員である駿河が、昨日の内に根回ししてくれていたおかげで、彼が名乗るだけですぐに担任が応じ、快く家庭科室の鍵を用意してくれた。


「意外とすんなり貸し切りに出来るものなんだな」


 もう少し手間がかかると思ってたよ、と鞍馬は少し拍子抜けしている。


「やましいことするわけじゃねぇからな。使用目的さえハッキリしてれば、どこでも大体貸してくれるもんだぞ?そりゃ、部活で使う時と被ってたりとかしてたら出来ねぇけどな」


 家庭科室の鍵を通されたリングをくるくると指で振り回す駿河。


「まぁ、何にせよ問題が無いのはいいことだよな」


 蓮がそう頷く。

 必要な手順序はしっかり通しているし、その目的も至極真っ当なものだ、教師達から見てもダメを言う理由はない。

 大言壮語を並べ立てるよりも、ありのままを述べるだけの方が効果的なこともある。


 駿河が家庭科室の施錠を解き、ガラガラとドアが開けられる。


 隅に重ねられている椅子を六人分取り出し、テーブルの左右に三つずつ配置し、あとは女子三人待つだけだ。


 しばらく談笑して時間を潰していると、ふと蓮のスマートフォンにRINEの通知が届いた。


 美姫からのメッセージで、『お昼ごはん終わったから、今から家庭科室に行くね』とのこと。


「朝霧さん達、そろそろ来るらしい」


 蓮は『俺達はもう待ってるけど、慌てなくていいよ』と返信し、スマートフォンを鞄にしまう。


「あぁ、コーヒーも淹れるんだし、お湯でも沸かしとこうか」


 席から腰を浮かした鞍馬は、家庭科の棚から薬缶を取り出し、水道の蛇口を捻ろうとして、ふとその手を止めた。


「……そう言えば、お湯として沸かす水は水道水でいいのか?市販の天然水の方が良いと思うんだけど」


「どうだろう?水に関しては特に何も言わなかったけど……それも早咲さんに聞いた方が良さそうだ」


 とりあえずは水道水でもいいと思う、と蓮が言うので、鞍馬は「分かった」とだけ頷いて蛇口を開いて薬缶の中に水道水を注ぎ込み、コンロに乗せて中火程度で火にかける。

 それが終わったところで、ちょうど家庭科室のドアが開けられる。


「ごめんね、待たせちゃったかな」


 最初に美姫、


「椅子まで用意してくれてるし……ちょっと申し訳ないわね」


 次に雛菊、


「ウチらもいつもより急いだつもりだけど、男子は食べるの早過ぎない?」


 最後に静香が入ってくる。


 男子は上着を脱ぎ、女子は袖付きを捲り、荷物を一箇所に固め置いておく。


「まぁパンケーキに関してはあたしは作り慣れてるけど、ヒナは?」


 静香は、美姫が持って来てくれたパンケーキミックスの箱をテーブルに置きながら、雛菊にパンケーキを作ったことがあるかを問い掛けた。


「私はバイト先で何度も作ってるから大丈夫よ」


「うん。じゃぁ今日メインで頑張るのは、美姫と男子三人と言うことで」


 この中でのパンケーキの経験者は静香と雛菊の二人のみ。

 ボウルと泡立て器も棚から用意して、卵と牛乳も冷蔵庫から引っ張り出して、準備は完了。


「っと……あたしが美姫と九重くんに教えて、ヒナが芝山くんと有明くんに教えるって感じでいい?」


「えぇ、分かった」


 静香の割り振りにより、彼女自身が蓮と美姫を、雛菊が駿河と鞍馬をそれぞれ担当する。


「(有明くんの相手は、ちょっと気が引けるしね……)」


 雛菊が何も疑うことなく、駿河と鞍馬の相手をすることになってくれて、静香は内心でホッとしていた。

 実は、雛菊に駿河と鞍馬の二人の相手をしてもらおうと思っていたのだ。

 パンケーキの作り方を教えるだけなので、教えてもらう側の鞍馬が何か口出しするようなことも無いのだが、今しばらくは彼への苦手意識を克服出来そうにない。

 よって、押し付けるような形にはなったものの、余計にギクシャクことは出来るだけ避けたい。


 それはともかくとして、二手に分かれてパンケーキの製作に取り掛かる。


「作り方って言っても、ミックスと卵と、指定量の牛乳をボウルで掻き混ぜて焼くだけ。あとは、ひっくり返すタイミングさえ間違えなかったら、大体美味しく焼き上がるから。まま、とりあえず実践あるのみ」


 やってみて、と静香が促すと、蓮と美姫は早速取り掛かる。


「……ちゃんと混ざるまで意外と力が要るんだね、これ」


 そんなに簡単じゃないよ、と美姫は苦戦しながらもにしっかり掻き混ぜていく。


「だいぶそれっぽくなったけど……松前さん、こんな感じでいいのか?」


 蓮は自分が掻き混ぜているボウルの中身を静香に見せる。


「うん、いい感じいい感じ。それじゃぁ、次はホットプレートで焼いてくけど、美姫と合わせてやるよ」


 もう少しで出来そうだし、と静香は美姫が混ぜ終えるのを待つ。


「ん、しょ……ん、むん……」


 真剣に、生地を掻き混ぜる美姫。

 そんな様子を蓮は、口を挟むことなくただ見守る。


 一方の、雛菊と駿河、鞍馬の方では。


「待って芝山くん。いくら力が要るからって、力任せじゃ生地が飛び散っちゃうわ。もっとゆっくりでいいから……」


「お、おぅっ……俺、余計な力が入ってるのか?」


 雛菊が駿河を窘めている傍らで、鞍馬は特に苦にしてなさそうに掻き混ぜている。


「ふむ、こんなとこか。早咲さん、確認してほしい」


 泡立て器に付いた生地をボウル内に落としつつ、鞍馬は出来上がった生地を雛菊に見せる。


「うん、有明くんは合格。芝山くんは、もう少し頑張りましょう、ね」


 鞍馬には合格、駿河には『もう少し頑張りましょう』の評価をそれぞれに下す雛菊。


「くーっ、パンケーキ作りも楽じゃねぇぜ……っ」


 上手くいかねぇもんだ、と苦戦しながらも、駿河もようやく生地を完成させる。




 熱したホットプレートに、出来たばかりの生地を注ぎ込み、満月のような丸板が黒面に描かれていく。


「えーっと、表面にプツプツが浮かび上がってきたら、ひっくり返すんだって」


 パッケージ裏のレシピを目に通しつつ、美姫はフライ返しを手に取る。


「表面にプツプツが、か。表面にプツプツ……表面にプツプツ……」


 蓮はフライ返しを握り締めながら、ジュゥジュゥと音を立てて焼かれていく生地を睨む。


「こ、九重くんっ……変な顔してる……ぷくくっ」


 そんな様子を見て、静香は笑いを堪えている。

 至極真剣に生地をひっくり返すタイミングを見定めようとしている蓮だが、どうも笑われるくらいにはおかしな表情を浮かべていたらしい。


「ひっくり返すタイミングまで大体三分くらいだから、そんな必死に見なくていいんだって」


「そ、そうか……」


 静香にそう諭されて、蓮は(主に顔面の)力を抜いてホットプレートから一歩下がった。

 そんな蓮の隣で、美姫は大人しく「まだかなー」と椅子にちょこんと座って待っている。


「……あ、そろそろかな?」


 美姫がそう呟くと、ちょうど生地の表面が静かに脈打ちはじめている。


「そそ。勢い良くひっくり返しすぎると、表面の生地が飛び散るし、気を付けてね。さぁレッツゴー!」


「よーし……」


 静香ゴーサインを受け、美姫はフライ返しを手に取り、焼かれていく生地の底面へ滑り込ませる。

 チリチリと言う焼音と共に持ち上げられ、くるんと180度回転させて表裏を入れ換え、無事に表面がプレートに着地した。


「あっ、出来た出来たっ」


 良かったぁ、と美姫は胸を撫で下ろす。


「じゃぁ、次は俺だな」


 蓮は退いていた一歩を踏み込み直し、美姫からフライ返しを受け取ろうとして、




 彼の指先が、彼女の手とぶつかる。




「「あ……」」


 思わず硬直。


「えっと……」


「あぅ……」


 最近ではよく手を繋いで帰ることの増えた二人だが、意図せずして触れ合ってしまうと、どうしてもこうなる。

 お互い、心の準備が出来ていないからだ。


 ほんの数秒の沈黙が漂ったところで、静香は「コホン」とわざとらしく咳払いした。


「もしもーし、お二人さん?イイ雰囲気のとこ悪いけど、早くしないと生地が焦げちゃうんだけどー?」


「……あっ、ヤバいヤバいっ、朝霧さん!」


「えっ、あっ、う、うんっ!?」


 蓮に名字で呼ばれて、美姫は慌ててフライ返しから手を離して二、三歩ほど後退る。

 ようやくフライ返しの主導権を握れた蓮は、すぐに自分の生地をひっくり返すが、その表面にはくっきりと黒い部分が出来上がってしまっていた。


「や、やらかしたっ」


 失敗と言うにはごく小さなもので、食べてもお腹を壊すようなことにはならないだろうが、さすがにこれを本番に出す分けにはいかない。即、作り直し案件だ。


「ご、ごめんなさい……」


 自分がさっさとフライ返しから手を離さなかったからだと、美姫は落ち込みながら蓮に謝る。


「あっちゃぁ……二人でイチャイチャしてるから、ホットプレートが嫉妬しちゃったよ?リア充焦げろー、って」


「爆発しろ、は聞いたことあるけど、「リア充焦げろ」って初めて聞いたな……」


 その反対側では、鞍馬が自分の生地をフライ返しで持ち上げて、蓮に視線を向けている。


「なんかあそこから甘っ苦しい空気がするし、これでパイ投げならぬパンケーキ投げしていいかな、早咲さん」


「気持ちは分からなくも無いけど、材料が勿体無いからやめて有明くん。そうじゃなくても、そんなもの投げたら大火傷ものよ」


 雛菊に正論を以て制止され、「二割くらいは本気だったけどな」と鞍馬は持ち上げた生地を難無くひっくり返す。

 次は駿河の番だとフライ返しを彼に手渡す。

 こちらは、向こうのように『ホットプレートに嫉妬される』ようなことは起きていないので、駿河の生地が焦げることも無かった。




 蓮の生地が少し焦げたことを除けば、特に大きな問題が起こることもなく、六人分のパンケーキがテーブルに並ぶ。

 続いては、ドリップコーヒーの淹れ方についてだ。

 予め鞍馬が余裕が出来るようにお湯を沸かしてくれていたおかげで、スムーズに取り掛かることが出来た。


「それじゃぁ封を開けて、パックをカップに引っ掛けて」


 雛菊のレクチャーの元、各々のカップにドリップコーヒーのパックの封が切られ、カップの縁に取り付けられていく。

 薬缶からティーポットに熱湯が移し替えて、まずは雛菊が手本を実践する。


「袋にも書いてあるけど、まずは少しだけお湯を注いで、中の粉を蒸らすの。出来るだけ少量で、粉全体を濡らして……」


 慣れた手付きでティーポットを泳がせ、最少量の熱湯で粉全体を蒸らしていく。


「これで、大体30秒くらい蒸してから、三回くらいに分けてもう一度お湯を注いでいく。みんなも、蒸らしから始めてみて」


 雛菊は耐熱皿にティーポットを置いた。


「んじゃ、俺から行くぜ」


 ヒョイとティーポットを取った駿河は、雛菊の説明通りにまずは蒸らしていく。


「……そう言えばこの粉ってよ、お湯をかけても溶けないんだな?」


 この場で今更になってそれに気付いた駿河だが、雛菊は親切丁寧に答えた。


「これは既に出来上がったコーヒーを粉末状にしているんじゃなくて、挽かれた珈琲豆をパックしているの。豆そのものは、お湯に掛けても溶けないでしょう?」


「あぁ、なるほどな。普段はこう言うの飲まねぇから、理屈が分からなかったぜ……」


 ほい次、と駿河は耐熱皿にティーポットを置き直す。


 順々に、鞍馬、蓮、美姫、静香の順で蒸らされていく。

 全員の分の蒸らしを終えたところで、再び雛菊がお湯を注いでいく。




 三度に分けて注がれ、蒸らされた粉を通し、香ばしい香りと

パンケーキに乗せられたバターとケーキシロップの香りが家庭科室に漂う。

 それが六人分ともなれば、家庭科室も立派な喫茶店……の、香りになる。


 全員分のパンケーキとコーヒーが出来上がったところで、席に着く。

 音頭を取るのは静香だ。


「えー、特に問題が起きることもなく、ひとまずは成功しましたと言うことで、早速……いただきます!」


 揃って「いただきます」を唱和。


 まずは、鞍馬がコーヒーを一口啜ってみる。


「……ん、苦いけど美味い。インスタントなのに雑味らしい雑味がしない。淹れ方ひとつで変わるもんだな」


 なるほど、これならメイド喫茶でなくとも売れそうだ、と鞍馬はもう一口味わってから、残りは牛乳を入れて掻き混ぜる。


「パンケーキも美味ぇぞ!焼き立てだから熱いけど、スーパーのパンコーナーで売ってる奴より断然いい!」


 その鞍馬の隣では、駿河がパンケーキに舌鼓を打っており、あっという間に平らげてしまった。

 静香も自分が焼いた分のパンケーキを口にしてみて「うん、美味しく焼けてるね」と頷いている。

 雛菊は、自分好みのコーヒーになるようにシュガーと牛乳を混ぜている途中で、ふと美姫の様子に違和感が見えた。


「…………」


 淹れたてで、シュガーも牛乳も入れていないブラックのコーヒーを前に、難しそうな顔でにらめっこをしている。

 どうしたのかと声を掛けようとした雛菊だが、それよりも先に美姫の彼氏である蓮が動いた。


「朝霧さん?どうしたんだ?」


 彼が声を掛けると、美姫は「……頼ってもいいよね」と意を決するように呟き頷くと、姿勢をビシッと正して蓮に向き直った。


「こ、九重くんにお願いがありますっ」


「う、うん?」


 そんなに改まって何をお願いするつもりなのか。

 パンケーキにもコーヒーにも、異常らしい異常は見当たらない。


 この瞬間、「まさか」と思ったのは鞍馬だけだった。


「(まさか朝霧さん……このタイミングでカミングアウトするつもりか!?)」


 よりにもよって今この場で、本当は不本意で蓮に告白したことを暴露するつもりなのか、と。

 ……否、今この場だからこそ、と言うべきか。

 自分達のグループが一堂に会しており、なおかつ他の誰もいないこの家庭科室だからだろう。

 もしかすると、男子三人よりも後に家庭科室に来たのは、今日ここで打ち明けるための打ち合わせをしていたのかもしれない。


「……」


 鞍馬は静かに足の力を入れた。

 この打ち明け話を聞き終えた時、真っ先に怒りを顕にするのは駿河だろう。

 例え駿河が怒りを抑えたとしても、蓮がどうなるか分からない。

 何せ、蓮は騙された張本人だ。

 自分の純情をもてあそばれたのだ、いくら彼が聖人君子そのものだと言っても、限度はある。むしろ、普段怒らない人間ほど激情を剥き出しにした時、手が付けられなくなることもあるのだ。

 下手をすれば、美姫か、あるいは静香に手を上げるかもしれない。

 そうなった時、止められるのは自分だけだ、と一触即発の事態の時を覚悟する鞍馬。


 しかし、




「あのね……私に、ブラックコーヒーが飲めるようになる方法を教えてください!」




「(………………は?)」


 それを聞き、その意味を理解した時、鞍馬は内心でずっこけた。

 たかがそんなことのために、わざわざ改まって背筋を伸ばしたのか?


「え、何、どうしたの朝霧さん?」


 蓮は蓮で、何がどうしたのかと戸惑っている。


「私ね、思ったの。九重くんとお付き合いしていたら、コーヒーを飲む時がこの先何度もあるって。その時に、甘くしたコーヒーしか飲めないなんて、何だか九重くんに失礼な気がして……」


「い、いや、別にブラックのコーヒーを飲めるようになれとは言わないし、朝霧さんが甘くしたコーヒーしか飲めなくても別に気にしないし。むしろ、無理して飲んで気分が悪くなったりしたらそれこそ良くないって」


「大丈夫、私も頑張るからっ」


 無理しなくていい、と蓮は言ってやるものの、どうにも美姫はやる気になっている。

 もう少しだけ言葉に困ってから、蓮は頷くことにした。


「……とは言え、ブラックの飲み方なんて言われてもなぁ。早咲さんは、何か知ってないか?」


 しかし飲む専門の蓮と言っても、「ブラックコーヒーが飲めるようになる方法」など考えたこともない。

 故に、より専門的な知識を持つ雛菊に意見を求めたのだが、


「ブラックが飲めない人にそれを訊かれても困るわ……それに、自分の好き嫌いなんて、そんな簡単に変えられるものじゃないでしょう?」


 尤もな答えしか返ってこなかった。

 確かにコーヒーとは苦いものだ。その苦味を美味しく感じられるかどうかは、個人の嗜好に左右される。


「それは、そうか……」


 これは難しい要求だ、と蓮は悩む。

 ブラックを好んで飲む彼自身、何故好きなのかなど、考えたこともない。

 そこへ、張りに張っていた緊張を緩めていた鞍馬が助け舟を出した。


「いきなり飲もうとするんじゃなくて、今日のところは香りから慣れるって言うのはどうだ?」


 ブラックはブラックでも、その香りを味わうことから始めてはどうかと言う。


「あ、なるほどな」


 的を得たように頷くと、蓮は美姫に向き直る。


「……と言うことで、まずは香りから慣れましょう」


「はいっ、九重くん先生っ」


 鞍馬→雛菊→蓮 と言う順に意見が纏められ、美姫は早速自分のコーヒーを手に取り、立ち昇る湯気を鼻先に深呼吸を繰り返し始める。


「すぅー……ふぅ。すぅー……ふぅ」




 それからもう何度も美姫の深呼吸が繰り返され、ひとまずのところ、ブラックコーヒー(の香りだけ)に慣れることは出来たようだ。

 パンケーキも温かい内にしっかり味わい、コーヒーは美姫用に思い切り甘くしたもので飲んで、無事に完食。


「洗い残しは無いわね」


「うん、洗い物は終わったよー」


 タオルで手を吹きながら、雛菊と静香が流し台から戻ってくる。


「ほいっと。椅子の片付けもよーし」


 駿河は用意していた椅子を元の場所に戻し終えたところだ。


「テーブルもちゃんと拭き終わったよ」


 クラフレックスを片手にテーブルを拭いていた美姫も、それを洗ってハンガーに掛ける。


「ゴミはこれでよし、と」


 今日の試食、試飲で出たゴミをビニール袋に詰め終える蓮。


「窓、そろそろ閉めるからな」


 鞍馬は換気のために開けていた窓を順々に閉めていく。




 各々の役割分担を終えて、最後に駿河が締める。


「えー、試食、試飲も無事に成功し、後片付けも完了。鞍馬、レポートの方は頼むわ」


「了解。明日の内に纏めて、週明けには提出しておくよ」


 鞍馬は、今日の実習の最中に何度かスマートフォンで写真を撮影していた。撮った画像をレポートに載せて提出するのだそうだ。


「んじゃぁ皆さん、お疲れっしたー」


「「「「「お疲れさまでしたー」」」」」」


 本日の試食、試飲会も無事に終了。

 来週のロングホームルームで、誰が何をやるのかを決められる。

 メイドになるか、調理担当か、雑務等か。


 学園祭への準備は、着々と進んでいく。

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