Episode:08 それはきっと始まりの終わり 

 昼休みに『朝霧さんと手を繋ぐ作戦』が失敗に終わり、已む無く教室に撤退していく蓮と美姫。


 五時限目の授業の用意を整えて席に着く頃には、もう本鈴が鳴り、担当教師が教室に入ってくる。


 授業が始まり、黒板に書かれていく内容をノートに書き写しながらも、蓮の思考は別のところにあった。


「(とりあえず、朝霧さんには「俺は朝霧さんと手を繋ぎたい」ってことは伝えられた。後は、手を繋ぐタイミングだ……)」


 多分にかつ多大な誤解を与えてはしまったが、――いずれは手を繋ぐことやキスよりも先のこともしたいと考えていなくもないが――ともかくは第一目的の前段階は果たせた。


 放課後の、それはいつとするか。


 さすがに帰りのホームルームが終わって教室を出る時から手を繋ぐわけにはいかないだろう。……と言うより、そんな勇気は蓮にもない。

 しかし、校門を潜ってから真っ直ぐ下校するのでは、時間にして10分にも満たない。

 その10分間のどこで勝負を掛けるべきか。


 次なる本作戦『オペレーション・朝霧さんと手を繋ぐ』を煮詰めていると、左隣の席の女子が小声で「有明くんから」と折り畳んだメモ用紙を置いてきた。

 どうやら、鞍馬が紙媒体によるメールを送って来たらしい。

 RINEによるやり取りは、バレるとスマートフォンを没収される恐れがあるため、授業中はこうしたアナログな手段が安全とされている……と、静香が言っていた。


 さて、内容は何かと、黒板に目を向けている教師の目を盗みつつ、ノートの上に広げてカモフラージュしてから目に通す。


『その様子だと作戦は失敗か?手を繋ぎたいからって、時と場所は考えるべきだぞ。それも、ただ手を繋ぐだけじゃなくて、大事なのは"雰囲気"だ。放課後なら昼休みよりも時間はあるし、場所の選択肢もあるから、じっくり再考するといい』


「(そうか、真っ直ぐ下校する必要はないのか)」


 所謂、寄り道をしてみるのも良いと鞍馬は言うのだろう。

 下校路から少し道をずらせば、公園や繁華街に辿り着くし、その辺りならば距離的にも帰りが遅くなることはないはずだ。

 問題があるとすれば、


「(大事なのは雰囲気……ふんいき?)」


 雰囲気とはまた抽象的なことを……と、蓮は眉をひそめる。

 周りが騒がしいよりは、静かな方が良いかもしれないが、ただ閑静であれば良いと言うわけでもないだろう。

 周囲の視線が気になるのなら、極力人気のないところへ……連れて行こうものなら、それはそれで"別の意味で"誤解をされかねない。

 人気が無さすぎない程度で、騒がしくなく、手を繋ぐに当たって雰囲気?の出せそうな場所……

 少なくとも繁華街の一角は却下だ、人通りがある上に喧騒も煩い。


「(そうなると、駅前から近い公園くらいだよなぁ……)」


 あの近くの公園はひとつしかない。

 公園と言っても、子どもが集まるようなフェンスに囲われた広場は無く、噴水広場に近いものだ。

 平日の放課後の時間帯なら、小学生くらいか、あるいは子連れの親子が遊んでいるかもしれないが、それもごく少数だろう。


「(……うん、よし、ここならいいだろ)」


 と、気が付けば板書が進んでしまっている。

 蓮は鞍馬からのメッセージをノートに挟んで隠し、慌てて書き写していく。






 五時限目の授業が終わり、次は男女別に分かれての体育だ。

 女子は更衣室へ、男子は女子が教室から出るのを見計らってから着替えだ。

 手早く制服から体操服に着替えて、蓮は鞍馬の席に向かう。


「鞍馬、さっきはありがとうな」


「どういたしまして。何か、良い案でも浮かんだか?」


「うん、今度は大丈夫そうだ」


 何も焦ることも、構えることもなかったんだよ、と蓮は頷く。

 一歩遅れて、駿河も鞍馬の席にやって来る。


「蓮ー、鞍馬ー、今日の体育ってなんだっけか?」


「ん、確か体育館でバスケだったかな」


 体育館用のシューズも用意しつつ、三人は揃って体育館へ向かう。






 一方、女子更衣室で着替えを終えて、同じく体育館へ向かう美姫、雛菊、静香の三人。


「……それでね、さっきの昼休みで九重くんが、私と手を繋ぎたいって。これって、普通に繋いでもいいのかな?」


 実際には蓮は「もっと朝霧さんを触りたいんだ」と言っていたのだが、それをそのまま伝えれば(特に静香に)あらぬ誤解を与えかねないと判断し、彼の目的を掻い摘んで伝える美姫。


「マ?手を繋ぐなら、昨日もやったんじゃないの?」


 何を今更、と静香は言うものの、そういうことではないと美姫は続ける。


「なんかね、昨日のアレは手を繋いだことにはならなくて、もっとちゃんと繋ぎたいんだって」


 それも嘘はない。

 美姫は、蓮が言っていたことをほぼそのまま伝えているだけだ。


「九重くんは手を繋ぎたいって言っていて、美姫がそれでいいって言うなら、普通に繋いでもいいんじゃないかしら」


 手を繋ぎたいと思うのは普通だと思うし、と雛菊はあくまでも真っ当な意味で頷く。

 しかし、静香はそこで同様に頷かずに、「ふむ……」と考え込む。

 今のどこに考えるべき点があるのか。


「……よしっ」


 すると、何か思い当たったようだ。


「ヒナ、ちょっとこっち来て」


「は?何を……」


 静香は雛菊を手招きする。


「あ、美姫は先に体育館行っといてー」


「え?うん?」


 何か二人で内緒話をするらしい。

 話の内容は気になるが、ここで気にしても聞けるわけでもないので、美姫は一人体育館へ向かう。


 それを見送ってから、静香は雛菊に向き直る。


「ぶっちゃけ、あの二人に足りないのは、"シリアス"だと思うわけね」


「……何をどう曲解すればそんな結論に至るの?」


 手を繋ぎたい彼と、手を繋がれるのを待っている彼女と言う状態から、何故"シリアス"が必要なのか、雛菊は理解に苦しんだ。

 そして、静香の言う『シリアスの必要性』を聞いて頭を抱えることになる。


「だってほら、九重くんは背が高くて目付きが悪い以外は、「普通」が服着て歩いてるような男子で、美姫は"オトコ"を知らない世界で生きてきた深窓の令嬢って感じじゃん?」


「そう言う言い方も出来るわね?」


「で、九重くんからしたら美姫は手の届かないお姫様だし、美姫からしたら九重くんはちょっとでっかい石ころみたいな男子だし、そんな距離感のある二人がくっつくには、事件とかシリアスが付き物っしょ?」


「路傍の石呼ばわりされたら、さすがの九重くんでも怒るわよ。……まぁ、物語にはそう言う山場の展開も必要だけど」


 しかしそれは創作の世界の物語であり、実際にそんな大それた事など何も無くとも自然と成立するカップルも存在するのだ。


「余計なことなんかしなくても、あの二人ならよほどの事でも無い限り別れることはないでしょう?」


 ゆっくりじっくりでもいいから、二人の推移を見守れば良いと言う雛菊だが、


「そりゃね、美姫からフっちゃうことは無いかもよ?でも、九重くんからは?浮気は男の甲斐性って言うくらいだし、もたもたしてたら、九重くんが美姫のことを飽きるかもしれないし!」


 危機感によるものなのか(あるいはただの建前か)、静香はどうしても事を性急に進めたいらしい。


「有明くん目当てで遠巻きから見てる女子の中でも、「あの背の高い男子、意外とイケてない?」って声も聞こえるし、本人は自己評価の低さから気付いてないけど、結構人気あるんだって。もし九重くんが美姫から鞍替えしようと思ったら、すぐ手が届くところにハエのように集っているのがわんさかいるんだから!」


「静香……そんなことばっかり言ってると、その内誰かに後ろから刺されるわよ?」


 イケメン目当てで遠巻きに見ているギャラリーを「ハエ」呼ばわりだ。

 他に誰も聞いていないから良いものの、聞く人によっては怒りを買うことになりかねない。


「あたしのことはいいから。だからね、シリアスって言うか……そうっ、"ドラマティック"さが足りない!」


「ドラマティックさってねぇ……実は不治の病を患っているとか、ある日突然簡単に会えないような場所引っ越すことになるとか、家のしきたりによって恋仲を引き裂かれる、とか?」


「なんーじゃその局地的な悲恋は!もっとありふれた展開は無いんかぃ!」


 これだからヒナってヤツは……、と静香はわざとらしく呆れてみせる。


「まぁ、あたしが考えてることなんだけどね、ちょっと芝山くんと有明くんの協力も必要になるわけで……」


 静香は、恐らく駿河と鞍馬を巻き込むことになるだろう事の内容を伝える。

 それを聞いた雛菊は「絶対バレるからやめときなさい」と釘を刺した。


 しかし、その釘は刺さるどころか釘を刺す本人の指を打つと言う結果となった。






 六時限目の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響き、体育講師に挨拶を交わし、のんべんだらりと教室へ戻って行く男子達。


「いやー、快勝快勝!圧倒的ではないか、我がチームは!」


 先程の授業の中で行われたバスケットボールの試合で、大量の得点差を付けて圧勝したことに、駿河は満足げに頷く。


「圧倒的って……俺はただ後ろの方に立って、攻めてくる相手を迎撃してただけなんだけど」


 これでいいのか、と蓮は体操服の裾で汗を拭う。


「蓮が敵さんの攻撃を一人で全部止めるからなぁ、攻める方からしたら、後ろ気にしなくていいし」


 鞍馬はわざわざ用意していたフェイスタオルで汗を拭いながら、蓮のディフェンスを褒め称える。


 サッカーで鍛えられた『ボールを保持している相手との立ち回り』を知る蓮が相手のドリブルを全てストップさせ、高いパスも長身かつ跳躍力もある彼には通じず、インターセプトをするなり鞍馬にパス、そこからはオフェンスに集中している残り全員で攻め立てる、と言うのが彼らの黄金パターンであり、現役のバスケ部が所属するチームすら寄せ付けないほどであった。


 そんな圧勝ムードが漂う彼ら三人に、静香が声を掛けてきた。


「ねぇねぇ、芝山くんと有明くんの二人、ちょっといいかな?」


 彼女の声に三人とも振り向き、駿河と鞍馬が反応する。


「ん、どうした松前さん?」


「駿河と僕に用がありそうだけど、蓮はいいのかい?」


 三人いる中で、わざわざ二人だけに声を掛けに来たのだ、蓮は話に混ぜなくて良いのかと鞍馬は訊ね返す。


「あ、九重くんは先に戻ってて。ちょっと二人と内緒話するから」


「内緒話?あ、うんじゃぁ、お先に」


 何を話すのかと気になるが、自分がいては始まらないのだろうと、蓮は先に教室へ戻ることにした。


 蓮が付いてきていないのを確かめてから、静香は駿河と鞍馬の二人を体育館裏に連れて行く。


「んで、蓮には話せない内緒話ってのはなんだ、松前さん?」


 最初に駿河がそれを訊く。


「実はね、ちょっと二人に協力してほしいことがあるんだけど。今日の放課後に……」


 今日放課後と言う、このあとすぐの事となると、


「あ、ごめん。僕はこのあと彼女との約束があるし……今日じゃないとダメなのか?」


 鞍馬は先んじて自分の都合を明かした。


「えー、マジ?今日このあとすぐじゃなきゃいけないんだけど……んまぁ、先約があるんじゃしょうがないかぁ」


 静香は視線の先を鞍馬から駿河へ移す。

 

「じゃー、芝山くんだけでも」


「おぅ。それで、俺は何をすればいいんだ?」


 先程、六限目の授業が始まる前に雛菊に話したことと同じ内容を話す静香。

 それを聞いた駿河は半信半疑ではあったが、とりあえずは了承したのだった。






 帰りのホームルームも(駿河と鞍馬は教室で着替えそびれたので体操服のままで)終わり、蓮は早速美姫に声を掛けた。


「朝霧さん、この後って何か予定とかある?」


「予定?うぅん、特にないよ?」


「良かった。じゃぁ、一緒に帰らないか?」


「うん、いいよ」


 まずは一緒に帰ることに漕ぎ着けることが出来た、と蓮は内心でガッツポーズを決めつつ、五限目の授業中に煮詰めたプランを再確認する。


 下校路の途中で公園に寄り道。そしてそこで改めて手を繋ぐ。


 たったこれだけ……なのだが、蓮にとってこれは遂行すべき任務(もちろん自分から自分へ与えたもの)だ。

 内心の緊張を悟られないように、蓮は努めて自然体を装いつつ、美姫と二人で玄関口へ向かう。


 しかし、この任務遂行に『思わぬ障害が立ち塞がる』ことになるとは、この時は知る由もなかった……




「……よし、美姫と九重くんは一緒に帰るみたいね」


 その様子を後ろから見ていた静香は、控えている二人に向き直る。

 

「ちょっと静香、本当にやるの?コレ……」


 明らかに乗り気ではない雛菊と、


「まぁまぁ、上手く行けばあの二人の仲が深まるし、やってやるぜ」


 よし来いオラー、と意気込む駿河。






 校門を潜り、下校路の途中まで来たところで蓮は「今日はちょっと寄り道してもいいかな」と(今までずっと用意していた)提案を挙げ、美姫も特に疑うことなくそれに頷き、二人は駅の近くの自然公園へ足を運ぶ。


 蓮の予想通り、この時間帯の自然公園の人口は疎らで、至って静かな場所となっていた。


「(よし、ここまでは順調だ。あとは、どこか空いてるベンチに座って……)」


「あっ、クレープ屋さんが来てる!」


 帰りのホームルームの終了からここまでずっと緊張している蓮の心中など知らず、美姫の意識はパステルカラーで彩られた軽トラックのクレープの屋台に注がれる。


「買ってきていいかな?」


「ん、いいよ」


 クレープを買いたいと言う美姫を止めるつもりはなく、蓮は頷く。

 やった、と嬉しそうに美姫はクレープ屋台へ駆けて行く。

 彼女がクレープを購入している間に、蓮は自然公園を見回し――ちょうどお誂え向きに空いているベンチを見つけた。


「(あそこにしよう)」


 ベンチの確保と同時に、美姫がクレープを手に蓮の元へ戻って来た。


「あそこのベンチに座ろうか」


「うんっ」


 誘導通り、二人並んでベンチに座る。

 いただきまーす、と美姫は生クリームたっぷりの中に白桃を敷き詰めたクレープに齧り付く。


「んー、もいひぃ♪」


 幸せそうに頬張る美姫の横顔を盗み見つつ、蓮は手を繋ぐタイミングを図る。

 ひとまずは、クレープを食べ終えてからだ。


「(そう言えば、朝霧さんって甘いものが好きなんだっけ)」


 昨日のデートでも、昼食の最後にデザートにパフェを食べていた。

 連日スイーツを食べていて太ったりはしないのだろうか、と声にも表情にも出さないように抑える蓮だが、


 ふと彼の視線が、美姫の同年代の女子高生と比較しても素晴らしく発達している"双丘"と、それでいながら緩やかな括れを描く曲線に向けられる。


「(……いやいやいやいや、何を"やらしい"ことを考えてるんだ俺は。今から触るのは"そこ"じゃないんだぞ)」


 余分な栄養は"そこ"に詰められているのだろうか、いつになるかは分からないが"そこ"も触ってみたい、と言う健全(?)な疑問と欲求も抑えてみせる。


「もくもく……ん、どうしたの?」


 自分に視線を向けられていると思ったか、美姫は蓮と目を合わせる。


「ッ"……いや、美味しそうに食べるなーって……」


 "やらしい"こと考えてました、とは言えず咄嗟に誤魔化す蓮。


「?」


 きょとんとして、美姫は蓮の方を見ながらもクレープを口へ運び直していく。

 さすがに目が合ったままでは気まずいと思い、蓮は目線を正面に戻し――


「おうおうおう、美味そうなモン食ってんじゃねぇか、お嬢ちゃんよ」


 ふと、自分達の正面に誰かいることに気付く。


「……へ、ヘイカノジョ、ソコノサエナイヤロートジャナクテ、オレラトアソバネェカー……?」


 改造して身につけた学ランに、ジャラジャラとアクセサリーを鳴らし、目元にはサングラス。

 どこからどう見ても「俺らはヤンキーでござい」と言わんばかりの出で立ちの二人組。


 なのだが、


「……何やってるんだ駿河?」


「そんな変な格好して、どうしたのヒナちゃん?」


 蓮と美姫から見たその二人は、紛れもなく『芝山駿河』と『早咲雛菊』のソレだった。


 正体(?)を言い当てられて、駿河(?)はあからさまに動揺した。


「あ……あァ!?誰だそりゃぁ!ケンカ売ってんのかてめぇ!」


 駿河(?)がいきなり怒ったように詰め寄ってくるが、


「いや、だから駿河だろ?」


 蓮はあくまでも「お前は何をやってるんだ」と言う顔を崩さない。


「へ……ヘンナカッコートハナンダコラ!ナグラレテーノカヨ!」


 一方の雛菊(?)もカタコト喋りになりながらも凄もうとするものの、


「……あ、ヒナちゃんもクレープ食べたいの?まだあそこにクレープ屋さんいるから、買ってきたら?」


 美姫に至っては「雛菊が自分と同じクレープを食べたがっている」と解釈したらしく、噴水の近くで停車しているクレープ屋台を指差してやる。


「「………………」」


 駿河(?)と雛菊(?)は互いに顔を見合わせると、


「お……覚えてやがれちくしょー!」


「ち、チクショー……」


 二人して明後日の方向に走り去ってしまい、それを見送る蓮と美姫。


「な、何だったんだ今の……」


「……反抗期、かな?」


 だとしたら随分と遅い反抗期だ。多分違うが。


 何がなんだかと思いつつも、美姫がクレープを食べ終えたところで、ようやくここからが本番だ。

 蓮は「後で俺が捨てとくよ」と、美姫が持っていたクレープの包装紙を受け取り、ポケットにしまいこむ。


 深呼吸をひとつ挟んでから、蓮は美姫に向き直る。


「……朝霧さん。手、繋いでいいかな」


「あ……昼休みに言ってたこと?う、うん、いいよ……」


 おずおずと、掌を上にして右手を差し出す美姫。

 しかし、これではまるで犬の『御手』にも見える。

 これはちょっと違うな、と蓮は申し訳無さそうに"訂正"を要求した。


「えっと、ごめん。掌を俺の方に向けて、指先は上向き……で、いいかな?」


「え、えぇと、掌を九重くんに向けて、指先を上向き、に?」


 戸惑いながらも蓮の要求に従う美姫。

 ちょうど、蓮の求めていた形になった。


「……よしっ」


 腹は据わった。

 覚悟も決まった。

 あとは実行するだけだ。


 蓮は、自分の左手に神経を集中させた。

 数字にして、僅か30cmにも満たない距離。

 たったそれだけの距離を、そ〜〜〜〜〜………………っと、10秒も掛けてゆっくり詰めていく。


 蓮の指先が、美姫の閉じられた指の隙間に滑り込む。


「ッ……」


 ビクッ、と美姫の右手が震えたが、もうここで後戻りは出来ない。

 そのまま奥へ、もう少し奥へ。


 互いの掌底が触れ合ったところで、蓮はほんの僅かの左手の握力を少しずつ、少しずつ加えた。

 0.1%の力を、0.01%ずつ。

 一枚の紙もこぼれ落ちるような、文字通りの紙一重の握力が、美姫の右手を包み込む。


「………………」


「…………」


「「……」」


「(やっぱり、小さくて柔らかい……俺はこんな手を無理矢理引っ張っていったのか。悪いことしたな……)」


「(昨日もそうだったけど、大きくて広いだけじゃない……こんな大きな手から、どうやってこんなに優しい力を出せるのかな……?)」


 蓮は若干の後悔を、美姫はほんの少しの疑問を、それぞれ抱いた。


 もうしばらくだけその場で手を繋いでいたが、いつまでもここにいるわけにもいかない。


「じ、じゃぁ、行こうか」


 蓮の方から、美姫の手をリードする。


「うん、うんっ」


 お互い頬を赤く染めながらベンチから立ち、ゆっくりと、ゆっくりと駅前へと向かった。


 少しでも引かれれば離れてしまいそうな、それでも離れることはない、羽根に触れるような手付きの二人を、夕陽が優しく微笑んでくれている気がした――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る