Episode:06 1on1のラブデュエル【後編】
映画の感想を交えつつの昼食を終えて、蓮と美姫はモール各所にある書店やブティックを見て回ろうとしていた。
―ーやはり、駿河と静香の監視(?)には気付かないままにだが――。
蓮の「朝霧さんの見たいところでいいよ」と言う言葉で、美姫の意向によってウィンドウショッピングは進められる。
ウィンドウショッピングの開始から、三軒目のブティックに差し掛かった頃だ。
「うーん、これも可愛いなぁ……あ、でも、こっちも捨て難いし……でもお高いし……むぅ〜」
美姫はハンガーに掛けられた洋服を手に取って、鏡越しに見ては自分に似合うかどうかを確かめては、またハンガーを元に戻す、と言うことを延々と繰り返している。
厳密には繰り返しているのでなく、美姫の中ではひとつひとつきちんと吟味し、そして取捨選択をしているのだが、蓮の視点から見たその光景は同じことを繰り返しているようにしか見えない。
「(鞍馬は彼女さんを相手に、根気よく付き合ってあげてるんだよな……)」
退屈しているわけではない。
美姫が真剣に服を選んでいる姿は、蓮にとってはまだ見ぬ表情で、時折その真剣な顔が綻ぶ瞬間を見るのは楽しかったりするのだが。
ふと、美姫は何かに気付いたようにパッと手にしていたハンガーを戻すと、慌てて蓮の方に駆け寄ってくる。
「ご、ごめんね九重くんっ。私の用事ばっかりで……やっぱりつまんないかな……?」
何に気付いたのかと思えば、蓮のことを考えてのことだったらしい。
「いや、つまらなくないよ。待ってるだけだし」
蓮はありのままを話す。
事実、退屈はしていないのだから。
しかし、そう返しても美姫の顔はどこか浮かない。
「うーん……」
気を遣ってもらっていることを気遣っている、とでも言うべきだろうか。
俺のことならいいよ、と蓮は言いかけてその言葉を喉元で押し止める。
美姫のことだ、自分が何を言おうと『蓮に気遣ってもらっている』と言う意識は、恐らく変わらないだろう。
ならばここは、逆に考えてみる。
「じゃぁさ、次は俺が行きたい所でいいかな」
彼の言葉に素直に頷いてくれた美姫。
そんな蓮が行きたいと言う所とは。
「サッカーショップ?」
世界各国のレプリカユニフォームや有名選手が使用したものと同型のスパイクシューズ、ワールドカップで使用されたボールのレプリカモデルなどで飾られたサッカーショップを前に、美姫は目を丸くする。
「九重くんって、サッカー部に入ってるわけじゃないよね?」
彼女が知る限り、蓮は特に部活動を行っているわけではない、そうでなければ自分とこうして遊びに来ている時間など、ごく限られているはずだ。
「小学校から中学までは、サッカーやってたんだ」
蓮はここに来た理由を「単に興味があるから」と答えた。
店内に入り、値下げされたウィンターシーズンのベンチウォーマーやジャケットなどを漁り見る。
「へぇ……でも、今は何でサッカー部に入ってないの?」
美姫は、単純にそれを疑問に思い、それを訊ねただけ。
すると、蓮は美姫に視線を向けないままに、淡々と言った。
「……"クラブのサッカー"と、"部活のサッカー"は違ったんだよ」
「クラブのサッカーと、部活のサッカー?」
どう違うのかと美姫は小首を傾げる。
少しの躊躇の後に、蓮はポツリポツリと話し始めた。
二人がサッカーショップに入店したのを見て、駿河と静香は少しだけ間を置いてから続いて入店し、すぐに反対側に移動する。
「九重くんって、サッカー好きなんだ」
小声で耳打ちするように静香が駿河に話し掛けるが、
「あー、……まぁ、な」
その駿河の反応はどこか薄い。
いつもの彼がするような反応ではない。
静香の脳裏に疑問が浮かぶのと同時に、蓮の呟きが始まったが、距離が離れていることと、蓮の声量が低いせいでよく聞こえない。
――最初は、友達に誘われて小学校のクラブチームに入ったんだ。
その頃は、みんなと一緒にサッカーをやるだけで楽しくて、勝ったら嬉しい、負けたら悔しい……嫌なこととか、辛いことが何も無かったわけじゃなかったけど、それでも楽しかったんだ。
サッカーが好きなのは間違いなくて、中学に上がったらサッカー部に入ろうって思ってて、きっとみんなもサッカー部に入るんだって思ってたんだけど、同じチームで一緒にサッカー部に入ったのは、半分もいなかったんだ。
それはもう個人の自由だから、「何でサッカー部に入らないんだよ」とは言えなくて、そのまま俺はサッカー部に入部した。
入部したまではよかった。
……有り体に言えば、『理想と現実とのギャップ差に堪えられなかった』んだ。
部活に入るってことは、当然先後輩の上下関係もあるし、別の小学校のクラブチームからやって来る奴もいる。
そこにいるのは"友達"じゃなくて、"チームメイト"だった。
一緒に練習して、コミュニケーションを取ることすら、"勝つための手段"なんだって教えられて。
そのために、毎日毎日吐きそうになるくらい声を上げて、走り回って、ボール追い掛けてたら、いつの間にか元々一緒に入った友達が何人かやめてて。
そんな毎日を一年、二年と繰り返しても……レギュラーになんてなれる気配も無かった。
三年生になってもせいぜいがサブチーム扱い、気を抜いたら後輩に横からポジション取られるなんてこともあった。
気が付いたらもう引退だって思ったら、「俺はこの二年半も、何やってたんだろう?」ってなって。
そう思ったらもう、続けられなくなったんだ。
それから、四季咲学園に入学しても、サッカー部に入る気にならなかった。
だからと言って、サッカー以外の部に入る気にもならなかった。
部活に入らない代わりに、駿河と鞍馬の二人と一緒になって遊んだりバカやったりして一年を過ごしてた中で「楽しいけど、これじゃなんか物足りない」って考えたら、「恋愛をしてないからかな」って思って――
「……そしたら、朝霧さんと出逢って、ハンカチ拾ってあげたと思ったら引ったくられて、お詫びに弁当作ってもらって、……君に告白されて、こうして一緒に付き合ってる」
「……そう、なんだ」
美姫にはただそれしか言えなかった。
運動部の実情なんて知らないし、知る機会も無くて、そもそも自分は運動はからっきしで。
聞きよう、見ようによっては、蓮は「頑張ることから逃げた臆病者」と取れるかもしれない。
だが、彼がそこまでに至った時、サッカーを始めたきっかけだった"友達"が、もう周りからいなくなっていた。
それはつまり、『頑張れる理由を失った』のだろう。
頑張れる理由を失ってもなお足掻き続けた蓮が、どんな思いでサッカー部で活動していたのか、彼女には想像出来そうもなかった。
「まぁ、今でも趣味程度ながら、サッカーは続けてるけど……って、ごめん。こんなこと話したって楽しくないよな」
「あっ、ち、違うのっ。楽しくないってわけじゃなくて、えっと、何て言うのかな……」
慌てながらも言葉を選ぶ美姫。
「その、ごめんね。話したくないこと、話させちゃって……」
これはきっと、蓮の中にある"黒歴史"――忘れたいけど忘れられない記憶――なのかもしれない。
そうとは知らず、興味本位で彼の過去を紐解き、その"傷"に触れてしまったのだ。
しかし、その彼の言葉は意外なものだった。
「いや……話したくなかったんじゃなくて、『聞いてほしかった』のかもしれない。ここに行きたいって言ったのも、多分それだ」
「聞いて、ほしかった……?」
どう言うことかと美姫が訊ね返して、ようやく蓮は彼女と向き合った。
「朝霧さんは、俺のことを「優しい人」とか「いい人」って思ってるみたいだけど……昔の俺は"こんな奴"だったんだよ。友達はみんなサッカーから離れていって、それでも何も考えずにサッカーを続けていて、何も得られないまま中学時代を終えてしまった」
「……九重、くん?」
「でも、やっぱり誤解してほしくなかったんだ。「俺は朝霧さんが思ってるような人間じゃないよ」って」
そう話している内に、蓮は「(俺は一体何を話してるんだ……)」と少し後悔していた。
そんなまるで、『先に自分の汚点を教えておくことで「それなら仕方ない」と妥協してもらう』と考えているようではないか。
これで幻滅されて、今すぐここで別れても文句は言えないだろう。
「……ありがと、九重くん」
だが、蓮のネガティブに傾いていた考えとはまるで正反対、美姫は感謝の言葉を口にしていた。
「九重くんが、どんな気持ちでサッカーを続けてたのかは分からないけど……何も得られないまま、なんてことはないと思う。サッカーが好きでサッカー部に入って、理想と現実が違い過ぎても、三年間ずっと続けてた。それって、『それだけ自分の弱さと向き合い続けることが出来た』ってことだと思うの」
自分の弱さを知り、それを糧に出来る者ほど強い人間はいない、と聞いたことがあったから。
自分の弱さを知っているから、相手の弱さも受け入れることが出来る。
ならばきっと、彼は「優しい人」だ。
「九重くんは優しい人なんだって、教えてもらったから。だから、ありがとう」
気が付けば、九重蓮と言う男子を相手に、こんなにも饒舌になっていた。
「……あっ、その、ごめんっ、なんか上から目線で偉そうなこと……」
「……そっか」
美姫のその言葉で、蓮の中で腑に落ちるものがあった。
部活漬けの二年半は、全くの無駄ではなかったのかと。
それをまさか、監督やチームメイトではなく、自分の恋人に今ここで教えてもらうとは思わなかった。
そして、自分が不安を煽るようなことを言ったのに、彼女は逆に安心してくれた。
「俺も、ありがとうだ」
「う、うん?どういたしまして?」
今度は自分が感謝されて、戸惑いなからも美姫は頷いた。
「もう少し、見ていいかな」
「うん」
値下げ品ではなく、今度は春の新作商品にも手を伸ばしていく蓮。
少しだけ、二人の距離が縮まった気がした。
蓮と美姫の様子を見る限り、話は済んだようだ。
だが、蓮の憑き物が取れたような穏やかな顔と、ちょっと恥ずかしそうな美姫の表情を見る限り、すんなりと落着したようだ。
「何話してたんだろ……」
少なくとも、暗く冷たい終わりではなかった。
話の内容を読みかねている静香に、駿河はトーンダウンした声を掛ける。
「松前さん、俺らは先に出た方か良くね?」
「えっ、なんで?」
「……今はちょっと、邪魔出来ねぇかなって」
行こうぜ、と店の外へ親指を向ける駿河を見て、静香は渋々ながらその後に続いた。
店の出入口が見えて、なおかつ店側からは見えにくい場所に陣取り、駿河と静香は声量を戻した。
「あのさ芝山くん、言いにくかったら言わなくていいんだけど……九重くんって、サッカーでなんかあったの?」
「……あいつな、中学の頃はサッカー部にいたらしいんだけど、上手くいかないまま終わっちまったみたいでな。四季咲学園に入学して、俺らとつるむようになっても、そのことをまだ引き摺っててさ。こればっかりは俺や鞍馬じゃどうしようもねぇ事だし、せめて少しでもサッカーのことから離れるようにしてたんたけど……」
駿河は、先程の蓮と美姫の表情を思い出す。
一年間つるんでいた自分でさえ見たこともないほど、晴々としていた。
あれはきっと、蓮の中で何かが解決――と言うよりは折り合いがついた顔だ。
「それをまさか朝霧さんが解決しちまうとは、思ってもみなかったぜ」
「そっか……」
すると、その二人がサッカーショップから出てきた。
それを見て、静香と駿河はすぐに息を殺して動向を追う。
サッカーショップを見終えてからは、再び美姫の目当てのブティックや、書店、メディアショップなども見て回り、そうこうしている内にもう夕暮れが近くなっていた。
「あ、もう夕方……」
夕陽が街を茜色に染めていく中、美姫はスマートフォンの時刻を確認する。
17時半を過ぎて間もなくの頃。
「そう言えば朝霧さん、門限とかは大丈夫?」
蓮は、朝霧家の門限のことを考えてなかった。
さすがに高校生にもなって17時までが門限とはいかないだろうが、確認も含めて一応訊ねてみる。
「あんまり遅くならないなら、暗くなっても大丈夫。……一応、18時くらいには帰るつもりだけど」
「そっか、ならそろそろ帰る感じかな」
二人が見て回りたいところは、粗方見て回った。
ここらで切り上げるのがベストだろう。
「うん、じゃぁ帰ろっか」
美姫の方もそろそろ帰るつもりのようだ。
「家の近くまで送るよ」
さすがに自宅の前まで、は遠慮するべきだと言うことは蓮にも理解している。それはもう少し彼女との関係が深まってからにすべきだ。
「あ、駅前まででいいよ。九重くんちから遠くなっちゃうし」
「ん、分かった」
とは言え、駅前からは双方とも距離があるわけではないので大差はないのだが、彼女の意見を尊重する蓮。
繁華街の中、二人は肩を並べて歩く。
「今日はありがとうね、九重くん」
「いや、誘ってくれたのは朝霧さんだし、俺の方こそありがとう。今日は、ほんとに楽しかった」
駿河や鞍馬と同じ場所に遊びに来ても、ここまで楽しいと感じられたことはなかった。
それはやはり、気心の知れた友人達ではなく、恋人が相手だからだろう。
「……うん、今日でちゃんと実感を持てた気がする」
「実感?なんのこと?」
今日という日を過ごして何を実感したのか、と美姫は問い掛ける。
「俺は朝霧さんの彼氏で、朝霧さんは俺の彼女なんだなって。……実はさ、朝霧さんが俺に告白してくれたあの日が、実は夢なんじゃないかって、本気で思ってたんだよ。夢じゃないって分かっても、最初は思いっ切り擦れ違ってばっかりだったけど……今日こうして一緒に映画とか店とか見て回って、やっと実感出来たんだ」
「あはは……学園だと、お互い緊張してばっかりだったしね」
思い返せば、本当に幸先の悪い付き合い始めだったものだ。
それでも、その幸先の悪さは今日と言う日の前触れだったのだと思えば、そう悪いだけでもない。
「私も、こんなのどうしようって思ってたけど、九重くんと一緒に遊……きゃっ」
ふと、蓮の方を見ながら話していたので前方不注意になり、向かいにいた女性とぶつかってしまう。
美姫がすぐに謝ると、相手の方も「いえいえ」と会釈してから去っていく。
夕方と言う時間帯故か、繁華街の人口が増えてきていた。
この混み具合では進むだけでも困難だ。
それに、と蓮は自分の右手を意識した。
「(……いやそうじゃない。朝霧さんとはぐれたら困るから……って何を言い訳してるんだ俺は)」
実は、彼は今日ずっと意識していたことがある。
それは、『美姫と手を繋いで歩きたい』と言うこと。
恋人同士ならばそれくらいは、と思いつつも「それはまだ早いのではないか?」と思う面もあり、意識はしていてもなかなか行動に出られなかった。
しかし、今は好機ではないか?
「はぐれないために」と言う名分があるのだから、恋人同士ならそれはきっと自然なことだろう。
ならば、あとは一歩踏み出るだけ。
「……あのさ、朝霧さん」
「なに?」
内心の緊張を悟られないように、蓮はそっと右手を差し出した。
「……『はぐれたら困るし、手、繋ぐ?』」
心の中で(僅か数秒だけ)シミュレートしたセリフをどうにか口にすることに成功。
「え……」
きょとんとした顔で蓮の差し出された手を見つめる美姫。
「(手?……も、もしかして、手を繋ぐってことッ!?)」
ここに至って、(美姫にとって)本日最大の壁が突如として出現した。
当たり前だが、異性を相手に手を繋ぐなど、男女の分別など分からない頃以来である。
男女の分別がつくようになってから、異性とは手を繋ぐどころか掠めることすらほとんどない。
中学時代は女子校で過ごして来たのならばなおのこと。
「(で、でも、九重くんははぐれないために手を繋ごうって言ってるし、決して変なことを考えてるわけじゃ……ないよ、ね……?)」
その目の前にいる彼は『彼女と手を繋ぎたい』と言う確かな(と呼ぶにはあまりにもささやかな)欲望に一生懸命理由を後付けして誤魔化しているわけだが、そんなことは美姫では知る由もない。
「だ、大丈夫っ。小さい子じゃないんだし、ね?」
「そ、そっか……」
美姫と手を繋げなかったことを残念そうに見せないように手を元の位置に戻す蓮だが、
「(あっ、九重くん今、すごく残念そうな顔した……)」
残念ながらそれは隠しきれず、美姫に見通されてしまっていた。
じゃぁ帰ろうか、と蓮は体勢を戻して歩き始める。
「ぁ……」
一歩先を行こうとする背中を見つめる。
きっと彼は、彼なりに勇気を出して手を繋ごうとしたのだ。
手を繋ぐのは恥ずかしい、それでも彼は勇気を出した。
それなら……
「こ……九重くんっ」
衝動に突き動かされるままに、美姫は彼の右手へと手を伸ばし――
――その寸前に足が縺れて――
「あっ」
「え?」
彼の右腕を掴み、そのまま全身でぶつかるように背中から押し倒して馬乗りになるような形に。
それはつまり……
「いっでででででっ!?ちょっ、朝ぎっ、さっ、やめっ……!?」
彼の右腕を思い切り締め上げると言うことに!
美姫は護身術など学んでおらず、全くの偶然なのだが、それは技は完全に"極めていた"。
「え、えっ?あっ、あぁぁぁぁぁっ!?ごごっ、ごめんなさいっ!!」
自分が彼に何をしているのか気付き、美姫は慌てて右腕から手を離して後退る。
右腕の自由を取り戻し、蓮は左手で右肩を押さえながら立ち上がる。
あともう少し美姫の力が強ければ、あるいは捻り方が深ければ、そのまま脱臼を起こしていたかもしれない。
「し、死ぬかと思った……朝霧さん、けっこう強いんだな……?」
「ち、違うのっ!九重くんを痛めつけようとしたんじゃなくてっ、そのっ、えとえとえと……っ!」
一連の流れを見てか、周囲の人間が「暴漢?」「警察呼んだ方が良くない?」と囁き始めている。
「あー、あー、えーっと……行こう、朝霧さん!」
このままでは本当に110番通報されかねない……そう危惧した蓮は『無意識の内に美姫の手を取り』、そのまま早歩きになって繁華街を抜けようとする。
「わわわっ……!?」
当然、その光景はこの二人にバッチリ見られているわけで。
「おぉっ、九重くんが美姫の手を引いて、愛の逃避行!」
グッジョブ九重くんっ、と静香はグッと拳を握った。
「いやしかし、さっきのはまさに"殺人的な護身術"だったな……」
もし自分が喰らってたら、と駿河は自分の右肩を震わせる。
下手をすれば、上腕骨をへし折らん勢いの組み付きであった。
「ってか、逃げられちまったな?どこ行ったかもう分かんねぇぞ」
文字通りの逃避行を敢行したのだ、今から二人の足取りは掴めない。
「んー、今日はもう切り上げかな。芝山くん、付き合ってくれてありがと。じゃ、また明日学校でねー」
ばいばーい、と軽く手を振りながら静香はさっさと人混みの流れの中に身を任せていく。
一人取り残される駿河。
「……なんだかなぁ。ま、俺も帰るか」
良いもん見させてもらったしな、と駿河は人混みの少ない通り道へ回る。
人混みに紛れつつ、どうにか110番通報されずに駅前近くにまで逃げ延びることが出来た蓮と美姫。
「ふー……危なかった危なかった」
あの状況、通報されれば間違いなく蓮の方が警察官のお世話になるところであった。
実際のところは、美姫が蓮を後ろから押し倒したので、被害者はむしろ蓮の方なのだが、『男女間で何か問題があれば、とりあえず男の方が疑わしい』と勝手に思い込まれるのが悲しい風潮である。
「あ、あの、九重くん……」
すると、美姫の方からおずおずとした声が掛けられる。
「もう大丈夫だと思うから、その、て、手を……」
「て?……あぁっ、ごめん!」
蓮は慌てて握っていた手を離した。
「早く逃げないとって思ったから、つい……痛かった?」
「う、うぅんっ、痛いとかは大丈夫。でも、何ていうか……」
美姫は、先程まで自分の手を握っていた蓮の右手を見つめる。
「男子の手って凄い、って。私の手より、ずっと大きくて分厚いし……」
「う、うん……ありがとう……?」
ふとそこで、蓮は『知らぬ間に本懐を成し遂げたことに』気付く。
「(と言うことは、俺は朝霧さんと手を繋いだってことに……なるの、か?)」
彼女の手を握っていたと言う感覚はまるで覚えていない。
感触を確かめたかったわけでは……なくもないのだが、なんとなく勿体無いことをした、と蓮はちょっとだけ後悔した。
そして、ここはもう駅前。つまり、今日の終着点だ。
夕陽は既に水平線に触れており、茜色の中に藍色が入り混じり始めている。
「じゃぁ、朝霧さん」
「うん。また明日、だね」
明日は月曜日。また学園での五日間と半日が始まる。
美姫が自宅の方に踵を返して歩き出し、蓮がそれを見送る。
「(名残惜しい、けど……)」
蓮は今すぐ美姫の後を追い掛けたくなって、その足を踏み留める。
名残を惜しまないほど楽しんでしまったら、きっと次が楽しめなくなるかもしれない。
名残惜しければ惜しいほど、次が楽しみになる。
「また夜にRINE送るかな」
そう呟いてから、蓮もまた駅前から歩き出す。
どんな文面を打とうか、どんなやり取りになるだろうか。
自分の中で朝霧美姫と言う存在の割合が高まってきているのを自覚しつつ、蓮は自宅への帰路を辿る。
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