三十五歳になっても未だおひとりさまで、わびしい1LDKひとり暮らし、この前誰かとデートしたのはいったいいつのことなのか思い出せなくて、かといって仕事をバリバリこなしているわけでもなくて、なにをやっても中途半端で、とりたてて趣味のようなものもない、そんな私が、一時期ハマっていたのが乙女ゲーム、乙女ゲーというやつだ。私がやったあまたの乙女ゲーのなかでも、いちにを争う傑作に『フローラ・パッションフルーツ』という作品があった。

 いろいろと変わった要素があるゲームで、異色作といわれていた。その変わった要素のひとつが、女性の悪役がいることだ。主人公の恋路を邪魔する、いじわるで悪辣な令嬢だ。

 通常の乙女ゲーには、そんなキャラクターは出てこない。ゲームの目的はあくまでもたくさんの素敵な男性キャラと恋の駆け引きをしつつ、そのなかのひとりとゴールすることであって、同性キャラとの勝負に勝つことなんかじゃないから。攻略するのは王子様で、邪魔な女の子ではない。そんな展開は面倒なだけだ。だいたい、現実世界でも女の子同士の関係はやっかいなのだ。そういうことを忘れるために、イケメンがいっぱい出てきてチヤホヤしてくれる、甘々でドファンタジーなゲームをやっているのに。

 でも、『フローラ・パッションフルーツ』には、はっきりそれとわかる女性の悪役が出てきた。何かというと主人公の邪魔をする、いじわるな令嬢。彼女の名前は、フェリシア・レーズンカカオ。つまり、今の私だ。つまり私は、『フローラ・パッションフルーツ』の世界に、乙女ゲーの世界に――理由はわからないし、あり得ないことだけど――悪役キャラとして、ええと、転生――ではないな、転移――なのかな、降臨――ではないよな、憑依――でもないし、まあいいや、とにかく、フェリシアとして、存在しちゃっている、というわけだ。


「それで、晩さん会には出席することにしたのですか?」

 朝食の席で、向かいに座っている母親が私に尋ねた。この人、ゲームに出てきたっけ。いかにもフェリシアの――私の母親らしい、気の強そうな、でもなかなかに美しい人だ。

 この世界に来ていちばん不思議なことは――この世界に来ていること自体がいちばん不思議なことなんだけどそれ以外では――もといた世界に帰りたいと思わないことだ。ここに来る前のこともよく覚えていない。普通は気になるよね。家賃のこととか、仕事のこととか。でも、私には、そういう事がどうでもよくなっていた。

「はい、お母さま」

 どうやら私がここにきたきっかけとなった出来事は、攻略男性キャラのひとり、ルルイエ・クリアブルーミントから婚約破棄を言い渡されて、自殺を図ったことみたいだ。婚約破棄自体は、ゲームでもたいていのルートで発生する定番のイベントだった。ただ、自殺未遂は私の記憶にはなかった。

「あなたのことだから、言いだしたら聞かないと思うけど」母親がため息をつきながらスコーンにナイフを入れた。「家のことなら気にしなくてもいいのですよ。お父様がいろいろと手を回してくれました。あなたのしたことも、今のところ外には漏れていないはずです」

「すみません」私は一応謝っておいた。

「まあ、こういうときくらいしか役に立たない人ですから。それと」母親は顔を上げて、私と視線を合わせた。「私は、別にたきつけるつもりはないのですけど――」

「大丈夫です。これ以上、恥の上塗りをするようなことはしません」

 母親は満足そうにうなずいた。「クリアブルーミント家だけが貴族というわけではないのです。あなたにはもっとふさわしい方がいますよ」

「わかっていますわ、お母さま」私は微笑んでみせた。

 ここが『フローラ・パッションフルーツ』の世界だとすると、いずれ私は主人公と対峙することになるのだろう。ゲームをしていたときは、私の分身だった主人公、フローラ・パッションフルーツ。私から見た彼女はどんな子なのだろう。

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