フェリシア・オーバードライブ
Han Lu
1
「――お嬢様!」
暗闇の中、遠くの方から私を呼ぶ声がする。
私を。
私?
いや、私、お嬢さんなんかじゃないし。中流家庭のサラリーマンの娘だし。しかも今年で三十五歳だし。しかも――。
「お嬢様!」
誰だよ、そんな私をお嬢様なんて呼ぶ、スットコドッコイなヤツは。
「しっかりしてください、フェリシアお嬢様!」
ああもう、うるさい――って、フェリシア? 誰よ、それ。
「いいかげんにして! あたし、フェリシアじゃないし!」
と、思わず口に出した途端、目が覚めた。
数人の男女が私の顔を覗き込んでいる。おお。みんな外人さんだ。
「ああ、お嬢様。よかった。先生、どうですか」
銀髪をオールバックにした、なかなかすてきなおじさまが、感極まった声でとなりの髭のおじいさんに話しかけた。それにしても、この人めちゃくちゃ日本語うまいな。
「ふむ」先生と呼ばれた髭のおじいさん――どうやら医者みたいだ――が私の手首を軽く握った。この人も流ちょうな日本語で話し出した。「脈は正常ですが。しかし、まだ意識が混濁されているようですな。ご自分のことをフェリシアじゃないと、おっしゃっていた」
「いや、だからあたしは――」
と言いながら上半身を起こそうとした私を、慌ててみんながベッドに押さえこんだ。
「いけません、お嬢様」銀髪のおじさまが言った。「もう少しで、取り返しのつかないことになるところでしたのに。もう、こんなことは二度と――」
「侍従長」お医者さんが、おじさまの腕にそっと振れた。「今はそれくらいに」
おじさまはぐっと言葉を飲み込んでうなずくと、半歩ベッド脇から下がった。
「あとは私たちが」三人いるメイド服を着た女の人のなかで年かさの人が言った。「少しお休みになってください、バスケット侍従長」
しぶしぶ、といった感じでうなずくと、バスケット侍従長と呼ばれたおじさまは私に深々とおじぎをした。
「それではお嬢様、わたくしは少し休ませていただきますが、くれぐれも無茶をなさらないように」
とりあえず私は、こくりとうなずいておいた。
医者と侍従長が出ていき、部屋にはベッドに横たわる私と、メイド服の三人の女性だけになった。彼女たちは、部屋の片隅に身じろぎもせず立っている。誰も口を開かない。部屋の空気がさっきよりも薄くなった気がする。でも、その雰囲気が私を冷静にさせた。
バスケット侍従長にフェリシア。
この名前に、私は心当たりがあった。ただしその心当たりをたどっていくと、あまりにも荒唐無稽な考えに行きついてしまうのだけれど。
「あの」私は、思い切って口を開いた。「私はどうしてここに?」
メイド服の女性たちは顔を見合わせた。みんな戸惑いの表情を浮かべている。自分たちが罠にかけられているかどうかを、推し量っているみたいだ。
「覚えてないのよ、何があったのか」
誰も答えなかった。
「誰か、説明してもらえないかしら」
ふう、と息を吐いて、一番若い、金髪の子が前に進み出た。その子の腕を、隣の女性がそっとつかんだ。金髪の子は、それをやんわりと外すと、私に向かって言った。
「本当に覚えていらっしゃらないのですか?」
「うん」
「では申し上げます、フェリシア様。あなたは、昨夜婚約者であるクリアブルーミント伯爵家の嫡男、ルルイエ・クリアブルーミント様から婚約を破棄され、自殺を図られたのです。そして幸いなことに」彼女は幸いなことにの部分で、口元を大きくゆがめた。「一命をとりとめて、今、ここにこうしておられる、というわけです」
わかりましたか? とでも言うように、彼女は片方の眉をくいっと持ち上げた。
やっぱりそうか。
私にはもうわかっていた。昨日の夜に起こった出来事(イベント)、そしてそもそも、ここがどこなのかも。
それともうひとつわかっていること。私は彼女たちに嫌われている。それも並大抵の嫌われ方じゃない。これ以上ないくらい、徹底的に嫌われている。なぜなら、これまで私は彼女たちにそうなって当然のことをしてきたからだ。
私は金髪の子の左頬を見た。そこには皮膚がひきつったような、傷があった。
「その頬の傷」
金髪の子が、ぎりっと奥歯をかみしめた。
「それ、火傷の跡よね」
「このことは、覚えていらっしゃるのですか」
「それはあたしが――」
と言いかけた私の言葉を金髪の子がさえぎった。
「いえ。これは私の不注意でできたものです」
じっとこちらを見つめている青い瞳から、私は視線を逸らせた。
「わかった。みんな、もう下がってもいいわ」
誰も動こうとしない。
「たぶんもう大丈夫だから、三人もいる必要はないわ。交代で休んで」
金髪の子が壁際のふたりの方を振り返った。年かさの女性がうなずくと、金髪の子を伴って、部屋を出ていった。
私の考えが正しければ、たぶん今はとりたてて何もすることがない。私は枕に頭を預けて、目を閉じた。
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