第568話 今一度、立ち上がる。
ネロの後に続いてグリードの屋敷の二階を歩くが、やはり何処にも人の気配はしなかった。
「現在、この屋敷の使用人の殆どは、暇を与えられています」
キョロキョロと周囲を見渡す浩一に、ネロが歩みを止めることなく話す。
「今宵、この屋敷で行われている行為を外に漏れ出さないために、関係のない人間は極力排除されているのです」
「……それって却って怪しまれるのではないですか?」
「ええ、そうでしょうね」
浩一の質問に、ネロは当然だと謂わんばかりにゆっくり頷く。
「ですが、それはたいした問題ではないでしょう」
「そ、そうなんですか?」
「ええ、多くの人は実際にその現場に遭遇しなければ……実害がなければ、例え所属している組織がどれだけの悪事に手を染めていても気に留めることはありません。特に、それが生活の基盤となっている者かすれば尚更でしょう」
「……よく、わかりません」
「そうでしたね。今のあなたには生活の基盤がないのでしたね」
ネロは肩を竦めて小さく息を吐くと、ゆっくりと振り返る。
「ならばこれだけは覚えておいて下さい。この先、あなたを待っているのは一般常識など通用しない、畜生たちの巣窟だということです」
「……はい」
「殺すことに悦びを感じ、人の尊厳を踏みにじることで自己を確立している者ばかりです。生き残りたければ……ミーファと姉を再会させたいのなら、くだらない甘えなど捨てて、容赦なく相手を殺すのです」
「殺すなんて……僕にできるでしょうか?」
「それはあなた次第です。ですが記憶を失う前のあなたは、少なくともそれだけの準備をしていたようです」
ネロは「少しここでお待ちを」と言って二階の端にある室内の一室に入って行く。
すぐさま部屋から出てきたネロの手には、複数のポーチが付いたベルトと、ケースに入ったナイフがあった。
「これをお返しします」
「返す?」
「ええ、これはあなたの持ち物でした。よく手入れされていて、あなたの普段の性格が伺えるようでした」
ネロは微笑を浮かべると、浩一の背後に回ってベルトとナイフを彼の腰に付けてやる。
「あなたからこれを取り上げてから今日まで、中は一切触っておりません。中身は全て揃っていますから、正しく使えばあなたの大きな力となるでしょう」
「そ、そんなこと言われても……」
記憶を失っている今の自分に、これ等の道具を上手く扱える自信はない。
そう気落ちする浩一に、ネロは冷たく言い放つ。
「では、諦めますか? 幸いにもまだ、誰にも見咎められていません。このまま振り返ってミーファと共に寝れば、明日には全て終わっているでしょう」
「で、でも……」
「ミーファとの約束を破るのが心配ですか? なら、あの子にもあなたが飲んだ記憶を失う薬を飲ませればいいでしょう。あの小さな体が薬の副作用に耐えられるかは未知数ですが、上手くいけばあなたと二人、このまま何も知らずに幸せに暮らせるかもしれませんよ?」
ただ、それはグリードの気まぐれが許す限りであるのだが……
その最後の一言だけは告げずに、ネロは再び浩一に尋ねる。
「それで、どうしますか? ここから先には私以外の者がいます。その者を排除しなければ、ソラには会いに行けませんよ」
「ぼ、僕は……」
浩一は視線を彷徨わせながら、ゆっくりと背部の腰に吊るされたナイフへと手を伸ばす。
恐る恐る鞘からナイフを取り出すと、ずっしりとした重みが手にかかり、浩一は顔を引きつらせる。
壁の燭台によって照らされて鈍く光るナイフは、ネロの言う通りよく手入れされているのか、刃こぼれもなければシミ一つの汚れすら見当たらない。
果たしてこのナイフで、一体どれだけの人を殺してきたのだろうか?
その事実を考えれば、恐怖で震えそうなものだったが、
「…………何でだろう」
ナイフを手にした瞬間から、浩一は自分が妙に落ち着いていることに気付いた。
記憶が戻ったわけではない。
だが、それでもこのナイフであれば、今の自分でも戦えるような気がした。
「……お願い、力を貸して」
浩一は願い事を口にしながらゆっくりとナイフの刃を指でなぞると、顔を上げてネロに決意の言葉を語る。
「ネロさん、僕……やります」
「後悔しませんね?」
「はい、だからその……ミーファのことを」
「ええ、彼女ののことはお任せください」
ネロは満足そうに頷くと、浩一に手の中に残っている物を差し出す。
それはこの屋敷の見取り図と、浩一の師匠であるオヴェルク将軍から受け継いだ、黒いフードだった。
「私の手書きのメモですが、パーティーが開かれている地下までの道順を示した地図です。これがあれば迷わず地下まで行けるはずです」
「あ、ありがとうございます」
「それと、このフードもあなたの持ち物でした。これを使うかはあなたの自由ですが、ひょっとしたら記憶を取り戻すきっかけになるかもしれないと思い、お持ちしました」
「わかりました」
ネロから黒いフードを受け取って身に付けると、視界は狭まり、周囲は暗くなったが、それでも不思議なことに勇気が湧いてくるような気がした。
もしかしたら記憶を失う前の自分は暗殺者だったのかもしれない。そんなことを考えながら浩一は再度ネロに礼を言う。
「ネロさん、何から何までありがとうございます」
「いえ、礼を言われることは何もしていませんよ」
ネロはゆっくりとかぶりを振ると、真意をゆっくりと話す。
「それにあなたに協力するのは、すべて私のためでもありますから」
「ネロさんの?」
「ええ、私もまた、あなたと同様に囚われの身ですから……ソラをお見合いパーティーに誘ったのも、あなたをけしかけたのも、あわよくばあの子と一緒に自由になろうとしているからです」
「そうですか……」
あの子というのが誰を指しているのかは何となく察したが、浩一はそこには触れずに微笑を浮かべる。
「それでも、僕を信じてくれてありがとうございます。この恩には、きっと報いてみせますから」
「ええ、精々頑張って下さい。こっちはあなたが失敗した時の埋め合わせをしておきますから」
「はい、そうして下さい」
色々と手を尽くしてくれるのに、最後まで突き放すような態度をみせるネロに、浩一は苦笑しながら彼女に背を向ける。
「では、いってきます」
「ご武運を……コーイチ」
ネロからの激励に浩一はしかと頷くと、お見合いパーティーが開かれているという地下目指して、そこにいるソラを助け出すために動き出した。
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