第556話 初めての経験

 ――夜、今日もまた宴の時が幕を開ける。


「いらっしゃいませ、ようこそラドロの酒場へ!」


 アイシャが威勢のいい声を上げながら酒場の扉を開けると、大勢の男たちが一斉になだれ込んでくる。


 仲間と共に今日の労をねぎらい、酒と食事を摂るため。


 またある者は、昨日のギャンブルの負けを取り戻すため。


 そして、高額な席料を支払うにも拘らず、二階で行われる催し物目当てに訪れる者も一定数いた。



「うぅ……緊張します」


 開店して数分も経たないうちに活気に満たされる店内の様子を、従業員用のバックヤードで眺めていたソラは、今にも飛び出しそうなほど早鐘を打つ胸に手を当てて深呼吸を繰り返す。


「えっ……と、挨拶をして、注文を聞いて厨房に伝える……挨拶をして…………」


 アイシャから教わった接客方法を口で繰り返しながら、勇気を出して店内へと進み出る。


「おい、注文だ。ビールを五人分とつまみのセットだ……つまみの数? 知らねぇよ。五人だから五人分でいいだろ。心配するな、料金はキチッと支払わせるからよ」


 厨房の横を通り過ぎる時、もう羞恥心もなくなったのか、堂々とした態度の姉の姿を見て、ソラは小さく溜息を吐く。



 自分とミーファを育てるために、シドがこれまでいくつもの仕事を渡り歩いてきたことは知っている。


 その数多の仕事の中で、姉は浩一と知り合ったというが、それが何の仕事なのかは、未だに聞けていない。

 ならばと代わりに浩一に聞いてみたこともあったが、彼もまた言葉を濁すばかりで、姉が何の仕事をしていたのかは教えてくれなかった。


 それはおそらく子供である自分を気遣っているのだろうが、それはそれで大人の二人が秘密を共有しているみたいで面白くなかった。



「ほらよ。ビールとつまみ五人分だ……あっ? つまみは三人分でいいって? ケチ臭いこと言ってんじゃねえよ。飯食わねえと悪酔いするぞ。ほら、食え食え!」


 シドを見れば、注文した数が違うと客に文句を言われていたが、持ち前の強引さで嫌がる客に無理矢理押し付けていた。


 だが、そんな接客をされても客たちは怒るどころか、仕方ないと呆れるように笑いながら皿を受け取り、シドと楽しそうに談笑していた。


「わ、私だって……」


 負けていられない。

 自分で失った金は、自分で取り戻してみせるんだ。


 そう決意して、ソラは勇気を振り絞って歩き出す。



 あちこちが透けている薄手のビスチェを着た先輩から接客する相手を指示されたソラは、精一杯の笑顔を浮かべて二人組の男へ話しかける。


「い、いらっしゃいませ」

「ん? あっ、何だ? 随分と小っちゃい子だな」

「君、見たことないね。もしかして新人?」

「は、はい、今日から働くことになったソラといいます。よろしくお願いします」


 そう言って深々と礼をしてニコリと笑うと、二人組は「ほぅ」と感嘆の溜息を吐く。


 自分に見惚れている男たちに、ソラは優雅に微笑みながら小首を傾げて尋ねる。


「お客様、ご注文はお決まりでしょうか?」

「えっ、あっその……」

「今宵はいいお魚が入ったので、酢漬けにされたお魚など如何でしょう? きっと、お客様が飲んでいるワインとよく合うと思いますよ」

「あっ、はい、それじゃあそれで……」


 呆然と頷く男に微笑で返したソラは、続けてもう一人の男へ尋ねる。


「そちらのお客様はどうされますか?」

「あっ、じゃあ、同じので……後、ワインのおかわりもらえるかな?」

「はい、かしこまりました」


 再び深々と頭を下げて礼をした後、ソラはゆっくりと踵を返して男たちから離れる。


「…………やった。私にもできました」


 男たちから見事に注文を聞き出すことができたソラは、厨房に向かって弾むような足取りで歩く。


「注文お願いします。今日のオススメの魚の酢漬けを二人前、それとワインを一杯お願いします」


 自信が付いたからか、大きな声で注文をお願いすると、厨房から「あいよ」という威勢のいい声が返って来る。



 そうして出てきた注文品を受け取ったソラは、堂々とした足取りで男たちの下へと戻り、再び笑顔を振りまいて男たちを虜にしてみせた。




 その後も、ソラは与えられた仕事を着実にこなしていく。


 シドの危うい接客とは打って変わり、まるで何処かの令嬢のような上品な立ち居振る舞いに、客の男性たちはすっかり魅了され、早くもソラに接客して欲しいと懇願する客も出てくるほどだった。


 そんな男性客の期待に応えながら笑顔を振りまくソラは、もしかして自分には接客の才能があるのかも? と思ってしまうのは無理なかった。



 だが、そんな調子に乗り始めた時にこそ、落とし穴というのは存在するのであった。


 それはソラがもう何度目になるかわからない最初の二人組の追加の注文を聞きに行った時、


「おい、何時まで経っても注文した品が来ねえぞ!!」


 突如として、店中に響き渡るような怒声が一つのテーブルから上がる。

 その声に全員の視線が集まる中、明らかに酔っぱらっている赤ら顔の男が、ソラを指差しながら叫ぶ。


「俺はそこのガキにビールとつまみの追加を注文したはずだが、どうして何時まで経ってもビールしか来ないんだ! ああん!?」

「えっ、そんな……」


 名指しされたソラは、困惑した顔を浮かべながら正直に男に対して応える。


「お客様……お客様は確かにビールの追加は注文されました。ですが、おつまみは要らないと仰られたではありませんか」

「ああん? そんな訳ないだろう! 俺は確かに注文した! この俺が言うのだから、間違いねえ!」


 だが、ソラの言葉には耳を貸さず、男は声を張り上げ、テーブルを強く叩いて怒りを露わにする。



 状況から考えれば、素面しらふであるソラが注文を間違えるはずもなく、男の言い分の方が間違っている公算が大きい。


 しかし、こと接客業においてはソラが取った行動は悪手であった。


「何だお前、客である俺に意見をするつもりか?」


 大勢の前で恥をかかされたと思った男は、椅子を蹴飛ばすようにして立ち上がると、ソラに向かって大股で歩きはじめる。


「俺がつまみを持ってこいって言ったら、持って来るのが当然じゃないのか? この店の教育はどうなっているんだ!」

「あっ……」


 そこでソラは、自分の対応が間違っていたことに気付いて顔を青くさせる。

 アイシャから接客についての注意点として、酔った客には常識が通用しないから、とりあえず無茶な要求以外は、おとなしく聞いておけということを思い出したのだ。


「す、すみませんでした。今すぐ用意します」


 ソラは反射的に頭を下げて男に向かって謝罪の言葉を口にするが、それもまた悪手であった。

 その対応では、自分の非を認めてしまったようなものだからだ。


「おいおい、そんな頭を下げたぐらいで許されると思っているのか?」


 声を上げた男は、謝罪したソラを見て下卑た笑みを浮かべる。


「それじゃあ、俺の気が治まらんな。謝るなら、それ相応の態度を見せるべきじゃないのか?」

「そ、それ相応の態度……ですか?」

「そうだよ。先ずはあれだ……頭を地面に擦り付けて謝罪しろ。それも全裸でな」

「……そ、そんな」


 男の無茶な要求を聞かされたソラは、思わず助けを求めるように周囲を見る。

 だが、あれだけソラを持ち上げてくれていた男たちは皆揃って黙ってしまい、頼みのアイシャやシドの姿は見当たらなかった。


「さあ、どうした? やるのか? やるんだろ?」


 完全に自分の主張が正しいと信じているのか、調子に乗った男は両手で何かを揉む様な仕草をしながらソラへと近付く。


「ヒッ!?」


 その醜悪な姿に恐怖を覚えたソラは、堪らず目を閉じてその場に蹲る。


 お願いだから誰か助けて! そうソラが心の中で叫ぶと同時に、


「お客様、店内で大声を上げるのは他のお客様の迷惑になりますので、ご遠慮願えますか?」


 静かな声が聞こえ、ソラと男の間に誰かが割って入って来る気配がした。


「……えっ?」


 その声を聞いたソラは、これまでの恐怖を忘れてゆっくり顔を上げて間に入った人物を見る。


 どうしてここに?

 いや、それとも本当にあの人なのか?


「…………コーイチ、さん?」


 信じられないという顔で呟くソラが見たのは、黒いタキシードに身を包んだ浩一、その人だった。

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