第538話 それでも俺はやってない
最初に違和感を覚えたのは、その日の宿での出来事だった。
目的地であるルストの一つ前の街で宿を取った俺たちは、夕食を食べるために近くにある酒場まで赴いた時だった。
テーブルに案内されて一息ついた時、いきなりウエイトレスが俺の前にドン! とかなり強めにカップを置いたのだ。
「…………えっ?」
勢いよく跳ねた水を顔に浴びた俺は、呆気に取られながらウエイトレスを見ると、何故か怒り心頭といった様子の目線と目が合う。
「えっ……と」
幸いにもただの水だったので濡れてもたいした被害は被っていないが、流石に分けもわからずこんな目に遭ういわれはないと思うので、少し遠慮しながらウエイトレスに尋ねる。
「その……これは一体どういうことか、説明してもらえますか?」
「はぁ!?」
俺の質問に、ウエイトレスはあからさまに不機嫌な顔になると、いきなり俺の胸ぐらを掴んで捲し立てる。
「まさかあんた、自分がまともに接客を受けられる立場だとでも思っているのかい?」
「ということは、今のはわざとってことだよね?」
「当たり前でしょ。あんたが私の親友にしたこと、忘れたとは言わせないよ!」
「そ、そんなこと言われても、あなたとは初対面だと思うんだけど……」
「このっ!?」
俺の言葉が気に入らなかったのか、怒り顔のウエイトレスは左手を思いっきり振りかぶる。
そのまま張り倒される……かと思われたが、その前にシドが手を伸ばしてウエイトレスの手を抑えてくれる。
「おいおい、いきなりあたしの家族を張り倒そうとは穏やかじゃないな」
「ちょっと……い、痛い! は、放してよ」
「お前がこいつを……コーイチを殴るのを止めるなら、すぐにでも放してやるよ」
「わ、わかったわよ。やめればいいんでしょ…………ってコーイチ?」
俺の名前を聞いた途端、ウエイトレスは憑き物が落ちたかのように目を大きく見開くと、息がかかるほどの距離で俺の顔を覗き込んでくる。
「…………あんた、コーイチって名前なの?」
「そ、そうですけど?」
「……………………………………そう、よく見れば雰囲気が随分と違うわね」
何が違うのかわからないが、シドから解放されたウエイトレスはエプロンから布巾を取り出すと、濡れた俺の服と机を手早く拭き取る。
「ごめんなさい。ちょっと勘違いしたみたい」
「えっ?」
「今日のご飯は私がサービスしちゃうから、好きな物頼んでくれていいわよ」
いきなり愛想よく満面の笑みを浮かべたウエイトレスは、俺にメニュー表を手渡すと、ウインクとついでに投げキッスをしてみせ、腰をフリフリと振りながら別の客の接客へと向かっていった。
「な、何だったんだ……」
メニュー表を開きながら机に同席している三姉妹に向けて、念のために言い訳をしておく。
「言っておくけど、俺、何にもしてないからね?」
「安心しろ。流石にコーイチにそんな節操があるとは思ってない」
「フフッ、心配しなくても信じていますよ」
「おにーちゃん、ミーファとずっといっしょだったもんね」
「わふっ」
「ププゥ」
ついでに机の下にいるロキとうどんからもフォローの言葉をもらい、皆が俺の無実を信じてくれたことは非常にありがたかった。
その後、ウエイトレスは言葉通り俺たちの食事代を全てもってくれ、結果として俺が少し濡れただけでとてもお得な思いをすることができた。
この出来事だけみれば、悪くない旅の想いでの一ページで済むのだが、ここから俺は事あるごとに妙なトラブルに巻き込まれることになる。
次は翌日の朝、いつものルーティンとなった鍛錬を宿の近くにあるちょっとした広場で行っていると、子供にいきなり卵を投げ付けられた。
「見たか! 隣の姉ちゃんの仇だ!」
俺に卵を投げ付けた子供はそう言って風のように去っていってしまったので、追いかける暇もなく、せっかく着替えたのにまた着替える羽目になった。
その次は街を出る時、税関を兼ねた門で順番待ちをしている時、行商人と思われる男がやって来たかと思うと、俺の肩を組んで耳元で囁いてきた。
「なあ、今回は一体幾ら払ったんだ?」
「はぁ?」
「とぼけんなって。獣人の女の子たちなら相場の三倍は固いところだが、お前さんなら余裕だろ? これから店に連れて行って皆でお楽しみだろ?」
「――っ、そんなわけないだろ!」
いきなり失礼なことを言い出す行商人に、俺は乱暴に手を振り払いながら睨みつける。
「何なんだ、あんた……あんまりふざけたこと言うと、怒るぞ」
「おいおい、何怒って………………って、あれ?」
そこで行商人は、息がかかるほどの距離まで顔を近づけたかと思うと、ハッと目を見開いて苦笑いを浮かべる。
「す、すまねぇ、ちょっと知人に似ていたような気がしたけど、人違いだったわ。ハハッ、ハハハハハ……」
行商人は無理矢理な引き攣った笑い声を上げながら、逃げるように立ち去っていった。
行商人が消えると、衛兵と手続きをしていたシドが戻って来て、不思議そうに首を傾げる。
「コーイチ、誰かと話していたみたいだけど、何かあったのか?」
「……何もないよ。誰かと間違えられたみたいだ」
「そうか……」
流石に何を話していたかをシドに言う気にもなれないので、俺は適当にごまかして彼女が乗ったのを確認して鞭を振るって馬を走らせる。
何が何だかわからないが、早くこの街から出たかった。
次の街……ルストに辿り着けば、こんな嫌な思いをしなくて済む。そう思っての行動だった。
これまでの流れで、どうやら俺は誰かと間違えられているようだった。
ただ、そいつはかなりのろくでなしのようで、色んな人から恨みを買い、悪い友人が沢山いるようだった。
そいつが何処のどいつかわからないが、これから先もそいつの所為で要らぬ誤解を受けるかもしれないと思うと、今から疲労困憊になりそうだった。
そしてやっぱり思い浮かぶのは、あの時すれ違った派手で悪趣味な馬車であった。
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