第522話 予兆
視界にいくつもの赤い雫が見え、何だろうと視線を下ろしたところで、俺は自分の胸がロキの爪によって大きく引き裂かれたことを知る。
「――っ!?」
怪我を自覚した途端、意識が飛びそうになるほどの激痛が全身を駆け巡るが、まだ意識を失うわけにはいかなかった。
何故なら、ロキが大きな口を開けて噛み付こうとしてくるのが見えたからだ。
狼……というよりイヌ科の動物は、ライオンや豹といったネコ科の動物と比べると顎の力が弱く、一噛みで食い千切られるようなことはないと言われているが、ロキのような大型の狼に俺が知る常識が通じるかどうかは未知数だった。
「グルオオオオオオオオオオオォォ!!」
「クッ!」
唸り声を上げながら迫るロキを前に、最早回避する余裕もないと悟った俺は、左腕を犠牲にすることにする。
次の瞬間、ロキの鋭い牙が俺の左腕、肘から下の部分にがっちりと噛み付く。
「あぐっ!?」
流石に即座に噛み切られることはなかったが、それでも多少鍛えた程度の筋肉はあっさりと貫かれ、開けられた穴から血がジワリと吹き出す。
「ロ、ロキ……」
俺は痛みに顔をしかめながらも、どうにか説得を試みようと赤い目となったロキを見やる。
「…………えっ?」
そこで俺は、自分の目に違和感を覚える。
一体何事が起きたのかと疑問に思うが、それより早く俺の体に異変が訪れる。
反撃を恐れたのか、ロキは腕を咥えたまま首を大きく振って、俺を思いっ切り投げ飛ばしたのだ。
「おわっ!?」
「コーイチ!」
成す術なく宙に吹き飛ばされた俺を見て、すかさずシドが飛び出して、空中で俺のことを抱き抱えてくれる。
成人男性を空中でキャッチしても全く苦にした様子も見せず、シドは音もなく難なく着地を決めてみせると、穴の開いた俺の腕を見て顔をしかめる。
「馬鹿野郎! 無茶しやがって!」
「……ゴメン。でも、いざという時はシドが助けてくれると信じていたから」
「そ、そりゃ、そうだけどさ……」
ほんの前まで怒り顔だったのに、一転して照れたように顔を赤らめて唇を尖らせるシドを見て、俺は改めて彼女がいてくれて良かったと思う。
だが、そんな見惚れるような顔をしたのも束の間、シドはすぐに険しい表情になると、感情を押し殺した声で話しかけてくる。
「コーイチ、こんなことを言いたくないが、もうロキのことは……」
「諦めないよ!」
シドが諦めの言葉を口にするより早く、俺は彼女の目を見て気付いたことを口にする。
「悪いけど、シドのその言葉だけは聞き入れられないよ」
「コーイチ!」
「シドこそ、ロキを見てよ!」
「――っ!?」
俺の必死の訴えを聞いたシドは、驚いて目を見開きながらもロキへと目を向ける。
てっきりすぐさま追い打ちを仕掛けてくると思われたロキは、俺を投げ飛ばした後、頭を地面に擦り付けるほど低くして威嚇の格好を取りながらも、攻めて来ることはなかった。
その理由は、ロキの顔を見れば一目瞭然だった。
「まさか……泣いてる…………のか?」
こちらを威嚇する姿勢を見せながらも、ロキの目からは絶えず涙が流れているのが見えた。
「でも……どうして」
「ロキはずっと、あの魔物の支配から逃れようと必死に戦っているんだ。」
シドは信じられないといった様子だったが、ロキに噛み付かれた俺は、至近距離で目を見ていたから、彼女が本意でないことに気付いていた。
今もこうして攻めてこないのは、魔物からの命令に逆らおうと、必死に抗っているのだ。
考えてみれば胸を引き裂かれ、腕に噛み付かれて負傷した俺だったが、これまでのロキの活躍を見る限り、即死していないことの方が不思議なのだ。
それはきっと、ロキが必死に抵抗して致命傷を与えないようにしてくれたからで、そうでなければ、俺は今頃物言わぬ肉塊へとなっていたに違いない。
自分の足で改めて立った俺は、寄り添うように隣に立ってくれるシドに向かって話しかける。
「シド……ロキはまだ戻って来れる。俺たちで、大切な家族を取り戻そう」
「できるならそうしてやりたいが……でも、どうやって?」
「それは……」
シドの問いかけに応えようとすると、
「オイ、ナニヲシテイル!」
動かないロキを見て、ガルムが苛立ちを露わにするように地団太を踏みながら叫び出す。
「ソイツハ……ジユウキシは、モウムシノイキダ。ハヤク、トドメヲサスノダ!」
「グゥアアアウウウゥゥ!!」
ガルムの声に、ロキは雄叫びを上げながらイヤイヤとかぶりを振る。
「クッ……コイツ」
まさか命令に背かれると思わなかったのか、歯噛みをしたガルムの目が、再び怪しく光る。
「ミノホドヲ、シレ!」
「グッ……ガガッ、グガアアアアアアアアアアアアアアアァァァ!」
さらに強く命じようというのか、ロキの体がビクン、と大きく跳ねたかと思うと、これまで以上に大声を上げながら苦しそうにのたうち回る。
「ロキ!」
「待った!」
思わずロキへと駆け寄ろうとするシドに、俺は無事な右手で彼女の腕を取って止める。
「シド……ここは俺に任せてくれないか?」
「何を言っているんだ。それでさっき、失敗したばかりだろう」
「うん、そうだけど……次はきっと大丈夫」
心配そうな表情のシドに、俺は痛みを堪えながら無理矢理笑顔を浮かべて、精一杯強がってみせる。
「実は……一つ試したいことがあるんだ」
「試したいこと?」
「実はさっきロキに噛み付かれた時、あることに気付いたんだ」
それは偶然なのか、はたまた必然なのかはわからないが、ガルムの目が怪しく光った時、俺はロキに噛み付かれた時に感じた違和感の正体に気付いた。
確信はないが、今はその現れた違和感に賭けるしかない。
そう判断した俺は、自分の目を指差しながらシドにあることを告げる。
「どうやら俺の目は、見えるものが新たに増えたようなんだ」
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