第521話 失われる正気

「ロキ!」


 苦しみ出したロキを見て、俺は全身からドッと汗が吹き出すのを自覚する。


 まさかガルムの奴、ロキまで操ろうというのか?


 果たして本当にそんなことが可能なのかどうかはわからないが、ロキがあれだけ苦しんでいるところをみると、決して不可能ではないのかもしれない。


「……させるか!」


 俺に何ができるかわからないが、それでもこのまま座して待つわけにはいかなかった。



 苦しむロキへと駆け寄った俺は、彼女の顔を両手で掴んで説得を試みる。


「ロキ、俺の声が聞こえるか!? 俺に何かできることはないか!?」

「グッ……グルルルル……」


 必死に呼びかけてみても、ロキは苦しそうに唸りながらイヤイヤと首を横に振るだけで、会話もままならない様子だった。


 まさか、もう魔物になりかけているとでもいうのか?


 もし、ロキが魔物になってしまったら、ここにいる俺たち全員の力を足しても、果たして適うだろうか?


 ……いや、何を馬鹿なことを考えているんだ。


 例えガルムに操られようと、ロキと戦うなんて絶対にあり得ない!

 俺は一瞬でも不謹慎なことを考えた自分を思いっきり殴りたいと思いながら、尚もロキに向かって叫ぶ。


「ロキ、頑張れ! ロキならあんな奴なんかに負けるはずがない! そうだろ?」

「ムダダ。カイノマモノハ、ジョウイシュノメイレイニハ、ゼッタイニサカラエナイ」


 背後からガルムの嘲笑うような声が聞こえるが、俺はその声を無視してロキへの説得を続ける。


「ロキ! しっかり……意識をしっかり保つんだ!」


 こんなことで……こんなことでロキとの旅を終わらせてなるものか!


 ガルムの能力が一体何なのかはわからないが、精神に作用するものなら、ロキが正気を失わないように、語り続けることが大事なはずだ。


「ロキ……」

「グ、グルゥゥ……」


 再び声を上げた俺を、どういうわけかロキは鼻で押し返そうとする。


「ロキ?」

「わ、わふぅ……」


 訝しむ俺に、滝のように汗をかいているロキは、苦しそうに呻きながら「お願い……」と前置きしてあることを懇願してくる。


「わ、わん、わんわん!」

「馬鹿! そんなことできるわけないだろ!」


 瞳を潤ませ、今にも泣きそうな表情でいるロキに、俺は思わず怒鳴り声を上げる。


 ロキの願いは「このままだと正気を失うから、その前に殺して欲しい」というものだった。



 そんな諦めの言葉を口にするロキに、俺は彼女の顔を両手で掴んで真っ直ぐ目を見ながら必死になって叫ぶ。


「いいか? 俺が絶対にロキのことを守ってやるから、最後まで諦めるな! 今度そんな弱気な発言をしたら、ロキのこと嫌いになるからな!」

「キュ~ン…………」


 俺からの「嫌い」という単語に、ロキは耳をパタリと閉じて悲しそうに顔を伏せる。

 ちょっとかわいそうな気もするが、これもロキのためをを思えばこそ、だ。



 そう思っていると、あれだけ苦しそうに呻いていたロキは、無言になって顔を伏せたままパタリ、と動かなくなってしまう。


「…………ロキ?」


 さ、流石に「嫌い」は言い過ぎだったかな?

 俺がロキを嫌いになるなんてこと、未来永劫あり得ないというフォローをすぐにすべきだろうか?



 うん、ここはロキに少しでも希望を持ってもらうために、元気が出る言葉をかけてやるべきだ。

 そう思った俺は、ロキの頭を撫でようと手を伸ばす。


 すると、


「コーイチ、駄目だ!」


 何かに気付いたシドが叫びながら駆けて来たかと思うと、必死の形相で俺が伸ばした手を掴む。


「シド?」


 一体何をするんだ? と彼女に尋ねるより早く、


「ガウッ!」


 顔を上げたロキが俺の手があった場所にガチン、と歯を鳴らして勢いよく噛み付く。


「ロキ!?」

「ダメだ! コーイチ! ロキはもう正気じゃない!」


 シドは俺の腰を抱くと、そのまま抱え上げてロキから距離を取るように逃げ出すので、俺は慌てて彼女の背中を叩きながら叫ぶ。


「シド、ダメだ! ロキが苦しんでいるんだ。助けないと……」

「何言ってんだ! あれでもまだ、ロキが正気だとでもいうのか!?」

「えっ……」


 シドに言われてロキの顔を見ると、そこにはこれまで見た魔物と同じように、ルビーのような爛々と赤く輝く目をしたロキがいた。


「グルルルル……」


 口の端から涎を垂らし、低い姿勢で唸り声を上げているロキは、今にも飛びかかって来そうであったが、それよりも衝撃的だったのが、ロキが何を言っているのかわからないことだった。


「まさか……本当に」


 ロキは魔物になってしまったのか?

 その真偽を確かめるため、俺はシドの手を振り解いて地面へと降り立つと、ふらふらとした足取りでロキへと近付く。


「おい、コーイチ!」

「大丈夫……ちょっと確かめるだけだから……」


 俺は駆けよって来ようとするシドを手で制しながら、ゆっくりとロキへと近付く。


「……ロキ、嘘だよな?」


 初めて出会った時、ロキがいなかったら俺たちは迷いの森から出てきた魔物に殺されたか、街から放たれた大量の矢の雨によって死んでいた。


「さっきは酷いこと言って悪かったよ。でも、あんな言葉、本心なわけないだろ?」


 次に出会った時は、ミーファとの仲を取り持ってくれた。

 あそこでロキのフォローがなかったら、ミーファと仲良くなれなかっただろうし、今頃はユウキの策略に嵌って物言わぬゾンビ兵となっていたかもしれない。



 他にもロキがいなかったら、俺は何度命を失っていたか計り知れない。


「俺には……俺たちにはロキが必要なんだ」


 俺は勿論、ソラやミーファ、そしてシドもロキのことが大好きなんだ。

 だからお願いだ。


「ロキ、正気に戻ってくれ」


 俺は一縷の望みを信じて、警戒態勢を取っているロキに向かって手を伸ばす。


 ロキの体に触れれば、優しく抱き締めて頭を撫でれば、アニマルテイムのスキルの効果もあってきっと正気に戻るはずだ。



 そう思ってロキに触れようとした途端、目の前にいたはずの巨大狼が、まるで煙になってしまったかのように忽然と姿を消す。


「……えっ?」


 一瞬、何が起きたかわからず、目の前の空間を呆然と見ていると、突如として影が差したかのように周囲が暗くなる。


「コーイチ、上だ!」


 シドの声に反応して顔を上げると、大きく跳んだロキがその逞しい右前脚を思いっきり振りかぶるのが見えた。


「ガルオオオオオオオオオオオオオオォォ!!」


 次の瞬間、ロキは今まで聞いたことがないような雄叫びが聞こえたかと思うと、俺の胸に熱湯をかけられたかのような熱が走り、目の前が真っ赤に染まった。

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