第344話 頑張ったね

 逃げるといっても、入口には騒ぎを聞きつけてやって来た自警団たちがいるので、そこから出て、屋敷の外まで逃げられる可能性はかなり低い。


 他にらしい出口は見当たらないので、残るは必然的に窓からの脱出となるわけだが……、


「ちょっ、ちょっと待ちなさい!」


 そんなことを考えていると、いつの間にか立ち上がったエスクロが声をかけてくる。


「も、もしかして、そこにいる獣人は、ノルン城のシド姫ですか?」

「…………」


 その問いに、シドは無視を決め込むかと思われたが、


「……だったら何だって言うんだ?」


 ぶっきらぼうにエスクロの質問に答えながら、挑むような鋭い視線を向ける。

 殺意が籠った鋭い睨みに、並の戦士ならば思わず身が竦んでしまうのでは? と思われたが、


「ホッホッ、そうですか。なるほどなるほど……」


 どういうわけか、エスクロは何かを納得したかのように、笑顔で何度も頷く。


「…………」

「…………」


 その全く読めない態度に、俺とシドは顔を見合わせて揃って眉を顰める

 一体何が嬉しいのか、エスクロは顎の下を手で何度も擦りながら、舐めまわすように顔を上下させる。


 …………まさか、こいつシドのことを?


 この状況で、そんな下劣な思考をする馬鹿がいるはずがない。

 そう思っていたのだが、


「デュフフ……そうですか。まさか獣の姫が、こんな美味しそうに育っていたとは思いませんでしたよ。ジュルリ……」

「――ッ、ヒッ!?」


 エスクロの下卑た視線に、シドは思わず顔を青ざめて俺へと縋るように身を寄せてくる。


「コ、コーイチ、ヤバい奴がいる。早く……一刻も早く逃げよう」

「ああ、わかった」


 確かにこんな最低野郎に、いつまでもシドを視姦させるわけにはいかない。

 俺はシドに頷くと、腰のポーチから拳大の黒い玉を取り出して地面へと叩きつける。

 黒い玉が地面に激突して破裂すると同時に、白い煙が発生してあっという間に部屋一面へと広がる。

 これは、敵に囲まれた状況から逃げるための特性のけむり玉だった。


「ま、待つのです!」


 煙の向こうから、エスクロの慌てたような声が聞こえるが、それでおとなしく待つはずがない。


「ま、待って。待つのですよおおおおおおお!」


 俺たちはエスクロの叫びを無視して、窓からリムニ様を連れて脱出した。




 けむり玉から発生した煙は暫く室内に留まり続け、それが晴れる頃には、当然ながら浩一たちの姿はなかった。


「……ああ、なんてことだ」


 リムニだけでなく、シドまで逃げてしまったことに、エスクロはがっくりとその場に膝を付く。

 だが、すぐさま顔を上げると、ブレイブへと顔を向けながら怒鳴る。


「何をしているのです。早く、奴等を追いかけるのです!」

「ええ、わかっていますよ」


 焦った様子のエスクロに対し、ブレイブは静かに頷いてみせる。


「心配しなくても、奴等を逃がすつもりはありません。その為の準備も、万端ですよ」


 そう言うと、ブレイブはニッコリと爽やかな笑みを浮かべた。




「…………ふぅ」


 屋敷の三階の窓から脱出は、決して簡単なものではなかったが、シドの助けもあってどうにか地面に下りることができ、俺は安堵の溜息を吐く。

 俺たちが逃げて来た窓からは、今も絶えず煙が発生しており、誰かが窓から顔を出す様子も見えない。


 あの様子なら、少なくとも煙が晴れるまでは、追手が来ることは避けられるだろう。

 さらに、


「コーイチ、チャンスだ」


 先に下りて周囲の状況を確認していたシドが、腕に抱いたリムニ様を抱え直しながら話しかけてくる。


「騒ぎを聞きつけて中に入ったのか、外の奴等が消えているぞ」

「本当か?」

「ああ、今なら楽に敷地外に出られる。急ぐぞ」

「わかった」


 連携が上手く取れていないのか、それとも単純に馬鹿なのか、見張りたちが持ち場を離れてくれるのは、こちらにとってはまたとないチャンスだ。


「とりあえず、安全な場所まで行こう」


 その提案に二人が頷くのを確認した俺は、二人を導くように先導してグランドの街へと駆け出した。




「ここまで来れば大丈夫だろう」


 再び食品を扱うマーケットまで戻って来た俺たちは、近くにあった折り畳み式の屋台の中へと身を潜める。

 本当はもっと安全な場所まで行きたかったのだが、俺はどうしてもその前にやっておきたいことがあった。

 アラウンドサーチを使って周囲に人がいないのを確認した俺は、腰を落ち着けて大きく息を吐いているリムニ様へと話しかける。


「リムニ様、手を出して下さい」

「な、何じゃ?」

「指、ずっと痛くて辛いんじゃないですか? たいしたことはできませんが、応急処置をさせてください」

「う、うむ……」


 リムニ様は静かに頷くと、おずおずと俺の前に指が折れた右手を差し出してくる。


「…………」


 不規則な形に歪み、赤黒く変色した小さな手を見て、俺ははらわたが煮えくり返る気持ちになる。


 エスクロの奴、こんな小さな子供の手を、どんな顔してへし折ったというのだ。

 俺たちがあの部屋の天井裏に辿り着けたのは、リムニ様の泣き叫ぶ声が聞こえたからで、その前にどんなことが行われ、どうやって彼女の心を傷付けたのかまではわからない。


 だけど、どんな理由があっても、罪もない幼い子供を傷付けていい理由なんてあるはずがない。

 本当は痛くて、泣き叫びたいはずなのに、それをすると俺たちに迷惑がかかると思って、必死に耐えているのだと思うと、何だか俺の方が泣きたくなってくる。


「…………グスッ」

「おい、コーイチ。どうしてお主が泣くのじゃ」

「す、すみません。リムニ様がどれだけ辛かったかと思うとつい……本当に、本当によく頑張りましたね?」

「ふえぇ……」


 俺の一言に、リムニ様は驚いたように目を見開くと、


「あ、あれれ……」


 目からボロボロと大粒の涙を流しだす。


「ち、違うのじゃ。これは違う…………」


 狼狽するリムニ様の頭を、俺は優しく抱き締めながら静かに撫でる。


「リムニ様、辛かったら我慢しなくていいんですよ」

「じゃ、じゃが……」

「流石に大声で泣かれると困りますが、今なら俺が思いっきり受け止めてあげますから、遠慮せずに泣いて下さい。治療はその後にしますから」

「コ、コーイチ…………ふぇ……」


 そのままリムニ様の頭を優しく撫で続けていると、彼女の体が小さく震え出す。


「うぅ……ひぐ……えっぐ…………こ、怖かったのじゃ……」


 小さな嗚咽は、やがて堪え切れない慟哭へと変わる。


「爺が…………皆が…………目の前で死んで…………我も…………ネームタグ……壊され……もう、もう……うぅ……うううぅぅぅ」


 決して大声を出さないように俺の胸に顔を押し付け、上着を噛んだリムニ様は、堤防が決壊したかのように滂沱の涙を流しながら泣き続けた。

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