第231話 悔悟

 行商人は鳴子の方へと顔を向けていたのは一瞬だったが、それだけあれば十分だった。


 ナイフの柄に手をかけて疾駆する俺の目には、行商人が隙を見せていることを示す黒いシミが背中に浮かんでいる。

 あそこを突けば、防御を無視して致命的なダメージを与えることができるバックスタブが発動する。


 しかし、バックスタブは相手に気取られていないことが前提なので、チャンスはたった一度、しかも僅かな時間だけだ。

 そして、次の機会が訪れることはないというのは言うまでもない。

 この一瞬のためだけに、俺はこの二日間を費やしてきたと言っても過言ではない。


 ――もらった!


 俺は行商人の背中に見える黒いシミだけに集中しながら、ナイフをケースから抜くために手に力を籠める。


 これで、行商人の背中を貫けば……俺は認めてもらえる。

 皆を、シドたちを守る力を手に入れることができる。


 そう、行商人の命を奪えば………………、


「……えっ?」


 その時になって初めて、俺はとんでもない矛盾を抱えていることに気付く。


「お、俺は一体何を…………うっ!?」


 同時に、極度の集中で今まで忘れていた吐き気が、俺の体の奥から一気にせり上がってきて、


「うっ、お、おうえぇぇ…………」


 俺は堪らずその場に膝を付いて、空っぽの胃の中に残っている僅かな胃液を地面へとぶちまけた。




「…………はぁ…………はぁ」


 胃の中に僅かに残った胃液を吐き尽した俺が膝を付いていると、誰かが俺の目の前に立つ気配がする。

 顔を上げると、行商人の白い仮面が俺を見下ろしているのが見えた。


「す、すみません……でした」


 行商人の姿を見た俺は、項垂れながら謝罪の言葉を口にする。


「俺……一生懸命考えて、どうにかしようとしたんですけど……駄目でした」


 ここでトラウマを理由に言い訳をすることもできたが、俺はそうしなかった。

 この時、俺は先程の自分の行動を悔いながらこう思っていた。


 この人を殺さなくて良かった、と。


 もし、あのまま行商人の背中にナイフを突き立てていたら、この集落の命綱ともいえる生活物資の供給が途絶えてしまうところだった。

 そんな集落の恩人を、俺は訓練で殺そうとしたのだ。

 その事実を知った俺は、恐怖で体が震え出すのを自覚する。

 知り合いを……それも恩人である人物をこうも簡単に殺せてしまう狂気が、俺の中にあることが堪らなく怖かった。


 これは、もう本当に駄目かもしれないな。

 トラウマを克服するどころか、新たなトラウマを抱えてしまったかもしれない事実に、俺は諦観するように腰へと手を伸ばしてベルトからナイフを外す。

 もう戦士としてはお終いだろうから、このナイフは必要ない。

 いざという時がきたら、せめて三姉妹を守る肉壁となって死のう。


 そんなことを考えていると、


「……先程の作戦、お前が自分で考えたのか?」


 上から行商人が声をかけてくる。


「どうなんだ? お前が一人で考えたのか?」

「あっ、いえ、違います……けど」


 基本的なことは自分で考えたが、目くらましに小麦粉を使うことや、鳴子の罠を使うことは、アドバイスをもらって取り入れた策だった。


「そうか……」


 俺から回答を聞いた行商人は、何かに納得したかのように何度も頷く。

 そして膝を付いて俺へと手を差し伸べると、まさかの一言を告げる。


「先程の戦法、結果はともかく実に見事だったぞ」

「……えっ?」

「自信を囮として敵を惹きつけ、目くらましや鳴子を使って相手の不意を突く……それこそ、力のないお前が生き延びる唯一無二の方法だ」


 行商人は俺の手を取って無理矢理立たせると、嬉しそうに弾んだ声で話す。


「最後は手が出なかったが、それは気にする問題ではない。来るべき敵が現れれば、必然的に体が動くはずだ」

「あ、あの……えっと」


 何だかよくわからない方向に話が進んでいるようなので、俺は確認するように行商人に問いかける。


「あの……俺、失敗したんですけど……」

「何を失敗したのだ?」

「その……あなたを倒すどころか、最後の最後でトラウマを克服できずに吐いたんですけど……」

「だからどうした?」


 不安そうに答える俺を、行商人は軽く一蹴してみせる。


「誰が私に勝て、なんて言ったのだ? 私はお前に戦い方を教えると言ったが、その方法を語ったことは一度もないぞ」

「……確かに」


 でも、それを言うなら、戦い方を教えるといった割には、俺に何にも教えてくれないだけど……、


「不満そうだな」


 すると、不満が顔に現れていたのか、行商人が声のトーンを落として咎めるように話す。


「確かに私は多くは語っていないが、それはお前を少しでも長く生かすためだからな」

「……どういうことですか?」

「単純な話だ。お前の言う守るために戦うということは、究極、絶対に死なないことだ。そして真っ先死ぬ奴は何も考えない奴、次に死ぬのは人に頼らない奴だ」

「だから俺に……」


 敢えて何も教えず、自分で考え、他人に助けを求めるように仕向けたのか?


「そういうことだ。 そしてお前は、見事に私の期待に応えてみせた」


 俺の考えを見透かしたかのように行商人は満足そうに頷く。


「心配せずとも、これからもお前の面倒を見てやる。これからも常に考え、精進することをゆめゆめ忘れるでないぞ」

「あっ、はい……」


 よくわからないが、どうやら行商人からの試練に合格したらしい。

 行商人の言葉は素直に嬉しかった。


 ……だが、


「あの……俺、もう無理かもしれません」


 そう言うと、俺は外したナイフを行商人へと差し出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る