第230話 勝つための作戦

「ヒィ……ヒィ……ヒィ…………」


 背後からの鬼気迫る行商人の気配に、俺は目に涙を浮かべながら走り続ける。


 俺と行商人との距離は、向こうが呆気に取られていたこともあってまだ十メートル以上は離れているはずだが、すぐ真後ろにいるのではないかと思うほど強烈なプレッシャーが、背中にグサグサと突き刺さるように襲いかかってくる。


 こ、これが本物の殺気ってやつなのか?


 俺は滝のように汗を流しながら必死に足を動かしながら、チラリと後ろを振り返る。


「――っ、ヒッ!?」


 後ろを振り返った俺は、恐怖の余り思わず小さく悲鳴を上げる。

 そこには、猛然と砂埃を舞い上げながら俺へと凄い速度で迫って来る行商人の姿があった。

 仮面を付けているので表情は見えないのだが、先程の俺の態度に明らかに怒っているように思えた。


 つ、捕まったら殺される。


 自分で考えた作戦ではあったが、もう少し別の方法を取るべきだったかもしれない。

 そんなことを思いながら、俺はある場所を目指して走り続けた。




 そうして俺がやって来たのは、俺たちの住居となっている二棟の建物のすぐ傍だ。

 二つの建物に挟まれた通路、調度二つの建物を繋ぐ欄干のない橋の下までやって来た俺は、そこで振り返って行商人を迎え撃つ。


「はぁ…………はぁ…………はぁ……………………」


 余裕で集落を十周できるほどの体力をつけたにも拘らず、集落の入口からここに至る数十メートルで、既に俺の体力は限界を迎えようとしていた。

 それだけ行商人による攻撃は苛烈で、放たれる殺気は俺の精神力をゴリゴリと削り続けているということだ。


 これから先、同じような状況に陥らないなんてことはないだろうから、今後のためにもここで少しはこの手のプレッシャーへの耐性を付けておきたいところだ。


「どうした、追いかけっこはもう終わりか?」


 そんなことを考えていると、行商人が息一つ切らさないで悠然とした足取りでやって来る。


「逃げるのを止めたということは、ここで勝負を決めるつもりか?」

「……さあ、どうでしょう。また逃げるかもしれませんよ?」


 そう言いながら、俺は腰を落としていつでも動けるように構える。

 明らかな警戒態勢を取る俺を見て行商人は「フッ」と薄く笑うと、


「では、逃げる前に仕留めるとしよう」


 そう言って、再び俺に向かって突進してくる。

 それを見た俺は、


「すぅ…………」


 大きく息を吸って肺いっぱいに空気を溜め込むと、自分のすぐ足元に隠すように置かれた紐に足を引っかける。

 そのまま足を勢いよく振り上げると、迫りくる行商人と俺との間に、上から何かが勢いよく落ちてくる。

 落下物が地面へと激突すると同時に、中から勢いよく白い粉が吹き出して辺り一面を一瞬にして白く染め上げる。


「なっ!? 目くらましか……」


 白の世界の向こう側から行商人の驚いたような声が聞こえた瞬間、俺は動き出していた。


 この隙を突いて行商人へと迫る……ではなく、足音を立てずに一番近くの部屋、普段は食卓として使われている部屋へと飛び込んだ。

 部屋の入口脇の壁に背を預けた俺は、息を殺して目を閉じ、アラウンドサーチを発動させる。


 脳内に索敵の波が広がっていくと、すぐ近くに赤い光点、行商人の居場所が表示される。

 俺の奇襲を警戒してか、行商人はその場から一歩も動いていない。

 それを見て俺は確信する。

 やはり、あそこで奇襲を仕掛けるべきではなかった、と。


 あの時、行商人の目くらましに使ったのは袋に詰めた小麦粉で、二つの監獄を繋ぐ橋の欄干に仕掛けておいたものだ。

 生活が決して豊かではないこの集落で、目くらましのためだけに小麦粉を使うのは憚れたのだが、シドがこの一戦にかける俺の想いを熱く語って集落の皆を説得してくれ、やるなら徹底的にやれ、ということであれだけの目くらましを作ることができたのだった。

 その予想をはるかに超える熱い煙幕に、俺は思わずそのまま行商人に仕掛けてしまうべきか悩んだが、既に一度痛い目に遭っていることが幸いして、予定通りの展開に持っていくことができた。


 後は、俺の隠密性が向上するパッシブスキルが、行商人に何処まで通用するかの勝負だ。

 俺はゆっくりと呼吸を繰り返しながら、脳内に映る赤い光点に注視する。


 ちなみに、行商人だけに集中できるように、監獄内の低階層には誰も残っていない状態にしてもらっている。

 これだけお膳立てしてもらったのだから、その期待に応えないわけにはいかない。


 赤い光点は暫くその場に留まっていたが、小麦粉による煙幕が晴れたのか、それとも俺が奇襲を仕掛けて来ないと踏んだからか、その場からゆっくりと監獄内に踏み入れるように動きはじめる。

 その足取りはかなりゆっくりで、周囲を警戒しているようだった。

 だが、その様子から俺のことは見失っているのは間違いないようだ。


 だったら、後は予定通りに……、

 俺は自分の足元にある紐を手繰り寄せると、


「すぅ……はぁ…………」


 大きく深呼吸を繰り返す。

 大丈夫。自分を……俺を信じてくれる皆を信じるんだ。

 俺は自分を鼓舞しながら、赤い光点が監獄の階段に差し掛かったところで、手に持っている紐を思いっきり引っ張りながら、壁から体を離して表へと出る。

 すると、遠くの方でカラカラと乾いた木がぶつかるような音が聞こえる。

 この音は夜、寝る時に侵入者を知らせるための鳴子の罠だ。

 部屋から飛び出すと、俺の目に鳴子の方に視線を向けて、背中ががら空きの行商人の姿が映る。


 このまま、気付かれる前に一気にやる。


 俺は足音を立てないように行商人との距離を詰めると、腰の後ろに付けてあるナイフへと手を伸ばした。

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