第4話 壊れる日常

 その後も俺たちは、毎夜毎にグラディエーター・レジェンズの世界に入り浸ったが、俺たちのチームがチャンピオンになることはなかった。


 ここまで勝てないとなると、嫌気がさしてゲーム自体を止めてしまう人もいるかもしれないが、俺たちは文句を言いながらも、不思議とこのゲームを辞めようと言わなかった。

 その最大の理由は、やはり他のゲームでは味わえないVR空間ならではのここがもう一つの現実と思わせるほどのリアルさと、実際に命のやり取りをしているのでは? と錯覚してしまうほどのヒリヒリとした緊張感にあった。

 泰三ではないがグラディエーター・レジェンズというゲームは、俺たちにとってもう一つの現実といっても過言ではなかった。




 そうして職場とゲームの世界を行き来する生活を送っていたそんなある日、


「おい、いい加減にしてくれよな!」


 昼休みを終えて午後の仕事を始めようとした時、俺の本当の現実である企画経営部内に聞き飽きた怒声が響き渡る。


「俺の机の上に会議で使う資料を置いておくように指示しておいたのに、何処にもないんだがどうなっているんだ?」


 その声に俺たちは互いの顔を見合わせる。

 誰もが「聞いたか?」と口に出さずに目で確認し合うが、その話を聞いたという者は、この中にはいないようだった。

 当然ながら俺も聞いてはいないし、俺の机の斜向かいに座る泰三も、何のことだと頭に疑問符を浮かべていた。

 少なくとも、俺たちには関わりないことだ…………そう思っていたが、


「おいおい、俺の言葉を覚えていないとはどういうことだ?」


 どうやら課長は、誰か特定の人物に向かって言っているようだった。

 いや、そんなまさか……。そう思いながら課長の動向を見守っていると、禿頭の視線がある一点に止まる。


「坂上ぃ……また、お前か」

「えっ、ぼ、僕ですか?」


 まさかの使命に、泰三は目に見えてオドオドと狼狽する。


「えっ、で、でも……僕、課長から今日は何も聞いていませんが……」

「誰が直接、話をしたなんていった。そんなこともわからないなんて、お前は本当にバカだな」

「えっ、ええっ!?」

「昼休み前に、お前にメールで指示しておいただろうが。まさか、まだ目を通してないなんて言うんじゃないだろうな?」

「み、見てないです……」


 そう言いながら、泰三は慌ててパソコンを立ち上げてメーラーを起動する。

 すると、泰三の顔がみるみると青ざめていくことから、課長の言っていることは紛れもない事実なのだろう。

 だが、そんな理不尽な話があるだろうか。

 そもそも同じ部屋にいるのだから、何か伝えたいことがあるなら直接言えばいいのだ。それをわざわざメールで送るだけでなく、昼休みという仕事から離れる時を狙ってメールを送るなど、これをパワハラと言わず何と言えばいいのだろうか。


 だが、当の課長はしてやったりと嗜虐的な笑みを浮かべると、震える泰三に詰め寄る。


「ほれ見たことか。忘れっぽいお前のためにわざわざメールにして送ってやったのに、それでも忘れるなんて……お前は本当にクズだな」

「…………」


 下を向き、悔しそうに歯噛みする泰三を見て、調子に乗った課長は、彼のこめかみ辺りを指で小突きながらさらに捲し立てる。


「今日の会議は、社長案件の大事な会議なんだぞ? それなのに資料の一つもまともに用意できないなんて、社会人としての意識が足りないんじゃないのか?」

「…………けるな」

「あっ、何だ? 何を言ったんだ? ドジでクズな坂上は、日本語もまともに話せないのか!?」

「ふざけるなああああぁぁぁ!」


 度重なる課長の挑発に、我慢の限界に達した泰三が机を思いっきり叩いて立ち上がる。

 バン、という大きな音に課長は一瞬たじろいだものの、下に見ている泰三に驚かされたことが腹に立ったのか、顔を真っ赤にして怒りを露わにする。


「おい、坂上! お前、誰に向かってものを言ってるのかわかってるのか?」

「うるさい! 人がおとなしくいるからって、いつまでも調子に乗ってんじゃねぇよ! お前なんか、僕より少し早く生まれただけの、無能そのものじゃないか!」

「む、無能だと……」


 その一言に課長の顔が引き攣り、額に浮かんだ青筋がピクピクと揺れ出す。

 今にも飛びかかってきそうな課長に対し、泰三はここぞとばかりに堪りに堪った鬱憤を晴らす。


「無能を無能と言って何が悪い! 今日の会議の資料だって、毎日残業して用意してやったのに、何もしてないハゲにどうしてそこまで言われなきゃいけないんだよ!」

「ハ、ハゲ……」


 面と向かってハゲと言われた課長の顔がこれ以上ないくらい赤くなる。


「お、おい、泰三……」


 留まる様子を見せない泰三の暴言に、俺は背中に冷たいものが流れるのを自覚しながら止めようとする。


 だが、それより早く課長の怒りが爆発する。


「誰が無能だ! この……クズがっ!」


 怒りを爆発させた課長は、いきなり泰三のことを突き飛ばしたのだ。


「キャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」


 派手な音を立てて書類の束やパソコンと一緒に吹き飛ぶ泰三を見て、女性社員たちの悲鳴が上がる。


「ちょ……」


 まさか壮年期に入っているような大人がこうも簡単に暴力に訴えると思わなかったが、これ以上の暴挙は止めなければと俺は席を立って泰三の下へと急ぐ。

 机を乗り越えればすぐだが、不運にも泰三の下へ駆けつけるためには、連なった机を大回りしなければ辿り着けない。

 その間にも、課長の暴挙はどんどんエスカレートしていく。


「何も知らないクソガキが、俺に意見を言うなんて十年早いんだよ!」


 課長は倒れた泰三に向かって、手当たり次第に次々と物を投げつけていくが、怒りに任せて狙いすら定めていないので、幸いにも殆どのものは泰三に当たることはなかった。


 だが、その結果、とんでもない悲劇が起こる。


「わああああっ! パ、パソコンが……」

「こっちも……か、課長何してくれてるのですか!」


 手当たり次第に物を投げた結果、飲みかけのコーヒーや水といったものがパソコンに降り注ぎ、バチバチと火花を散らして次々と故障させていったのだ。

 全く何をやっているんだ……余りの大惨事に俺は頭を抱えたくなるのをどうにか堪えて、懲りずに物を投げ続ける課長を後ろから羽交い締めにする。


「課長、いい加減にしてください!」

「ええい、離せ! このクズにバカにされたんだ! このクズを叩きのめさないと、怒りが収まらん!」

「だったらなおのこと放せません。それに、泰三……坂上の言うことはもっともです」

「何だと!」


 まさか俺が泰三の肩を持つとは思っていなかったのだろう。課長が俺のことを充血した目でギョロリと睨んでくる。


「……おい、橋倉。どういう意味だ?」


 完全に怒りを含んだその目に、普段の俺ならば思わず素に戻って謝罪の言葉の一つでも口にしたのだろうが、生憎とこの時の俺は完全に頭にキていた。

 威圧するような言動もさることながら、親友に暴力を振るわれて黙っていられるほど、俺はまだ大人になりきれていない。

 課長に睨まれたことよりも、その体から放たれる加齢臭に顔をしかめながら俺は課長に言ってのけることにする。


「……どうもこうも、そのままの意味です。課長がやっていることは、ただの嫌がらせ……パワハラです。ハッキリ言って俺たちの足を引っ張ってるだけで、邪魔以外の何物でもないですよ」

「お、お前も俺のことを無能だと言うつもりか?」

「端的に言うとそうなりますね。でも、そう思っているのは俺だけじゃないですよ。ほら……」


 耳元で周りを見るように囁いてやると、課長はハッ、と顔を上げて周りを見やる。

 するとそこには、冷ややかな目でこちらを見ている企画経営部の皆がいた。

 その視線に気付いた課長は、思った通り激昂する。


「な、何だその目は……まさか、お前たちまで、このクズの方がマシとか抜かしおるのか!?」

「…………」


 流石にその問いに素直に応える者はいなかったが、それでも全員の感情を殺した冷たい眼差しが伝えていた。


 お前こそ邪魔者だ……無能だ、と。


 その視線の意味に気付いた課長は、


「うがああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!?」

「うわっ!?」


 いきなり暴れ出して俺の拘束から逃れると、机の上にある一抱えもあるプリンターをブチブチとケーブルを引き千切りながら両手で頭の上に掲げる。


「――っ、課長!?」


 いくらムカついたからといって、まさか本気で会社の備品であるプリンターを投げるはずないよな。と思うが、


「俺は、無能じゃねえええええええええええええええええええぇぇぇぇっ!!」


 信じられないことに、課長は状況を見守る企画経営部の者たちへプリンターを思いっきり投げつけたのであった。


 その後は、一言で言うと悪夢だった。


 響き渡る女性社員たちの悲鳴、男性社員たちの怒号と課長の取っ組み合いによって、次々と破壊されるオフィス用品の数々。

 最終的には、煙を吹き出したプリンターによってスプリンクラーが作動し、室内のPCが全滅するという最悪の事態となったところで、誰かが通報したのか、血相を変えて飛び込んできた警備員たちの手によって課長が拘束されてようやく事態の収束がついた。

 オフィスは水浸し、俺と泰三は課長の執拗な攻撃によってスーツはボロボロ、大小様々な怪我を負うという散々たる有り様で、後片付けはいいと帰宅を命じられた。

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