第2話 二人称からマイナーイメージ

 女は胸を撫で下ろした。


 これは比喩である。実際に胸を撫で下ろす動きをしたわけではない。

 女は安堵したのである。

 しかし、神の視点を持たない三人称視点で書かれている以上、女が安堵したのかどうかは女自身にしかわからないはずである。それならば、女が安堵したとは書けないのではないか。

 その通りである。正確な表現を心がけるのであれば、女は安堵したようだ、と推測でしか書けない。


 しかしながら、登場人物の内面に触れようとするたびに、たとえば、彼女は思ったようだ、彼女は考えたかもしれない、彼女は見たようにみえる、などと書いていたのでは、文章が冗長になってしまう。

 少し補足しておこう。

 ここでの人物の内面とは、心情だけではなく、知覚や認知も含む。

 たとえば、「見る」という動詞を例に考えてみよう。

 ある女性が赤い郵便ポストに視線を向けている。

 この場合、客観的な視点では、彼女は赤い郵便ポストを見た、とは書けない。

 なぜなら、赤い郵便ポストに視線を向けていたからといって、赤い郵便ポストを見ている(見えている)とは限らず、実際に何を見ているのかは彼女自身にしかわからないからである。

 もしかしたら彼女は、何か考え事をしていて赤く目立つ物ですら目に入っていないかもしれない。あるいは、赤い色眼鏡をかけているせいで赤い物体を知覚できないかもしれない。なぜ赤い色眼鏡をかけているのかと問うことは無意味である。色眼鏡の色が何色であろうとそれは本人の自由なのだから、色眼鏡の色が赤色であってもよいではないか。ちなみに、ここで言われている色眼鏡の色とはフレームの色のことではない。レンズの色のことである。


 三人称視点で書かれる一般的な小説においては、登場人物の内面に触れる際、冗長さを排除するために二つの手法が用いられる。

 一つは、神の視点を介在させる書き方。

 つまり、心理や認知といった登場人物の内面に関しては、見た、聞いた、感じた、思った、考えた、等と客観的な視点であっても断言してよい、というスタンスの書き方である。

 もう一つは、内面を描きたい登場人物に視点を置く書き方。

 つまり、三人称視点でありながら、ある人物に視点を置くことで、あたかもその人物の一人称視点であるかのように、視点を置いた人物の内面を描くのである。


 この小説は神の視点をなるべく排除しようという意図を持って書かれているので、この小説においては必然的に後者の方法をとることになる。


 話を戻そう。

 女は胸を撫で下ろした。つまり、女は安堵した。


 ここで、このように書かれていることによって、視点は女に移ったことがわかる。なぜなら、女が安堵したかどうかは彼女自身にしかわからず、かつ、神の視点ではないのだから、女は安堵したと断言しているということそれ自体が、視点は女にあるということに他ならないからだ。

 逆に言えば、神の視点を採用しない以上、三人称視点では、誰かに視点を移すことなく誰かの内面を断言することはできない、と言える。つまるところ、純粋な客観視点では、誰かの内面は推し量ることしかできないのである。


 話を戻そう。

 女は胸を撫で下ろした。つまり、女は安心した。


 このように、視点がある人物に移ったことを示唆する文言を、便宜的にサインと呼ぶことにしよう。

 このようなサインがあるかどうかは非常に重要である。なぜなら、今現在どこに視点があるのかを明確にすることで、読み手にとっての負担を軽減できるからだ。

 しかしながら、視点の在りかを示すのに便利だからといって、このようなサインを多用してはならない。このようなサインを多用しているということは、つまるところ視点が頻繁に移動しているということに他ならないからである。

 視点を行ったり来たりさせてしまうと、その小説は読みにくいものとなる。少なくとも、視点が頻繁に移動することで読みやすくなることはない。ここまでこの小説を読まれた方には既におわかりのことであろう。


 今度こそ本当に話を戻そう。


 女は胸を撫で下ろした。

 よかった、と女は思った。

 揺れがおさまったわ。今日も巨大なヒーローは勝ったのよ。巨大な怪獣を倒してくれたんだわ。地球の平和は守られた。それはつまり、あの人が今日も無事に帰ってくるということ。ああ、本当によかったわ。

 女は、向かいに座る男の顔に視線を向けた。水鉄砲で狙われたハトのような表情がそこにはあった。

 ああ、それほどまでに恐かったのね、と女は思った。でも、もう大丈夫よ。だって巨大なヒーローは今日も勝ったんですもの。

 女は微笑んだ。男を安心させようとするかのように。


 よかったと思ったのは女だけではあるまい。読者の方もそう思われたのではないだろうか。ようやく物語が進んでよかった、と。

 しかしながら、女の推論はその過程が省略されていて多少わかりにくいかもしれない。少し補足しておきたい。

 せっかく進んだ話の腰を折って恐縮ではあるが。


 部屋が揺れていた原因は、巨大なヒーローが巨大な怪獣と戦っていたからだ、と女は考えていたようだ。

 そして、揺れはおさまった。そのことで、巨大なヒーローが勝ったと女は結論づけた。

 なぜ、女は、揺れがおさまったことにより、巨大なヒーローが勝ったと断定することができたのか。


 それでは、省略された推論の過程を見てみよう。

 もし、巨大なヒーローではなく巨大な怪獣が勝っていたとしたら、巨大な怪獣が暴れるせいで揺れはまだおさまっていないはずだ。

 もし、巨大な怪獣が勝ったのにもかかわらず巨大な怪獣は暴れないのであれば、つまり、巨大な怪獣が無害であるならば、そもそも巨大なヒーローは巨大な怪獣と戦う必要がなかったはずである。

 したがって、揺れがおさまったのであれば、それは暴れる巨大な怪獣がいなくなったからであり、それはすなわち巨大な怪獣と戦っていた巨大なヒーローが巨大な怪獣を倒したことを意味する。


 このような推論によって、揺れがおさまった、すなわち巨大なヒーローが勝った、と女は断定できたのであろうと推測できる。


 水鉄砲で狙われたハトのようだと女に思われた、その男はどう思っていたのであろうか。

 女が考えたように、男は巨大な怪獣を恐がっていたのだろうか。

 それではここで、男の心情に触れるために、視点を男に移してみよう。


 男は胸を撫で下ろした。

 これは比喩ではない。実際に胸を撫で下ろす動きをしたのである。

 よかった、と男は思った。

 ようやく女の貧乏揺すりが止まった。いつもいつも、女が貧乏揺すりをするたびに、地震が発生したかのように部屋が揺れる。そのことを思うと全身に悪寒が走る。

 男は軽く身震いをした。

 恐ろしい、と男は思った。

 コンクリートの建物を揺さぶる女の脚力には毎度のことながら驚き、恐怖を感じる。今しがたもその恐怖の感情が表情に出ていたかもしれない。女に変に思われたかもしれない。

 男は、すぐに平坦な表情に戻したつもりでいた。

 女は男の顔を見て笑っていた。

 もしかしたら、と男は思う。豆腐の角が頭にぶつかったような顔だと思われてしまったのではないか、と。


 さて、視点を男から戻そう。

 部屋が揺れていた原因が何であったのかを、ここではこれ以上追及しない。

 なぜならば、揺れていた原因はこの小説において重要ではないからだ。

 重要なのはクッキーである。

 覚えておられるだろうか。部屋が揺れたことで、クッキーの山が崩れたことを。

 もしかしたらお忘れになっていたかもしれないが、忘れていたとしてもそのことを気に病む必要はない。読者の方に非はないのだから。

 悪いのは頻繁に脱線するこの小説であり、脱線が繰り返されることにより本筋を見失ったとしても、それは必然の帰結といえよう。

 諸悪の根源は、頻繁に脱線を繰り返すこの小説なのだ。


 話は変わるが、ここまで動きのない小説も珍しいのではないだろうか。

 ここまで約六千文字を費やして、誰ひとり一歩も動いていない。これは比喩ではない。本当に文字通り一歩も動いていないのである。

 物語の進行としては、せいぜい女が腕を伸ばしただけであり、その移動距離、僅かに30センチ。

 センチとはcm(センチメートル)のことである。

 もっと正確に言えば、30cmではなく44cmである。

 しかしながら、44cmだと、言葉のリズムがあまりよろしくない。

 小説なのだから、多少の誤差は許容範囲であろう。

 44cmを30センチと書いても問題はないはずだ。

 それならば、ここではリズムを優先したい。


 声に出して読み比べてみれば、リズムを優先するという意味がおわかりいただけるのではないだろうか。

 実際に音読してみていただきたい。


「サンジュッセンチ」

「ヨウジュウヨンセンチメートル」


 いかがであろうか。

 その声に反応して、近くで寝ていた猫の耳がぴくぴくと動いたかもしれない。

 寝ている猫を起こしてはいけない。

 近くで猫が寝ている時は、静かに読んでください。


 宙に浮いた状態で静止していた女の腕が、宙に浮かぶ以前の状態へ、すなわちもともとあった場所(ティーカップの近く)へと引き返した。

 その移動距離、30センチ。

 この小説における、これまでの総移動距離、60センチ。

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