第1話 三人称からマイナスイオン
リズムを刻めば、紅茶は揺れる。
紅茶の入ったティーカップからは、テーブルを揺らすリズムとは無関係ですよと言わんばかりに、そろそろと湯気が立ち昇っていた。
男がまだ幼なかった頃に、食事中に貧乏揺すりをしてはいけない、と祖母から教わったことを、男はふと思い出したようだ。
このように書かれてあれば、男が貧乏揺すりをしているから紅茶は揺れているのだなと、そう思われることであろう。
しかし、男は貧乏揺すりをしていない。
唐突であるが、この小説は三人称視点で書かれている。
さらに言えば、客観的な視点を保つために、神の視点を極力排除して書かれている。
食事中に貧乏揺すりをしていないのならば、男は祖母の言いつけをしっかりと守ったのであろうと推測することができる。食事中に貧乏揺すりをする癖は子どもの頃に矯正したのかもしれない。
あるいはもしかしたら、今はたまたま貧乏揺すりをしていないだけなのかもしれない。
実際のところどうなのかは、男自身にしかわからない。
客観的な視点で見る限り、今はまだ断定できない。
さて、男に向けていた視線を今一度引き戻していただきたい。
もう少し視野を広げて、部屋の様子を見てみよう。
殺風景な部屋である。床も壁も天井も、すべてコンクリートの打ち放しで、壁にはドアが一つある。
天井には裸電球がぶら下がっている。電球の明かりは点いているが、部屋の中は薄暗い。
部屋の中央、裸電球の下には木製のテーブルが一つあり、そのテーブルを挟んで木製の椅子が二つあった。
それぞれの椅子に、男と女が一人ずつ座っていた。
このように書かれてあると、賢明な読者の方の中には、現時点で(つまり描写されている範囲内において)部屋の中には四人の人物がいる可能性があると解釈される方もいらっしゃるであろう。
椅子が二つあって、そのそれぞれに男と女が一人ずつ座っているということは、一つの椅子に男女がペアで座っていて、それが二組だから四人いる、という解釈である。
誤解のないように明言しておこう。一つの椅子に一人だ。つまり、部屋の中にいるのは、男が一人、女が一人の計二人である。その二人以外には、部屋の中には他の人間は誰もいない。
しかしながら、部屋の中にいる人数にたいした意味はない。
三人でも四人でもいいのだが、人数が増えると誰が誰であったかを明確にするために、なんらかの指標が必要になってくる。その指標とは多くの場合、名前である。
換言すれば、登場人物の人数が増えると、名前がなければややこしくて理解できない文章になりかねない、ということである。
登場人物が二人しかいない現段階で、この小説の文章は既にややこしいかもしれないが、それはまた別のややこしさであり、この小説の特徴でもあるので、できることならば慣れていただきたい、と、この小説の書き手は願っているのではなかろうか。
今のところ、彼ら二人に名前はない。男を男と、女を女と識別できるうちは、名前は必要ないであろう。この先もし必要になるようなことがあれば、その時に考えればよい。
テーブルの上には紅茶の入ったティーカップが二つある。男の前に一つと、女の前に一つ。
カップの他にも、テーブルの中央には大きなお皿があり、お皿にはクッキーが盛られていた。
女の手がクッキーに近づいていく。
しかし、その手はクッキーに到達する直前で止まった。その手の持ち主(女)が、その手の動きを強制的に止めたように見受けられる。
もう既にお気づきのことと思われるが、冒頭から非常に回りくどい書き方になっている。しかし、この文章を書いている者も、好きで回りくどい文章を書いているわけではあるまい。やむをえず、このような書き方になっているのであろうと思われる。
三人称視点で書いている以上、「女が手の動きを止めた」とは書けない。なぜなら、女が手の動きを止めたかどうかは、その女自身にしかわかりえないからだ。
超自然的な力で何者かが遠くから女の動きを止めたのかもしれない。姿の見えない何者かがそこにいて女の手を摑んで止めたのかもしれない。
これら「女は女自身の手の動きを女自身の意志では止めなかった」可能性が存在する以上、客観的な視点では「女が手の動きを止めた」と断言することはできないのである。
しかしながら、三人称視点ではあっても、断言できないはずの人物の内面を断定して書く方法は存在する。
登場人物に視点を置いて、一人称視点に近い三人称視点にするのである。そうすることで、あたかも一人称視点であるかのように、視点を持つその人物の内面を描くことができる。と、一般的には考えられている。
この小説の場合であれば、現時点で登場人物とは男か女のどちらかである。
このように書かれてあれば、今から男か女に視点を移して、その人物の視点で物語が進んでいくのだなと思われることであろう。
しかし、視点を移す先は男でも女でもない。クッキーである。
それでは、クッキーの盛られたお皿の中に視点を移そう。
クッキーの山の中にカメラがあって、そのカメラから男と女を見ている、そんなイメージを思い描いていただきたい。
ちなみに、一つのカメラで男と女を交互に見てもよいし、二つのカメラで男と女を同時に見てもよい。それ以外のイメージであっても、お好きなように思い描いていただいてかまわない。
クッキーに迫っていた女の手が震えている。
いや、震えているのはクッキーだ。
さらに正確に言えば、震えているのは、クッキーの盛られたお皿であり、お皿の載っているテーブルであり、テーブルの脚が接地しているコンクリートの床である。
クッキーとともに視点が震えながら少しずつずれていく。クッキーの山が振動で崩れつつあるのだ。
振動の原因は男の貧乏揺すりではない。
それならばと、賢明な読者の方は推測されるのではないだろうか。
貧乏揺すりをしているのは女であろう、と。
言葉の印象とは不思議なもので、誰かが貧乏揺すりをしているなどとはひと言も書かれていないのに、「貧乏揺すり」という言葉の印象が残るせいで、誰かが貧乏揺すりをしている場面を想像してしまうのである。
このように書かれてあれば、なるほど、誰も貧乏揺すりをしていないのだな、と解釈するのが素直な読者である。
なるほど、そう書いておいて実は女が貧乏揺すりをしているのだな、と解釈するのがミステリー好きである。
女は貧乏揺すりをしていない、とはひと言も書かれておらず、なおかつ、女は貧乏揺すりをしていないかのように印象を誘導しているように思えなくもない。このことから、その裏を読もうとして、女は貧乏揺すりをしているのであろうと推測してしまうのだ。
このような読み方をしてしまうのは、ミステリー好きにとっての習性であり、むしろ素直に読んでは逆に申し訳ないと思っているかのような節も彼ら彼女らには見受けられる。
しかしながら、誰かが貧乏揺すりをしているとかいないとか、そんなことを気にしてはいけない。瑣末な問題である。どちらでもよいではないか。
なぜなら、貧乏揺すりをしていようがしていまいが、部屋の振動と関係があるとは思えないからだ。考えてみていただきたい。コンクリートの床である。誰かが貧乏揺すりをしたからといって、クッキーの山が崩れるほどテーブルが揺れるだろうか。もしかしたら揺れるのかもしれないが、話を進めるために揺れないということにしておこう。
部屋が揺れている原因は、地震である。
ここで、鋭い読者の方は疑問に思うであろう。三人称視点、特に神の視点が介在しない純粋な客観視点であるはずなのに、「地震である」と断言していいのか、と。
簡潔に答えるならば、「否」である。地震であると断言することはできない。
近所で工事をしているせいで揺れているのかもしれない。近くで爆弾が爆発したせいで揺れたのかもしれない。すぐそこで巨大なヒーローが巨大な怪獣と戦っているから揺れているのかもしれない。
地震であると断言するためには、それら地震ではない可能性がすべて除外されている必要がある。
「地震である」という文言を三人称視点で正確に書くのであれば、「地震のようだ」と推測であることを明確にしなければならない。
さて、崩れたクッキーの山から視点を戻そう。
室内の様子を眺められる位置に視点があると思っていただきたい。
部屋が揺れていた。
地震のようだ。
しばらくすると、揺れは止まった。
女の貧乏揺すりも止まっていた。
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