風見の少女

明日見 慧

風見の少女

 記憶は夢と同じだ。美しい記憶ほど空を舞うシャボン玉のように、そこはかとなく色づいて、それ自身が意思を持っているかのように、ただ風の向くままに漂い続ける。

 いつまでも僕の傍にいて欲しい。でもそれは出来ない、と言うかのように、僕の心を撫でるようにすり抜けていくのが切ない。指で触れた瞬間に跡形もなく消えてしまうのが分かっているから、触れたくても触れられない。二度と戻れない日々を象徴するかのように、それは僕の心の隙間に現れては、儚く消えていく。

 あの頃に戻れないことはもう知っているのに、同じことをもう何度思ったことか。だが、その諦めの中に残った淡い期待すら見透かされているようだ。あの頃はもう戻らないのよ、とどこからともなく一番大切な子の声がまた聞こえる。すると、そのシャボン玉は、それ自身が意思を持っているかのように、またどこからともなく現れる。

 生きるということは、このいつ割れるとも知れないシャボン玉を抱えて、二重の時を重ねていくことではないかと、いつしか思うようになった。

 このシャボン玉を、心の灯を消さないようにただ静かに、守り、慈しんでいく行為だけが僕を大人にするだろう。

 なぜなら、あの子もきっとこの世界のどこかで、そうしているはずだから。


 限りなく透明に近いシャボン玉の鏡面には僕の顔が映る。影のような小さく黒い顔の周りを虹色の光が取り巻く。水たまりの中の油が日に照らされた時にも同じ虹光が宿ることを、僕はある女の子に教えてもらった。


 アメリカという単語を聞くと、すぐにあの子の顔が浮かぶ。あの国の本質を若くして知って、それを十字架のように背負って生きてきた子だった。なぜ彼女がそうしなければならなかったのか、誰も本当の意味で答えられる人間はいない。

 彼女は自由の国アメリカというフレーズと、自身が結び付くのを嫌がるに違いない。だが、彼女は僕にとって、間違いなくアメリカの光を象徴する存在だった。僕は彼女に出会わなければ、あの国を未来永劫嫌いになっていたと、今でも断言できる。

 シンディという名で、高2の時に、留学先のテキサスで出会った。南部有数の大都市・サンアントニオ郊外のバンデラという町の外れだった。

 17歳の僕より一回り背が低くて、ブラウンの髪をポニーテールにしていた。僕がホームステイした家の隣の農場で、住み込みで働いていた。いつもネルシャツとジーンズというボーイッシュな恰好で、地元の学校に通いながら牧場の仕事をしていた。若くして苦労していたことは明らかだったが、その苦しみを無抵抗な他者にぶつけるような卑屈な残酷さはなかった。ありていの表現になるが、人の痛みが分かる子だった。笑うと眉が下がる癖があって、指摘したら「ジュンも同じよ」と言ってはにかんでいた。


 間違いなくアメリカ人だったが、ものの見方に多国籍な所があり、常に傍らにある自然に人格を見出しているようだった。そして自然の摂理を理解し、自然に向けるのと同じ眼差しを、他人にも向けられる、葦のような芯の強さがあった。


 当時の僕のアメリカ留学のピークは、アメリカに入国して、空港に降り立った瞬間だった。ホストファミリーは、最初の車の中でこそ僕を歓迎して、あれこれ話しかけてきたが、次第に満足に意思疎通が出来ない外人の僕を持て余し始めた。英語が出来ないなら出来ないなりにピエロになって立ち回れば良かったのかもしれない。だが、あの当時、僕は異国でパニックを起こしていて、そんな風に器用に振舞える余裕は無かった。こちらが意思疎通を図ろうとしても、顔を背けられる。何か喋ればあざ笑われる。買ったことを後悔しているペットのような扱いだった。衣食住を握られているという負い目の中で、機械的に口に入れる食事の時間が一番辛かった。言葉が通じなくても仕草で見下されている雰囲気が伝わる分、ひどく堪えた。

 日本で英語を熱心に勉強はして来たのだが、ベクトルがずれていた。ネイティブが話す英語は早すぎて、まず耳がついて行かない。3回聞き返しても簡単な単語一つ拾えなかった。費用面で語学学校に通うことは諦めたから、現地の自習で賄うしかなかったというのも、悩みが深まる一因だった。選択を誤った自分が悪いのだと思いながら、3か月間のホームステイの終わりを、割り当てられた部屋で忍ぶように待っていた。


 耐え忍んでさえいれば終わりは来るに違いなかった。だが希望を持って海外にやって来たのに、実際は日本で引きこもっているのと変わらない。そう思うと悲惨な現実に押し潰されそうで、行き場のない焦燥感に苛まれていった。

 自室のカーテンは閉め切ったままだった。だが、それでも日は昇るという現実に耐えきれなくなった。ある日の夕方、どんな形でもいいからささくれ立った心を宥めたくなり、ホストファミリーが出かけた隙を突いて、家を飛び出した。


 9月の刈り入れの季節で、辺り一面の草は刈られていた。牧草地ゆえに、視界を遮るものは何もなかった。

 暮れなずむ色に変わった畑に、本物の沈みかけの夕日の色がちょうど重なる頃合いだった。巨大なオレンジ色の絨毯が広がる光景は良く言えば牧歌的、悪く言えば無神経に思えた。日本の僕の田舎でも秋には米の収穫で似たような光景が展開される。スケール違いの間延びした既視感に懐かしさを覚えたものの、歯車が狂った今では、いつの間にか景色の方がよそよそしくなったようにも思えた。

 初日に車から降り立った頃は素直に驚けていたはずなのに。

 染み入るような孤独に夕の底冷えが重なっていく。

 着古したカーゴパンツのポケットには単語帳をいつも入れていた。心が不安定になりそうな時は、取り出して安定剤代わりに眺めていた。がむしゃらな勉強は無意味だと、分かっているはずなのに、僕はまだ英語を話せさえすれば何事も無かったかのように歯車が動き出すという甘い幻想を捨て切れていなかった。

 初日に憧れの目を向けた干し草の山のふもとにもたれると、どこか気だるく香ばしい干し草の香りが僕を包んだ。震える指先で単語帳を取り出し、めくった。ごわついた紙質が日本の教室の蛍光灯に照らされたノートのものとそっくり同じであることに気づいた。不意に現実のものとなった、あの突き刺さるような白さに心をえぐられるような痛みを覚え、涙がこぼれそうになった。


 突然、後ろから声がした。はっと振り返ると、女の子がいた。

 赤いネルシャツに水色のジーンズの外国人の女の子だった。


 嫌な予感がした。


 異性の子が僕に話しかける時は、向こうに何らかのメリットがある時だ。事務的な用か、あるいは彼女達の自尊心を安全に満たすためのからかい相手か。この手のことは万国共通の暗黙知で、だからこそ僕らははったりでも、出来るだけ気弱ではないように振舞わなければいけないのだった。

 右手には干し草を集めるフォークのような農具を持っていた。「Job」という単語が聞き取れた時、憶測が確信に変わった。


 ……ああ、ここでも邪魔をしてしまったみたいだ。


 度重なる自分の失態に眩暈を覚えた。居たたまれなくなって、俯いて「Sorry.」と言い、身を起こして歩き出した。声が小さかったからか、発音が悪かったからなのか、不意に目が合った時に怯えと困惑の混ざったような目をされた。本当に俺は、アメリカまでやって来て、こんな外国の見知らぬ女の子にまで迷惑かけて、何してる?頭を掻きむしりたくなった。見知らぬ女の子の怯えた目が網膜を通して頭の中に入り込んで来た。浮かんでは消える負の残像。このフラッシュバックはいつまで続くのか。自明だった。他の同じような残像と混在する形で、永遠に続く。僕は内心叫びたかった。ああ、もう嫌だ。もううんざりだ。

 しばらくすると、「It's OK.」という声が追いかけてきた。戸惑いの混じった声ではあった。が、今まで聞いたことがないほど柔らかな声だった。話し相手を労わっていることが声の響きに現れているようだったから、無視出来ず、僕は思わず立ち止まった。頭の中でうごめきつつあった彼女の黒い影は、動揺に紛れてかき消えてしまった。が、それでも居たたまれなさは消えなかったから、バツが悪くなってそのまま走り去ろうとすると、「私はシンディ!」と叫ぶ声がした。間髪入れずの「あなた名前は何て言うの?」という声が、僕の正面に躍り出た。堪らず振り向くとシンディが数メートル後ろに立っていた。僕と同じように肩で息をしながら、声と同じ澄んだ目で、まっすぐに僕を見つめていた。先程と同じ怯えが目には宿っていたが、それを打ち消すかのように彼女は頷いた。


 シンディはノートを使いながら会話したいという僕の奇妙な提案を受け入れてくれた。何の他意も感じられない「Sure.」を聞いたのは、あれが初めてだった。


 シンディとは色々な話をした。夕暮れ時に僕達は干し草の上で待ち合わせた。彼女はいつも手に何かしらの仕事道具を持っていた。僕らの他にはたまの放牧中の牛を除いては何の目も無く、彼女はいつも一人きりだった。

 僕は彼女の話す英語が好きだった。優しさが滲み出ているようで、目を閉じて聞くと妙に安心するのだ。私がおしゃべりじゃないのは、引っ越しが多かったからよ。そんなことを言われた日もあった。僕の貧相な英語の方が聞くに堪えないものだったろうに。でも今だから言える。自分の声が、彼女の耳にも同じように聞こえていればいいと、あの頃の僕は思っていた。


 シンディの家族は日本で働いたことがあった。


 いつか日本に行ってみたいけれど、ここの生活があるからたぶん行けないわ。

 ジュンは、色々な所に行けるからいいわね。


 そんなことを言われたから、僕はムキになって日本のことをたくさん話した。日本の歴史、文化、習慣、そしてその中で暮らすのがどういうことかということも。彼女も自分のことを話してくれた。僕に対抗していたのか、僕に合わせてくれていたのかは分からない。でも彼女は話し終わった後で、楽しかった、と言った。


 私も学校は嫌いよ。言葉が分かるけど嫌いよ。でも、行かなきゃいけないから、朝学校に着いたら、終わるまで心の中でカウントダウンしているの。


 シンディの悩みは、僕には体験不可能だ。僕に分かるのは、僕が分からないほど深い所にある悩みだということだけだ。そういう悩みを安易に分かると言ってはいけない。でもなぜなのか、あの時は僕の方も、深さは違えど同じサバイバーだということを、話さずにはいられなかった。

 この行為は彼女を傷つけただろう。でも言わずにはいられなかった。それが僕の弱さだとしても。僕は自分を止められなかった。


 憎んで憎み切った後に、相手を赦すことにしているの、とシンディは言った。


 そうしないと自分が辛いでしょう?

 でも赦したということは自分の心の中だけにしまっておくの。

 …ここが大事ね。

 辛くて朝起きられないと思う時もある。自分が心の病気みたいになっていると思うこともある。でもそれを認めてしまったら、私の場合は誰も助けてくれないから、病気じゃないって思うことにしているの。そうやって自分を励ましているのよ。

 支えてくれる人達に囲まれているように見えても、実際は一人なんて良くある話。そうよね。

 でも。

 自分を勇気づけるような笑みを作って、彼女は「I will.」と呟いた。澄んだ空気の中に言葉が溶けて、消えた。まるで彼女の存在がこの空気の中に溶けていくような感覚を覚えた。

 錯覚だと疑うことすら忘れ、心の底からありのままを信じてしまいたいという気持ちがただ沸き起こった。

 外国人と話す時は必ず目を見て話す。常に守り続けてきたルールがこの瞬間に、僕の頭から消し飛んでしまった。僕はそれ以降、彼女の目をまともに見ることが出来なくなった。


 ジュンはやっぱりシャイね。目を見て話してくれなくなった。


 シンディは僕の変化に目ざとく気づいた。でも、困り顔で笑う彼女には、どんなけん制も、理屈も、敵わないように思えた。


 僕は白状した。


 日本にいた時からそうなんだ。目を見ると人の気持ちが流れ込んでくるから嫌なんだ。知りたくないことも全部分かってしまうから嫌なんだ。


 しばらくの沈黙の後で、分かるわ、と言われた。


 でも人間は神様じゃないから、その人の心の全てはパーフェクトには分からないでしょう。だったらその人、誤解されたままでいるのも辛いかもね。

 例えば私の心がジュンに誤解されたままだとしたら、辛いわ。

 ……今は、そうじゃないことが分かるけど。

 

 Friend、という言葉が、耳の奥にいつまでも残った。

 僕はその言葉を、気に留めていない振りをして過ごした。


 日本に立つ前日、彼女は僕のノートを貸してくれ、と言った。彼女は何かを熱心に書き綴っていた。すぐに読もうとすると、まだだめよ、と両手でノートを挟んだ。


 ジュンと話していると、日本を旅しているような気になった。海の向こうにあなたと共に考え、悩みながら生きる、私という人間がいることを忘れないで。

 そんなことが書いてあった。


 帰国してからの僕の生活は、相変わらず酷いもので、何も変わっていなかった。

 シンディ、こんな日本は見ちゃだめだ。

もし日本に来たら、僕が責任を持って、すてきな所ばっかり連れて行ってあげるよ。

 そんなことを思った。何度も何度も。

 いつの間にか、僕の左側にはシンディの幻影がいた。

 良く笑う白い影。時折味方よ、と透明な手が重なる。

 特に英語を勉強している時は、シンディに守られている気がした。

 どんな酷いことをされた日も。


 僕は願った。どうかシンディの傍にも僕の幻影があるように。

 僕の影も彼女に対して、常に朗らかであるように。


 手紙を送ってみたが、返事は来なかった。


 就職してからは仕事に追われて、Googleマップで旅行するのが精一杯になった。

 懐かしい場所を画面上で見ては、束の間の旅行気分を味わっていた。

 僕の傍らにはまだシンディがいた。だけど、それでも、寂しかった。

 今の僕の姿を見たら、本当のシンディはどう思うだろうか。きっと、ジュンらしくない、随分背伸びをしてるのね、と言うだろう。

 実際そうだった。でも、僕の傍らにはいつもシンディの姿があった。唯一の味方だった彼女が常に傍らにあったから、僕はなんとかやれていた。


 そんな日々の中で、画面越しにあれを見た。


 シンディの住んでいた家の前の『FOR SALE』の看板。

 その下に添えられた「See you.」と、ペンキが垂れたスマイリーフェイス。

 

 それはシンディが別れ際に見せた表情そのものだった。


 こんな形でしか、本心を知れないなんて。


 僕は笑った。これを本当の冗談にするために。

 軽く乾いた笑いが、ひび割れていた心に染み渡った。


 俯いて拳を握った後で、最高のジョークだったよ、と念押しに呟いた。

 傍らの彼女が霧に溶けていくのを、目を逸らして待った。

 待ちながら、こういう嘘ばかり上手くなる、と思った。

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風見の少女 明日見 慧 @bacd

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