第4話  ある男の独白 ―希望―

 ラプラスの悪魔は創れるのか。

 その命題に人生を捧げた男。彼は幼少より神童と呼ばれ、青年となった頃には、既に多くの革新的理論を世に示していた。彼は偉人達が成し遂げることのできなかった栄光を掴むという野望を胸に抱き、その力が己にはあると信じて疑わなかった。

 かつてアインシュタインが打ち出した相対性理論は時間と空間に対する概念を一遍させ、人々に半永久的な資源という夢と自らを一瞬にして滅ぼす兵器という恐怖をもたらした。しかしその本質は世界の三要素である、物質・力・時空を結びつけたことにある。

 人類に希望を不安を同時に与えた原子力の存在は、物質と力が等価であることを示している。重力により時空が曲がるという結論は、時空と重力が結びついているが故だ。これは世界を構成する三要素を全て内包しており、重力に限定された神の数式に他ならない。アインシュタインの真の偉業はすなわち、ラプラスの悪魔に骨格を与えたことである。

 それを完全なものとするためには重力だけでなく、世界に存在する四種類の力、重力・電磁気力・強い力・弱い力を統合した“万物の理論”を相対性理論に当て嵌めれば良い。

 重力と電磁気力は巨視的領域で支配的であるが、強い力と弱い力は微視的領域においてのみ作用する。天体規模のマクロ世界は相対性理論にて記述されるが、原子よりもさらに細かな素粒子が振る舞うミクロの世界は素粒子物理学にて扱われる。両者には越えられぬ不連続があり、異なった物理法則が支配しているようにすら見える。

 全ての力を統一することは素粒子から宇宙までを扱うことのできる式を立てることを意味し、そのための鍵となるのが宇宙創成に関する理論であった。

 かつて宇宙は無限小の一点であったとするビックバン理論。急激な膨張が始まった瞬間からプランク時間までの期間において、その極小さな宇宙では力は一つ、“神の力”のみであった。それが時間を経るに伴い分化し、四つに分たれた。一千億光年まで膨張した宇宙を、百四十億年の時を遡り一点へ戻す時。力は統一され“神の力”となる。それを相対性理論に当て嵌めることで人類はラプラスの悪魔、すなわち“神の数式”出会う。

 だが力を原始の姿に戻すには無限という壁が立ちはだかる。時間を遡行するに従い宇宙は小さく、かつ灼熱の高エネルギー状態へと戻っていく。それを無限小点にまで推し進めればエネルギーは無限大へ発散してしまう。無限は実験することはおろか、計算することもできない人類とっての限界である。それは登るに従って切り立っていく、無限の高さの山を登坂することに等しい。彼の研究は完全に行き詰っていた。

 それでも彼がすることは唯一つ。命を削ってでも真理を目指す、それだけだった。無限を超えるための手法を日夜悩み続ける彼に一つの天啓が訪れる。それは神の采配か。あるいは命を代償として望みを叶える魔物の仕業であったか。無限を突破するための閃きは高等数学における代数論にあった。

  1+2+3+4+・・・=―1/12

 自然数の総和が負の数となると示すこの式。それは複素数空間に拡張されたゼータ関数から導かれる解答である。X―Y平面では無限に発散してしまい計算不可能なものであれ、実数平面に虚数軸を交えた複素数空間では、無限の山を虚数側から回り込むことができる。それにより峰を越えた反対側への到達だけでなく、山全体について記述することができる。

 宇宙の時間を逆行してゆくと立ちはだかる無限の壁。それを新たな『軸』を導入することで無限の向こう側まで到達し、世界の完全な姿を定式化する。すなわち宇宙の誕生前もを包括した神を超えた存在、『魔王』を創り出す。

 この閃きは、彼の心に熱を蘇らせた。研究者のモチベーションは、単純明快である。社会の役に立ちそうにない研究や、理解できない研究をしている者に対し、人々は何が面白いのかと首をかしげるだろう。きっと複雑な動機があるのだろうと考える。しかしそれは、全くの誤りである。

 研究とは絵画を描くことに近い。データという絵具を、理論という筆を用いて塗る。それが何の齟齬も空白もなくキャンパス一面を埋めた時。完成した絵画は自然界の調和という人の手では現すことのできない、神の業による美しさを備えている。

 己以外には描けない絵画を描ききった時の高揚、すなわち自然界の法則の美しさを理論に込める事こそが研究者たちの原点となっている。

 彼は自らのキャンパスに欠けていたひと筆、新たな『軸』という手法を考え出した。それに対応する何かを現実世界に見出せば、彼の絵画は完成する。しかし、その色が分からなかった。どんなデータ、絵具を用いれば良いのだろうか。これまで誰も考えつかなかった『軸』はどんな事象に対応しているのだろうか。あと一歩まで届いていた。最後の謎へ挑む情熱は彼の身を焦がしていた。

 彼は全てを賭して、『軸』の創世に挑んだ。日の光に曝されず、室内照明とPCのブルーライトを浴び続けたためか、まるで保護色のように顔は青白い。色素を残すのはぼさぼさになった黒髪と、挫けることを知らぬ情熱を宿した黒い瞳。全ての時間を思考し、ひたすらに研究に励む。

 この方向性が正しいかは分からない。だが確実に美しい。物質・力・時空を束ね、実数という実在と虚数という非実在までも結びつけ、さらにこの宇宙誕生前の世界についても記述する。まさしく『魔王』の名を冠するにふさわしい。研究者としての嗅覚、芸術家の審美眼に通ずる感覚は、己の道に間違いは無いと告げている。

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