第6話 地下室の鬼
怪物の背は天井まであった。赤い髪が長く床まで届いていてそれが顔を隠していた。しかし目がはっきりと光っているのが分かる。
肩辺りであろう位置からは細く長い腕が伸び、しかし手掌はとても大きく不釣り合いに指が細く長い。
身体は瞬くように、時たま部屋の奥が少し透けて見える。そして額から一本の角が生えている。
「鬼だ… 」安国会長は先程までの勢いを無くしている。
空気が漏れている口部分から、夏なのに白い湯気がみえる。呼吸に合わせて大きく体がきしむようだが、動いてこない。
こちらを伺っているのだろうか、お互いに動かないでいると、鬼は口を大きく開けた。
鬼が叫んだ。音量は高くない。しかし空気の振動が少ないにも関わらず耳をふさぎたくなるような痛みに襲われた。
鬼は叫び終わると、また体をきしませた。僕は藤橋の方を見た。彼もこちらに気付いた。
「どういう事なのだ」鬼を刺激しない様に会長が落ち着いた声で藤橋を問い質す。
「この部屋の奥に大きな酸素カプセルみたいな物があって、いいとこ見せようとして無理やりこじ開けたら… 」
「アレが出た訳、か」会長は鬼を見たまますり足で布藤さんの方へ近づく
「あいつが何もしてこないけど興奮してるみたいで、安田先輩が落ちていた椅子で殴ろうとしたら」
「藤橋、取り合えず深呼吸して」僕は彼を見て息を深く吸う。藤橋もそれにならった。
おおかた安田先輩はあの手で薙ぎ払われたのだろう。痛そうにしているが、起き上がろうとしている様だ。
鬼が大きく息を吸った。そして叫んだ。
「ニクイ、ニクイィ、ワタシをこうしたアナタがニクイィィ」先ほどの咆哮ほどではないが耳を抑える。空気の振動で音を発しているのではないように感じるが原理など到底わからない。
「私をこうした… ? 」布藤さんから微かな声が漏れる
「殴ったのは悪かったけど、俺たちじゃないよ」
「アアアアアアア」鬼は手を振り回すが周りに何もなく虚空を切る。その手から風圧が発生して会長のカチューシャがずれた。
「もしかして、実験失敗してこうなったのか。そして封印をも解いてしまったのか」会長は鬼から目を離さず、滴る汗を拭った「あれは、院長の奥方かな。角もあってまさに鬼嫁だ」
「安国会長、笑えないです」僕も目を離さずにいた。
また鬼嫁が叫んだ。かなりの痛みに目を閉じて下を向いた。
「ニクイィィィィ」
「田中っ」はっと目を開け、顔を上げると振りかざされた大きな手がこちらに向かっていた。僕は目を閉じた。
鈍い音が聞こえた。すぐ後にすごい風圧が体の左右を抜ける。しかし何も感じない。何かが自分と鬼の間に入ったのだ。目を開けるウェーブのかかった髪の毛が揺れている。
雪ちゃんだ。
間に合わない。あの音に一瞬目を閉じ、鬼嫁の動きを察知出来なかった。軽はずみな行動で後輩たちを危険な所へ連れてきてしまったばかりか、まさに今傷ついてしまう。振り上げたあの手が彼に襲いかかった。
私はそれからの数分間目を閉じられなかった。
手が振り下ろしきる前に一瞬で天辰君が間に入り、両肘を曲げ腕でその大きな手のひらを抑えている。彼女は彼に聞く
「雅人ちゃん、大丈夫と? 」
「うん、大丈夫だよ… 」
「よかったぁ」なぜ天辰君は防げたのか。そう思うのも束の間
「私の旦那さまに何してくれるのよっ」彼女は曲げていた腕と膝を一気に伸ばした。すると鬼嫁ははじかれ、後ろに倒れた。
手のひらの陰から室内蛍光灯の光で天辰君の全身が見て取れる。なんだか少しバンプアップしていないか。ゆとりのあった服たちがすこしパツパツになっている。
しかし一番眼を引かれたのは額の両端からそれぞれ円錐が一本ずつ生えている。
私は情熱で行動を起こすが冷静さを忘れず、常に観察し様々な事案を打破してきた。ただ今回の件にまだ脳の読み込みが完了していない。
私がその白い円錐を呆然と見ていると彼女はこちらに気づき
「あっ、ばれちゃいましたね」と手の甲をおでこに当て笑顔で軽く舌をだした。いわゆるテヘペロのポーズだ。リアルでする人初めてみたわ。と言ったが声が出てなかった。
天辰君は鬼嫁の方を向き
「雅人ちゃん、どうする。私なら簡単にあいつを倒せるとよ」
「いやいいよ。声で分かった。あの人は… 」
「アアアアァァ」鬼嫁が起き上り咆哮する。両手を下に置き、息を整えている様だが明らかに怒りをこちら側に向けている。
私はまだ動けずにいる中、彼が前に踏み出した。
「おばあちゃま、僕だよ。孫の雅人だよ」
「アア… アア… 」鬼嫁の動きが止まりかけ、彼はさらに二歩ほど進む。
「お祖父ちゃまからの贈り物を持ってきたんだよ」
「アアアッ、ニクイ、ニクイ、ニクイ」今まで一番強い咆哮に耳がつんざく。鬼嫁はその場で手を振り回した。
強い風圧だった。私の調査用フリルドレスのスカートの端に亀裂が入った。彼は両肘を頭と体の前で曲げ防ごうとするが頬から血が滴り、歩みも止まってしまった。
地下室の中を風圧と風切り音と物同士がぶつかる音が響く。彼は風に負けそうになる中天辰君の方を向いた。彼女はこの中を直立不動で揺るがない。
「雪ちゃん、おばあちゃまの動きを止められる? 」
「うーん、出来るけどタダじゃなぁ」そう言って体をよじって彼にアピールする。一人だけかなりの余裕があるようだ。
「わかった。今度デートしよう、クレープもご馳走するよ」
「クレープとね。約束と」そう言い彼女はその場で大きく屈伸運動をし、陸上のクラウチングスタートの体勢をとった。彼女は力を込めている。大腿がどんどん太くなりジーパン横にスリットが入る。肩幅も広くパーカーの袖に亀裂が走る。
額にある二本の円錐は少し伸び少しカーブを描く。この筋骨隆々はあの鬼族を思わせる。「いっくぞお」彼女がそう言い、瞬きの間も無くその巨体は直進した。
鬼嫁までおよそ15メートルはあったであろう距離をものすごい勢いで彼女は詰める。それを向い打つ為、鬼嫁は巨大な手を振り上げ下ろした。しかしそれは空ぶった。手が当たる直前、絶妙なタイミングで彼女は床を蹴り、右に飛んで躱した。
そのまま壁面を右足で蹴り、三角形を描くようにし鬼嫁の背後をとった。
「とらえたあぁ」彼女は奴の身体を挟む様に腕を通し手首を持つと、自分の脇を閉めて無理やり鬼嫁の肘を寄せた。そのまま前に倒れこみ、つま先で地面をとらえガッチリと抑え込んだ。
鬼嫁は体をよじるがほとんど動けずにいる。力を込めて立ち上がろうとするが天辰君が胸を身体にしっかりと押しつけ、それをさせない。
田中は、彼はポケットから院長室で見つけた紅い札のついた鍵を取り出した。よく見ると左手には錠のついた小箱を持っている。
「お祖父ちゃまからのプレゼント、開けるね」鍵が錠に差し込まれる。リンと錠が床に落ちる音。私は気づかないうちにそれを見るために彼らに近づいていた。
「おばあちゃまは紅色が好きだったよね」それは赤い宝石。ルビーのついた綺麗な指輪だった。彼はそれを大きな手の細い指に入れる。
「アアァァ、アアァァ」鬼嫁はロックされた体を動かすが私には抵抗しているようには見えなかった。
大きい指の先に指輪が入る。爪で止まる。いや止まらない。第一関節、第二関節と進むにつれ指が、手が人間と同じ大きさに戻ってきている様だった。根元までいき
「いいよ、おばあちゃま」彼が言う
「おおおお」手と指輪を顔の前に持ってきた鬼嫁はそれを見て嗚咽の様な声を出す。反対の手が指輪の入った手の首を持つ。危険は無いと判断したのか、天辰君は拘束を解いている。
鬼嫁は震えながら、泣きながら、体から湯気の様なものが出始め、それが一気に放出された。
湯気との距離がいきなり離れる。天辰君が私と田中を抱えて飛び下がったのだ。彼女に降ろされ奥を見るとそこには優しそうな老婆が一人。その姿を見て私はふと祖母を思い出した。
視界が悪い中雪ちゃんが僕を持ち飛んだ。蒸気がまだ出ているなか、彼女は優しく僕を下ろした。前を見るともやが消え、そこには懐かしい姿があった。
「久しぶりね雅人」空気の振動のようなものは昔聴いた優しい響きだった。
「おばあちゃま、遅くなってごめんね」
「いいのよ。あの人ったら昔からそう、大事なことは後回しで、怖気図いて結局誰かに任すのよ」
「そうなんだ」
「まさか贈り物を孫に託すなんてダメな人」ため息と下を向き、首を振る。言葉では責めているが、気遣いを感じられるトーン。
「その、おばあちゃんは、えっと」おばあちゃまは微笑んだ
「ええ、許せないわ、あの人は。帰ったらたっぷりお説教しなきゃね」
「会えるといいね」
「まだあの人が待っていればね。逃げているかもしれないけど」
「ふふ、おばあちゃんは怒ると怖いもんね」自然と僕にも笑みがでる。
「悪い事しなければ怒りませんよ。おばあちゃんは」気づくとその体からまた湯気が出てきた
「時間のようね。雅人、苦労を掛けたわね」
「ううん。気にしてない」
「全くあの人に爪の赤を煎じて飲ませてやりたいよ」
「ふふ、そんな事… 」僕は下を向いた。これは夢幻と同じなのだ。時間制限など微塵も感じない夢が一瞬で現実に戻る事と同じ。溢れそうな想いを言葉に出来ず終わる。僕は何を言えばいいのだろう。
田中君と老女が話している。あの老女は彼の祖母みたいだ。鬼の状態との落差にいまだに腰が動かずにいる。
会話はかろうじて聞き取れるが顔は見えない。田中君の声が震えている。動いて彼の背中を押してやらねばならないのに。そうこう逡巡しているうちに老女の霊体であろうものはどんどん色を無くしていく。
一瞬の沈黙。それを破ったのは老女の声だった。
「久しぶりね。雪魅ちゃん」老女は天辰君の方を向きはつらつと呼びかける。そして「雅人をよろしくね」
「はいっ。おばあさまっ! 」天辰君は老女に負けじと元気な声で返す。
「元気な子ね」優しい笑み。もう霊体で色を残す部分は胸より上のみだ。
田中君は老女と向き合うが小さく頭を前後に揺らし、声を出そうとするが出来ず、ただ見ているだけだ。
「最後に雅人。貴方は未来にいきなさい。この病院にある多くの過去は私が連れて逝くわ。じゃあね」
「おばあちゃ… 」彼が言い終わる前に老女の色は胸の中心に集まり一つの球となった。それは綺麗な紅色の光を星の様に瞬かせる。
指輪が地面に落ちる音がした。彼は片膝をつきそれを拾い、そのまま胸に当てる。
「へ、なんだ? 」藤橋1回生の気の抜けた声を聞きそちらを向く。部屋中から粒子より大きい丸い光が沸きだし、天井に向かって行く。
「皆、外にでるわよ」私はついに号令をあげる。これはもしかして、いやもしかしなくても初めての光景を見る千載一遇の機会だ。
「天辰君は安田を担いでやってくれ」
「はいっ」大きい女の子は安田のシャツを握り片腕で持ち上げると軽々と肩に乗せた。
「田中っ、シャキッとしろ。おばあ様を見送るよ」田中は頷き立ち上がり駆け出す。
私は夏美の背中をはたいて、藤橋1回生の背中を蹴る。2人は水を打ったように動き部屋の外へ向かう。
先頭の田中は来た階段ではなく、地下室直ぐの扉にむかった。
「皆さんこっちです。ここから駐車場に出れます」扉を開け、階段を登る。私たちもそれに続いた。登りきると自動ドアの少し横に出た。病院に侵入する前1回生たちに鍵が掛っていると報告を受けた場所だった。
正面玄関の外へ出てすこし先へ、そして廃病院へ振り返り見上げる。
そこには白い光を放つ丸い球がたくさん蛍の様に瞬きながらゆらゆらと浮かぶ。紅色の球はそれらの周りを少し速い速度で巡る。だんだんと光の球たちは同じ方向へ円を描き始め真っ直ぐに空へむかって行く。まるで魚群の渦だ。それは私たちを中心に廻っている。
そして先導する二回り大きな紅色の球
「あれはおばあ様って感じがするな」
渦を目で追いかけると廃病院の少し上、空に穴が開いている。魚たちはそこに向かっていく。
「おばあちゃまっ」後輩が声をあげ、右手を伸ばす。その手をあの子が握る。そしてゆっくりと体の横に降ろした。彼もしっかりと握り返している。
あつあつだねえ。そう口から出かけた所で思い留まる。今はそれよりこの神秘的で美しい光景をみていよう。そうしよう。
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