第一章 2.優しい風

「ここどこだ……」


 あまりにも理解が追い付かないこの脳は、時間が止まったかのように停止しかけたが、頭を何度も振り、必死に思考を戻す。


 そしてやっと辺りを見渡した。

 しかし、そこには爽やかなそよ風と共に、草花が優しく揺れているだけだった。


「いおりは……?」


 目の前に生い茂る草を見つめながら、最後にいおりが涙目だったことを思い出す。


「なんで泣いてたんだよ……訳分かんないって……おーーーーい、いおりーー! どこだーー!!」


 草がさらさらと揺れる音だけが聞こえる。


「どうなってんだよー!」


 叫んでも叫んでも、相変わらず誰からも反応がない。


「なんだよここー! どうすりゃいいんだ……」


 とりあえず歩くことにしか浮かばなかった。

 今思い付く方法がそれしかない。


 道中、幾度となく声をこの大草原に投げかけるが、やはり反応はない。

 それにどれだけ見渡しても、人気が全くないのだ。


「誰か、いませんか……」


 ――あれから数時間、途方もなく見渡す限りのこの草原を歩いた。


 上着を脱ぎ、Tシャツ姿となってはいたが、気温はどんどん暑くなっていく。おまけに素足だった。

 まるであの部屋からそのまま飛ばされたかのように。


「暑い……そして一体いつになったらこの景色変わるんだよ……」


 素足で歩き回った敬介の足は、土に汚れ、段々と擦り傷も多くなり、疲れのせいか段々と痛みも出てきた。

 人影や家の形さえなく変わることのないこの景色に段々と不安も覚え、したたり落ちる汗と喉の乾きに、足元もふらつき始めていた。


「あっつぃ……さっきよりやけに温度が上がってないか……きっついぞ、これ……誰かーー! いませんかーー!!」


 力を振り絞り、もう一度大声で叫ぶ。


「誰もいないのかよ……なんだ!?」


 項垂れた瞬間、後ろからとてつもなく速い突風のような風が過ぎ去った気がした。

 振り向くと、今度は頭上で尖った物が素早く通過するものが目に入った。


 「……矢!?」


 そう勘づいた瞬間、草の茂みにダイブするかのように倒れ混み体を隠したが、自分の心臓はパニックと恐怖で今にも爆発しそうだった。


「なんで、矢が飛んでくるんだ……!?」

 

 心臓の鼓動は段々と大きく鳴り響き、身体は小刻みに震え始めた。

 体中から血の気さえも引いているのが分かった。

 恐怖でその場所から動くことさえ出来ない。

 だが、そんな中でも必死に考えを巡らせた。


「冷静になれ、冷静になれオレ………!」


 自分に言い聞かせるように強く連呼しながら、ほふく前進を始めた。


「動け、オレの体動けっ……」


 体が恐怖と緊張で強張って上手く動かせない。

 それでも決死の思いで、とにかく前へ進んだ。


 何分経っただろうか。

 必死に体を運んだ腕はガタガタと震えており、感覚はほとんどない。

 なぜまだ動いているのかさえ分からない程だった。


 全身は土にまみれ、額から流れ落ちる汗に、目の前の視界はぼやけている。喉さえもカラカラだ。

 精神も体さえも追い詰められ、既に体は限界だった。

 もうこれ以上は動けそうにない。


 すると、ふと懐かしく感じる香りが漂ってきた。

 顔を上げると目の前には、風に揺れながら美しく咲く、凛とした紫の花が咲いている。


「ラベンダー……?」


 ――その時だった。


 目の前の花を裂くように、突如何かが突き刺さった。

 まるでスローモーションかのように花がゆっくりと落ちてくる。


「また矢……!?」


 再び必死に前へ進もうとするが、体が自分の頭に付いてきていないのが分かった。

 必死に自身の体へ呼び掛けるが全く反応が返ってこない。


「動けっ、体動け……!!」


 重く鉛のようになった腕と恐怖で硬直する体が、全く言うことを聞かないのだ。

 更に加速する熱さと冷や汗でしたたり落ちる雫が、視界さえも奪い始めている。

 

 その時信じられない衝撃が左足に響き、言葉にならない程の叫び声を上げてしまった。


 口から内蔵が飛び出るような痛み、爆発しそうに脈打つ心臓、そして感覚のない左足に、今自分がどういう状況なのかを朦朧としながらでも想像出来た。


 叫び声を上げたせいなのか、多くの足音が段々とこちらへ近付いて来ているのが分かる。


 体力も残っておらず、激しい痛みや恐怖に、自分自身が呑み込まれそうになっていた。


「ごめんな、いおり……」



 ――あきらめかけた瞬間だった。



 暖かく、ほっとするような風が自分を纏った気がしたのだ。

 あの激痛が嘘のように軽減していく。


 それは、先程見たあの凛とした紫の花のがこのそよ風に乗り、疲弊しきったこの身体を優しく包み込むようだった。

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