第49話 既視感

 夜景。

 宝石箱の夜景。


 ぴっちぃの記憶の奥から、何か、もぞもぞと這い出てこようとしているものが・・・。


 それはいま眼下に広がるV茄子ビレッジのネオンの点滅と呼応するかのように、イメージのなかに顕われてきそうでまだ届かない、くすぐったいようなじれったいような、妙な感覚を伴うもの・・・。


〈ぼくはこの景色を、見たことがある。たぶん〉

 そう感じた。そして、それは大切な何かと関係している・・・ようにも思える。


 かっぱっぱもぺんも、ぴっちぃの様子がいつもと違うことにすぐ気がついた。

「ぴっちぃちゃんは何かを見つけたのだろうか?」

「いや違う。何か大切なことを思い出そうとしているみたいだ」


 もーには直感する。

〈ぴっちぃちゃんは私の知らないママを知ってるんだわ。私はママの命の一部だったけれど、ぴっちぃちゃんはママから魂を分け与えられたのではないかしら?〉

 自分よりぴっちぃのほうがママに近いところにいることを、ちょっぴり淋しく感じてしまうもーにちゃん・・・。

 小さい頃には片時ももーにを離さなかったママが、いつの間にかもーにを卒業し、いくつものピリオドを通過して、おとなになってしまったのだ。


 その夜はぴっちぃにもとうとう思い出せなかった。

 あの夜景をぴっちぃも見たことがあったような気もするのだが、V茄子ビレッジに来たのはたぶん今回が初めてだ。

 よく似た夜景をテレビか何かで見たことでもあるのだろうか?



 夜明け。


 V茄子ブリッジに立って村を見下ろすと、正面からやや左を向いたあたりが東の方角だ。

 寒々とした薄紫色の空がじんわり赤みを帯びはじめ、みるみる赤紫色に染まっていく。

 海面に朝日が反射しはじめた。青灰色の海面に細い金色の光がきらりきらり注がれ、金色の鏡面が広がっていく。



「・・・ママ。ママ、思い出したよ。あの時の夢だね」


 ぴっちぃは静かな心地で、思い出していた。

 大切なものをいとおしむように、壊さないように、汚さないように、とても静かな心地で。

「朝日に輝くこの海を、ぼくは見たことがある」


 かつてぴっちぃは確かに、それを見たことがある。目で見たのではない。五感を通したものではなく、それは魂のなかのスクリーンに直接投影されたような、内的な体験、しかも鮮明な映像を伴なう、夢のような体験だった。


 事実それは夢であった。ママの夢。〈将来の夢〉とかいう意味の夢ではなく、文字どおり眠っている間に見る夢だ。

 ママの見た夢がどういうわけかそのまま、ぴっちぃの魂のなかに映し出されたのだ。


 港の向こうの海を見つめて佇むぴっちぃに、もーにがそーっと近づき、肩にふんわり巻きついてきた。

 ぴっちぃはもーにの角を両手で包み、優しく撫でる。

 二人とも黙ったまま、遠くで眩しい輝きを広げながら明けていく金色の水面を見つめていた。

 やがてかっぱっぱとぺんとおっさんも目を覚まし、ぴっちぃともーにに寄り添う。


「海が光ってるね」

 ぺんが小さな丸いおめめをいっそうまん丸にして言う。

「うん」


「ぴっちぃちゃんは、何かを思い出したんだね?」

 かっぱっぱがぴっちぃの横顔を見上げて言う。

「うん」


 ぴっちぃは両脇にぺんとかっぱっぱを抱き寄せ、みんなはまたしばらく黙って港町と海を見下ろす。

 もーには角を広げ、ぺんとかっぱっぱと、それからおっさんもついでに包んであげている。

 ぴっちぃは自らも記憶を手繰るように、ゆっくりと、その出来事を語りはじめた。


「ママはね、夢を見たんだよ。十五歳のときだよ。カラーの夢だったんだ。その色彩はハンパじゃなくて、まさにフルカラーのすごいやつだった。それが、あの海だ。視点はちょうど、ここ」


 ママは十五歳のとき、カラーの夢を見た。ほんとに半端じゃない、息をのむほど鮮やかなフルカラーの夢。

 V茄子ビレッジの海は視界がよければ湾の向かい側の町も見えるのだけれど、天候によっては対岸は霞んで見えないときもある。あの夢はそんな場合のように、海がずっと彼方まで続いてるみたいだった。

 夢の中のママの視点は高台にあって、港を持つ細長い街を臨み、朝日が昇り始める寸前の海を見ている。

 太陽はまだ水平線の下にあり、その光だけが空へ放射され、光条の一本一本がそれぞれ赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、と、虹の七色を成している。

 朝焼け空の青紫から赤紫へのグラデーションはそのまま、ママの立つ地面の色と対応していた。


 あの夢の空には、太陽のほかにもうひとつの光源があった。

 鉛色の雲のかたまりの奥に隠されたもうひとつの光源から、神々しい金色の光線が幾筋か水面を差して垂れていた。

 その僅かに放射状をなす角度は、その光源が遥か遠くにあることを示している。しかし、なぜかその光源は、低く垂れ込める一塊の雲のすぐ後ろに存在しているような印象も与えるのだ。


「不思議な夢だね」

「もうひとつの光源から海面へ差す光線は、命綱だ」

「いのちづな・・・?」

「うん。今、そう思った。あの夢が何を象徴しているのかよくわからないけど、ママにとって、とてつもなく重要な作用を及ぼす夢だったような気がするんだ。そのときはぼくにもわからなかったし、当のママも気づいていないと思うけど」 

「いまここでぴっちぃちゃんが見ている光景を予知する夢だったのかしら?」

「予知夢だったというより、同じ状況なんだ。おそらく・・・」

「ママが十五歳のとき、何があったの?」


「今の状況と似ているよ。命の居場所がなかったんだ」

「・・・・・・」


 ママには命の居場所がない。

 この旅に出る前、ぴっちぃは、

〈ぼくは魂だけになってしまったけれど、ママのほうは魂が抜けてしまったみたいだ〉

 と思っていた。

 しかし、抜けてしまったのは魂だけではなかった。命のほうも彷徨いはじめていたのだ。


 いま、ママの実体には命の居場所すら消えてしまいそうになっている。

 実体と魂はあるのに命がないぬいぐるみと違って、ママは人間だから、実体のなかに居場所を見つけられない命と魂が、混乱しているのだ。

 それがDamin-Gutara-Syndromeの正体だ。


 あの夢を見た頃のママもそうだった。

 あの夢は、バラバラになりかけていた命と魂をひとつの心身に繋ぎ止めようとする、ママの無意識の奥底から届けられた救済のメッセージだったともいえる。

 自分の一部分をどこか幻想の世界の端っこに引っ掛けておくことで、現実の生をどうにかやり過ごす最後の動力を辛うじてキープしていたのが、十五歳のママだった。


 ママは実力もないくせに何でも引き受けて背負い込んでしまう。そして何もかも中途半端だ。自分では精一杯やってるつもりだが、全然追いついていないのだ。

 都合の良い時に利用はされるが、大して役に立っているわけではない。おにいちゃんたちの母親であることを除いて、それらはすべて、他の人でもできることだ。

 とんちんかんな義務感と要領の悪さ。こんな状態では魂は混乱してしまうし、第一、命がもたない。


 ぴっちぃの心のなかに、あの、ぴっちぃの不安や悲しみに同調して幾度となく顕われてきた〈無限大記号もどきの輪っか〉のヴィジョンが、これまでになく強烈に、迫ってくるように浮かぶ。

 焦点が絞られていくようにそれはみるみる輪郭を描き、遂に、くっきりと、顕われた。

 それから、無限大記号はタテになり、上の輪がきゅうっと絞られ、下の輪が雫型の形になった。

 おそらくママの魂からぴっちぃの魂へと投射されてきた、この輪っか。

 それは・・・


「ハンギング・ロープだ・・・」


 ぴっちぃはいたたまれない思いで、それでも逃げようとはせず、そのヴィジョンと対峙する。

 ネプチュン鳥島の海の神様から耳打ちされたとおり、目を逸らしてはならないのだ。


 いま、あの夢がもう一度、現実の光景としてぴっちぃに与えられた。ただし、決定的なものが欠けている。

 この現実の光景のなかに〈もうひとつの光源〉は、ない。ママの命と魂をひとつの実体に繋ぎ止める〈救済の命綱〉は、与えられていないのだ。


「ぼくが、それを創る」


 小さな一介のぬいぐるみに過ぎないぴっちぃちゃんが、ママの命綱の光を創る? 

 どうやって?

 みんなは一瞬、そんなの途方もないことだと思う。

 それでも、朝日を受けて輝くぴっちぃの横顔は凛として、それは決して悲壮な決意などではなかった。


「何をどうすればいいのか、まだなにも思いつかないけれど、なんだか、ぼくはそのために、この旅へと導かれてきたような気がする。ママの魂に命綱を掛けてあげるために。そうして、あのハンギング・ロープのヴィジョンを、ママの魂から追放するんだ」


 ぴっちぃには、選ばれて使命を与えられたぬいぐるみであることの歓びすら涌いてくるのだった。

 みんなにも、ぴっちぃちゃんになら本当にそれができるかもしれない、という予感もしてくる。


 みんなも、ぴっちぃのようにお口をきりりと結び、頷いた。

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