第30話 最後の花粉ミルク
〈海の神様、フォーチュンを助けてください。あの子は何も悪いことしていないのに。ああどうか、僕の命と引き換えでいいから、フォーチュンを助けて!〉
・・・あれは確か僕らが小学生の頃だ。
フォーチュンが高熱を出して学校を休み、父さんと母さんは仕事が忙しかったから、あの子はひとりで家で寝ていた。
僕が放課後の掃除当番を代わってもらって飛んで帰ると、布団の中で丸まって眠ってるフォーチュンの頬に、涙の跡が乾いて残っていた。
淋しくて泣いてたんだろうか? 苦しくて泣いてたんだろうか?
かわいそうに。ひとりぼっちで布団の中で泣いてたんだ。
僕がフォーチュンの熱いおでこを撫でていたら、フォーチュンが目を覚まして、『あ、おにいちゃん。おかえり』
って、かわいい声で言ってくれた。
あのときのフォーチュンの笑顔といったら・・・。
フォーチュンはあの頃のように僕の帰りを待ってくれてたのだろうか? こんな僕でもまだ信頼しているだろうか?
今度フォーチュンが目を覚まして、僕を見たらなんて言うだろう? あの時のように笑ってくれるだろうか・・・?
そしたら僕はこう言うんだ。
『目が覚めたかい? 気分はどう? 兄ちゃん帰ってきたよ。もう大丈夫だ、フォーチュン。ほら、おいしい花粉ミルクができたよ。これを飲んで早く元気になるんだよ』
って・・・。
そうさ。ここは海の神様の島だもの。きっと海の神様がフォーチュンを助けてくれるよ。
・・・ああなんて長い夜なんだろう!
ようやく夜明けの霧に蒸されて膨らんだ花粉を摘んで工場へ戻ると、社員食堂の調理員さんが徹夜で社長を待ってくれていた。
前日の夕方、社長が血相を変えて社屋から飛び出して行ったものだから、受付嬢はすぐさま、幹部社員にその旨を報告した。
幹部たちは、社長室の窓から退出しようとしていたぬいぐるみたちを呼び止めて事情を聞き、腹心の部下が村立病院へ駆けつけて、廊下で様子をうかがっていた。
社長が花粉ミルクを作るために外へ走り出ていくと、部下はすぐに調理員さんに電話をかけ、材料を用意しておくよう、頼んでおいたのだ。
調理員さんは、新鮮な乳脂肪分三・七%ミルクと、バーゲンで買いだめして保存してあった高級ビイル薔薇蜂蜜を準備し、社長が花粉を摘んでくるのを待っていた。
ミルクを鍋に入れて火にかけ、ゆっくりと温める。沸騰させてはいけない。ちょうどいい温度になったら、まず蜂蜜を加えてよく混ぜ、最後に摘みたての花粉をたっぷり、ふんわりとかぶせてから、ていねいにかき混ぜる。
子どもの頃のように、
〈フォーチュンの病気、治れ治れ〉
と一生懸命祈りながら・・・。
できあがった花粉ミルクを保温ポットに入れて、調理員さんに礼を言う。社屋の玄関には、部下が車のエンジンをかけて待機してくれていた。
「フォーチュン、兄ちゃんの特製花粉ミルクができたぞ! これで元気になるよ。さあ、もうすぐだ!」
ICUに駆け込むと、みんながベッドを取り囲んでいた。
父さんがアルチュンドリャの肩を抱いた。
「たったいま、息を引き取ったよ」
間に合わなかった。
最後に入院してからの数週間、フォーチュンドリャの凄絶な苦しみようを、胸の張り裂ける思いで見守ってきた父さんと母さんは、安らかな顔で永遠の眠りについたフォーチュンドリャに、
「苦しかったね、やっと解放されたね」
と声をかけてやるのが精一杯だった。
友人たちは鼻をすすり、嗚咽を洩らしながら、ただ黙ってフォーチュンの額や頬や肩をいとおしげに撫でている。
アルチュンドリャは保温ポットから花粉ミルクを吸飲みに取り、フォーチュンドリャの口に数滴入れてやった。
ひよこちゃんコップをふうふうしていたあのかわいい唇は、ひんやりと薄紫色に変わり、言いたかったかもしれない言葉も永遠に凍りつかせてしまった。
アルチュンドリャは、まだ体温の残る弟の体を抱き締めた。
みんなは静かに退室し、兄弟ふたりだけのお別れをさせてあげる。
ふたりの魂が呼び合う。
兄弟の魂の絆は、すでに互いに異次元となった世界から手を差し延べ合い、〈鏡の部屋〉の如き時空の境界で、虚像どうしが指先を触れ合う瞬間すり抜け合い、哀しみのオーラを発してふたりを包む。
そのオーラの中から、微かに煌めく一握りの粉塵が小さく渦を巻き、やがてそれが不可視の光線となって、廊下のぴっちぃのリュックに吸い込まれていった。
人間には誰にも見えなかったが、それは、海の神様から贈られたささやかなプレゼントだった。
一部始終をご覧になっていた海の神様は、ぬいぐるみたちにそっと教えてくれた。
「可哀想だがのう。寿命を操作することは我々にも許されていないんじゃよ。どんなにしても取り戻せないこともある。どんなにしても耐えなくてはならない悲しみというものもあるんじゃよ」
同時にぴっちぃの心に、あの〈輪っか〉のヴィジョンが、じわっと浮かぶ。
左右非対称な、無限大記号もどきの〈輪っか〉が、きらっと光り、ぴっちぃの心に何かを訴えてくるみたいだ。
〈まさか、これは死と関係があるのだろうか?〉
ぴっちぃの胸に、どうしようもない不安が押し寄せてくる。
海の神様は、
「追伸」
と、ぴっちぃの耳元でひそひそ付け加えた。
「おまえさんのその〈輪っか〉はの、ある特定の心理内容に反応して顕われるメタフォリカルな記号じゃよ。その発生のメカニズムは因果律によらず、複合的で、主体も単独ではない。旅行中では滅多に顕われては来ないじゃろうが、いずれ直視しなくてはならない時がくる。逃げちゃいかんよ」
「へ?」
わけわかんないよー。
ぴっちぃの不安をさらに混乱させてしまった海の神様。
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