第29話 祈る(2)

 兄弟がまだ幼かったある日の朝、母親は、

『今日は久しぶりに早く帰れるかもしれないわ』

 と言いおいて出勤して行った。

 兄弟は、明るいうちに母さんが帰ってくるのが嬉しくて、その日は一日じゅうわくわくしていた。


 アルチュンドリャはいつもより早めにフォーチュンドリャを保育所へ迎えに行き、ふたりで家を掃除して母さんの帰りを待つ。


 その日の夕焼け空はいちだんと素晴らしく見えた。

〈海の神様が今日はぼくたちを祝福してくれてるみたいだ。今日は母さんと一緒にお風呂に入ろう。お手伝いも頑張るぞ〉


 しかし、空のばら色が薄紫色に変わりはじめても母さんは帰ってこない。

〈おかしいな。母さん大丈夫かな?〉


 ふたりは母を迎えに出ることにした。

 日も沈み、美しい夕焼けは東のほうから青黒い闇にだんだんと追われて消えていく。そんな空の下を、幼いふたりは手をつないでバス停へ向かう。

 家の中にいてもいつも心細かったが、外にいるとますます心細い。


 ネプチュン鳥たちもビイル薔薇畑の巣に帰り、バス停へ続く小道には人っこひとりいない。

 世界のなかにふたりだけがぽつんと置き去りにされたような心地だった。

 広い広い空と、どこまでも続く海。絶海の孤島に小さな兄弟ふたり・・・。


 ビイル薔薇の匂いだけがわずかに心を慰めてくれる。

 兄の手をぎゅうっと握りしめる弟に、アルチュンドリャは自分にも言い聞かせるように言った。

『ここは海の神様の島だからね。きっと海の神様が母さんを守ってくれるよ。ぼくたちのことも見守ってくれているんだよ』


 ほんとは兄ちゃんも泣きたいくらい不安なのだ。


 すっかり暗くなったバス停で、ふたりはずっと手をつないだまま、母を待った。

 とうとう最終便まで見送ったが母は降りてこなかった。


 とぼとぼと帰る道はいっそう真っ暗で怖くて長い。

 幼いふたりは、お互いを守り合うようにしっかりと手をつなぎ、母さんの無事を祈りながら必死に涙をこらえ、来た道を引き返す。


 家に帰ると、母さんはもう帰ってきていた。予定外の仕事が入って遅くなったので、車で送ってもらい、近道をして帰り着いていたらしい。

『こんな遅くまでどこで遊んでたの?』

 と叱られた。

 父さんも帰宅して母さんから話を聞くと、

『夜遊びしちゃいかんぞ』

 とだけ言い、さっさと風呂に入って、バタンと寝てしまった。

 それ以上何も訊かれなかったことが悲しい。

 ぽろりと涙をこぼした弟を、アルチュンドリャはそっと抱き締めた。



 村立病院のICUに飛び込んできたアルチュンドリャの姿に驚いて立ち上がった父親が、

「アルチュン! 大丈夫か?」

 と言った。

〈大丈夫かって、誰がだよ? フォーチュンは危篤じゃないか。父さん母さんだって、すっかり老け込んじゃってるじゃないか。ひょっとして僕のことを大丈夫かときいているのか?〉


 バラ中患者は肝臓がイカれているから、荒れた肌と、焦点の合わないどんより曇った目をしている。

 父親は、十数年ぶりに目の前に現われたアルチュンドリャの変わり果てた姿に、思わず〈大丈夫か〉という言葉が出てしまったのだ。


 母親はアルチュンドリャの手を取り、フォーチュンドリャの手を握らせた。母の手もすっかりやつれている。弟の手はもっとガリガリに痩せこけている。

 家を出た時、自分に差し延べられ、受け止めることができなかった弟の手。


 生気の失せた青白いフォーチュンドリャの頬に自分の頬をすり寄せながら、アルチュンドリャはかける言葉もなかった。

 ただひたすらフォーチュンの顔や手や体をさすり、ようやく声を絞り出す。

「フォーチュン、起きろ。兄ちゃんだよ」


 ぴっちぃたちもドクターにお願いしてICUに入れてもらった。フォーチュンドリャの友人たち数人も呼ばれて駆けつけていた。

 もーにはフォーチュンの足首をさすって暖めてあげた。ぬいぐるみたちは湯たんぽ代わりに足元に添い寝をし、ヒナちゃんは急いで摘んできたいい香りのビイル薔薇の花束を花瓶に生けた。



 何時間も弟の手を握り締め、体をさすり続けるアルチュンドリャに、母親が声をかけた。

「意識がなくなるまえ、『兄さんの花粉ミルク』って言おうとしていたわ」


 アルチュンドリャは思い出した。

 病気のとき、僕の作った花粉ミルクを飲んでにこっと笑ってくれたフォーチュン。そうだ!


「母さん、フォーチュンを頼むよ。フォーチュン、待ってて。兄ちゃんの特製花粉ミルクを作ってくるよ!」

 そう言うと、もつれる足で飛び出して行く。


 アルチュンドリャの作る花粉ミルクの秘密は、明け方に摘む花粉だ。

 昼間、ネプチュン鳥島の柔らかな陽を適度に浴びたビイル薔薇が、夜になってぐっすり眠る。そして明け方のひときわ濃い霧のスチーム効果でふんわりと膨らんだ花粉のつぶが、一日のうちで一番おいしくて栄養のある花粉になるのだ。

 この時に摘んだ花粉で作る花粉ミルクが、とびきりおいしい兄ちゃんの花粉ミルクだ。


アルチュンドリャは自社が管理する最高級品質のビイル薔薇農場へ走り、最高の花粉を摘むために夜明けを待った。

 待ちながら、奇跡を祈る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る