第25話 ビイル薔薇中毒の悲劇
ビイル薔薇プラントのおかげで、心も経済も潤っているはずのネプチュン鳥島人社会だが、ぴっちぃたちには、あまりそんなふうには見えなかった。
島の人々はそんなに楽しそうに仲良くやってるようにも見えないし、そんなに豊かな様子でもなさそうだ。
ネプチュン鳥と違って人民のほうは、楽園の住人にしてはちょっと暗いのだ。
実は、ビイル薔薇には致命的な落とし穴が・・・。
〈飲用厳禁〉
すなわち、ビイル薔薇の花の精油は、香りを楽しむためだけに使用しなければならない。肌につけるのも少量なら大丈夫だ。
しかし誤って飲んでしまったりすると、頭痛・嘔吐に始まり、幻覚や幻聴といった症状をともなう強い副作用が現われる。
しかも厄介なことに、中毒を起こした場合、これらの辛い副作用を補って余りあるほどの擬似快楽感覚、それに禁断症状、常習性といった麻薬作用も引き起こす。
最後には肝硬変、人格崩壊。こわいのだ。
だからネプチュン鳥は、花びらだけは食べない。
この事実をぴっちぃたちに教えてくれたのは、観光案内マップをもらいに立ち寄った村役場の人だ。
この島では観光客誘致はしていない。だから観光マップなんて作成していないのだが、役場の窓口のおねえさんは、ぴっちぃたちを応接室へ案内し、お茶とおまんじゅうを出してくれた。
そして応対してくださったのは、環境部アロマ課長のフレグリャさん。島の現状をいろいろ教えてもらった。
ビイル薔薇精油誤飲の危険性については古くから知られていたが、麻薬作用についてはここ十数年の間に明らかになってきたばかりだ。
度胸試しにビイル薔薇精油を口に入れてみようという若者たちが出てきたのだ。
炭酸水で割って飲んでみたら『結構いけるじゃん』ってことで、ビイル薔薇精油のソーダ割りが流行りだす。
親に隠れて飲んだり、遊びの罰ゲームに使ったり、コンパでふざけてイッキ飲みしたりさせたりと、イカレた野郎が増えてしまった。
若者たちの間にビイル薔薇中毒が蔓延しはじめ、学校も荒れている、とフレグリャさんは頭を抱えておられる。
こんな若者たちのカリスマとして君臨するのが、アルチュンドリャという青年だ。
彼はこの島で最初に、ビイル薔薇精油のソーダ割りを考案し、副作用が現われる前にへべれけに酔っ払うほど飲んでおけば頭痛や吐き気をさほど感じずに済むことを発見した奴だ。みんながそういう飲み方を真似するようになる。
ちょうど十年前、村営のビイル薔薇プラントの民営化が村議会で議決され、民間から経営責任者を公募した際、アルチュンドリャが社長に選ばれた。
一番うまいビイル薔薇ソーダ割りカクテルのレシピを知っていたアルチュンドリャが、当時の村長を料亭に招いてこれを飲ませ、土産にも持たせて、取引が成立したのだ。贈収賄である。
アルチュンドリャは若くしてビイル薔薇精油製造株式会社の社長に就任。
この島はもともとは、みんな仲良く楽しくやってる平和な共同体だったから、危機管理体制が全然整備されていない。
いちおう村の条例とかはあるけれども、罰則まで作るのを忘れていた。違反なんて想定外だったのだ。
ビイル薔薇規制法なんてのも、ない。
面倒見の良いアルチュンドリャ社長の周りには、毎週末になるとビイル薔薇精油中毒仲間、略してバラ中仲間が集うようになる。
彼らは、製品の製造過程ではじかれた基準値未満の品質のものなど、本来廃棄処分するはずの粗悪精油を炭酸水で割って飲んだ。
そのうちに社内の真面目な工場労働者の間にもバラ中が広がり、家庭生活にまで影響を及ぼすようになっているのだ。
父ちゃんがバラ中、っていう子どもも少なくない。母ちゃんがキッチンバラドリンカーになってしまった子もいる。
収賄側の村長は、それから一年も経たないうちに急性肝炎に罹って辞職。
次の村長には、ネプチュン鳥島村立小学校の元校長、ポセドンさんが信任投票により選出された。
アルチュンドリャは、実はポセドンさんに頭が上がらない。小学生の頃、大変お世話になっていたからである。
アルチュンドリャの家は、両親が共働きで、毎日朝早くから夜遅くまで仕事に出ていた。
島には学童保育の制度もないから、アルチュンドリャは放課後、独り教室に残って宿題をし、他学年の鍵っ子仲間と共に校庭で遊んで帰った。
夕方には弟を保育所へ迎えに行き、兄弟二人で晩ごはんを食べて風呂に入り、弟に絵本を読んでやって寝る。
両親は朝もばたばたと出かける支度をしながら、子どもたちと最低限の事務連絡程度の会話をして、慌ただしく出勤して行く。
家の鍵を閉めて、弟を保育所へ送ってから、アルチュンドリャも登校するのだった。
秋の遠足の日のことだ。
村立小学校では、遠足といえば毎回、ビイル薔薇畑へピクニックに出かけると相場が決まっていた。
子どもたちにとっては、島じゅうのビイル薔薇畑がじぶんちの庭みたいなもんだし、毎日のようにビイル薔薇畑で遊んでいるから、わざわざ学校から遠足に行ってもしょうがないのだが、他に行くところもないのでわざわざピクニックに行くのだ。
アルチュンドリャはお弁当を持ってきてなかった。
遠足に行くのはわかっていたけれど、保護者宛てのプリントを親に見せていない。
〈遠足の日は給食がありませんのでお弁当を持たせてください〉と書いてあるプリントを、仕事で疲れている母親に渡すことができなかったのだ。
アルチュンドリャが水筒ひとつぶら下げて歩いている姿を見たポセドン先生は、お昼の休憩時間になると、こっそりアルチュンドリャを呼んで自分のレジャーシートに一緒に座らせ、自分のお弁当を分けて食べさせた。
先生は、アルチュンドリャの家庭の事情がわかっていたから、こんなこともあろうかと思い、いつもより早起きして、おにぎりをたくさん握って持ってきていた。
奥さんには、
『弁当忘れてくるうっかり者が一人くらい居るかも知れんからな。ははは』
とか言って軽くごまかし、お箸と取り皿も二人分用意した。本当はアルチュンドリャのことを気にかけていたのだ。
先生はべつに、
『弁当忘れたのか』
とか聞くわけでもなく、他愛のない話などしながら普通に、それでも暖かく、アルチュンドリャに接してくれる。
家庭の事情が原因で、集団生活のなかで淋しい思いをしなくて済むよう、先生はひとりひとりの生徒の尊厳を大切にしてくれていた。
アルチュンドリャは、民営化によって村から引き継いだビイル薔薇プラント経営にあたり、世話になったポセドン先生を裏切ってはいけないからと、精油の品質管理だけはきちんとやって、村に事業税をがっぽり納めることができていたものの、バラ中のほうは自分の意志の力ではもうどうにもならなくなっていた。
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