第15話 裏の巣の鳥
翌年の初夏。
あの匂いの一件をたまに思い出すことはあったが、あれ以来あの匂いが顕われたことはなかったし、ドワフプルトの静かな冬が過ぎ、春が来て進級したアレーテイアは、ほとんどそのことを忘れかけていた。
この年、彼女に初めて訪れたもの・・・。
アレーテイアの身体に、女の子のしるしがやってきた。
彼女の母親は、中学生になってもまだ初潮がこない娘のことを心配し、いちど診てもらったほうがいいだろうかと考えていた。
そこへ、ようやくやってきた。
母親は喜んでさっそくお赤飯を炊いてくれたが、弟は訳がわかっていない。
「母ちゃん、なんで今日は赤飯なの? 夏至の祭りは来月だよ」
などと言っていた。
アレーテイアは、自分自身の身体の変化に戸惑っている。
胸がふくらみ始めた頃から、なんだか自分のなかに、人に見せてはいけない秘密が芽生えてきたような気がして、その秘密を抱えて生きる人生がなかなか想像できなくて、素直に受け入れることができなかった。
女の子にはいつかはやってくるもの、と頭ではわかっていても、いざ自分の番となると、できれば避けて通りたいような、ちょっと重たい気分になってしまうのだ。
それでも、同級生の女子たちが次々とおとなの仲間入りを果たしていくなかで、ひとり取り残されたような思いをしていたことも事実だった。
新緑が眩しいカロンの樹上をふと見上げると、あの不思議な匂い。
去年の秋、弟と一緒に捜索して何も見つからなかった場所に、アレーテイアはとうとう見つけた。
うっすらと虹色の光を放つ、半透明の、鳥の巣。
「もしかして、あれが〈裏の巣〉?」
両親から話には聞いていたものの、実際に見たことはなかった。
〈裏の巣〉の大きさや形や色についての証言は両親の間でも食い違う。
両親のほうも、いつもそれをじっと見ながら暮らしているわけでもないし、見かけるたびに色が違うときもあるし、たいして気にかけてもいないのだ。
「あの匂いは裏の巣の匂いだったのかな?」
さっそくアレーテイアは、今度もまた最速到達コースをたどり、そこへ登っていった。
たしかにあの匂いがする。けれど、巣そのものの匂いではなさそうだ。この巣にいた鳥の匂いだろうか?
裏の巣のある枝から太い幹をはさんで斜向かいの枝に腰かけ、アレーテイアは半透明の綿菓子のような鳥の巣を何時間も眺めていた。
その間にも、匂いが濃くなったり薄くなったりしているのがわかった。まるで巣の中で何かが長い周期で呼吸しているみたいだ。
初めて目にすることができた裏の巣。
その位置を記録するために、アレーテイアは油性マジックで枝に目印をつけておいた。
巣をはさんで両脇に二つの×印、幹からその枝へ向かう分岐点に矢印ひとつ。
やがてある日、ついに〈鳥〉の姿を見かけた。
あの匂いが空中からカロンへ向かっていた。
そしてアレーテイアは、見たことのない半透明の二羽の鳥がカロンの枝に止まるのを見たのだ。
あの匂いは紛れもなく〈鳥〉の匂いだった。
バラ科の花の精油らしき芳香が、今度こそはっきりと、裏の巣へ吸い込まれていくのがわかった。
透き通った鳥は、全体が薄いばら色、くちばしの上部あたりがひときわ鮮やかなばら色をしている。
おそらく、もし自分がこれまで〈鳥〉の姿を予想していたならば、きっとこの通りだったであろうと思えるくらい、匂いのイメージと合致した姿だ。
〈まるでバラの花畑の中から飛び立って、カロンまで旅をしてきた鳥のようだ〉
そう感じたアレーテイアは、名前も知らないその鳥を、
『バラの花の精さん』
と秘かに呼んだ。
その日から、二羽の〈バラの花の精さん〉の行動と裏の巣の変化を観察するのが彼女の日課になった。
巣の中に卵を見つけたのは、さらに数日後の早朝のことだ。
その朝、カロンの木は青白い朝霧にふんわりと包まれ、緩やかに天から注がれる薄い光を浴びると、呼吸する虹色のベールに覆われた裏の巣が、緑深い葉っぱの隙間から透けて見えるのだった。
〈バラの花の精さん〉の匂いとカロンの匂いが、マーブル模様のごとくアレーテイアを取り巻いた。
空の波動と土の波動がここで同調している。
一つの卵が産まれた。
七色の綿菓子の裏の巣。
小さな命を入れた卵を包む。
アレーテイアにも、命を包む周期がもたらされた。
つがいの〈バラの花の精さん〉は、交代で昼も夜も卵を抱き続け、やがてその時がきた。
一羽のヒナが孵った。
濡れた小さな羽をたどたどしく動かすヒナ鳥は、まだかたく目を閉じ、頭を傾げて巣の底に押し当てている。
巣の奥に絡まるように沈んだ虹色の光源から、何か尊い託宣を授けられているかのようだ。
無防備で小さな新しい命が、天地の交わるカロンの樹上で産まれた。
おとなになるということは、命を託されるという意味なのだと、アレーテイアは思った。
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