液体人間降臨
江崎先輩、逃げるならせめて杉本さんも一緒に連れて行ってほしかった。
だけど今さらどうしようもなく、そうこうしていると炎を閉じ込めた雪の塊がドロンと溶けて、中からウバさんが姿を現した。
「はぁっ、はぁっ、酷い目にあった。千冬ちゃん、あんまりじゃないか。これがか弱い年寄りにすることかい?」
「ごめんなさい。けどこうでもしないと、杉本さんのことを襲っていましたよね?」
「当たり前だろう。その女は、あたしから涼真くんを盗ったドロボウ猫なんだよ。って、涼真くんはどこ? あんたら、隠したのかい!?」
いいえ、一人でさっさと逃げちゃったんです。
すると杉本さんはガシガシと頭をかきながら、怒ったようにウバさんに言う。
「もうこれ以上付き合ってられないわ。あんな腰抜け、欲しかったら熨斗つけてくれてやるわよ!」
え、いいの?
まあ、気持ちはわかるかな。あんな風に見捨てられたら、百年の恋も冷めちゃうよね。
きっと今の杉本さんの心は、私の起こす吹雪よりもずっと冷え冷えに違いない。
けどこれなら、ウバさんも落ち着いてくれるはず。と思ったら。
「腰抜け、腰抜けだって!? よくも涼真くんの事を悪く言ってくれたね。悪い子には、熱いお灸をすえやるよ」
ダメだったー!
そんな、せっかく先輩のことを手放してくれたのに、これでも解決しないだなんて。
するとウバさん、「カーッ!」と声をあげたかと思うと、部屋のあちこちに火柱が立ち上った。
きゃーっ! か、火事になるー!
「ひぃぃぃっ! こいつ、本気であたしを殺すつもり!?」
「杉本さん落ち着いて。火はすぐに消しますから!」
私はありったけの力を使って吹雪を起こした。けどダメ。
多少燃え広がるのは抑えているけど、完全には消えてくれなかった。
それにメチャクチャ熱くて、私ももう限界寸前。今にも溶けちゃいそう。
「ウ、ウバさん。もうやめてください。こんな事をしたって、江崎先輩は振り向いてはくれませんよ」
「どうしても邪魔をするのかい? だったらもう容赦しないよ。可哀想だけど、千冬ちゃんから先に黙らせるとしよう」
「えっ?」
思わず固まったのは、ほんの一瞬。次の瞬間にはウバさんの前に巨大な火の玉が出現し、それを見て愕然とする。
マズイ、あれをぶつけてくる気だ。に、逃げなきゃ……あ、あれ?
歩き出そうとした拍子に、くらっと大きくよろけた。
いけない、自分で思っていた以上に、熱によるダメージは深刻だったみたい。直接炎をぶつけられたわけじゃないけど、ウバさんの熱が体力を奪って。立っているのもやっとになってd、足が言うことを聞いてくれないのだ。
そして、ウバさんはそんな私を待っててはくれなかった。
火の玉が放たれた矢のように、こっちに向かって真っ直ぐ飛んできた。
「食らいなー!」
「綾瀬さん!?」
ウバさんと杉本さんの叫びが聞こえるも、やっぱり体が動かない。あ、これは本格的にマズイかも。
元気でいるうちに、岡留くんともう一回くらいデートしたかったなあ。
迫り来る火の玉を前に、そんなことを思ったその時。
ドンッ!
(―—えっ!?)
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
火の玉がぶつかる直前、何かが横からぶつかってきたかと思うと、私は大きく弾き飛んで床へと転がった。
だけど身に起こった出来事を理解するのに、そう時間はかからなかった。
だって仰向けに倒れた私の目の前には、覆い被さるように覗き込む、岡留くんの顔があったのだから。
「無事か、綾瀬!」
「お、岡留くん!?」
いつものクールな様子とは違う心配そうな岡留くんの顔が、目の前にある。
そうか。きっと彼が私を火の玉から助けてくれたんだけけど、一つ疑問がある。
「岡留くん、何でここに?」
「部室に行こうとしてたら、半泣きで地面を這っている、あのユーチューバーの先輩と遭遇したんだ。それだけだったら、別にどうでもよかったんだけど」
どうでもいいの?
普通なら、すっごく気になっておかしくないシチュエーションだと思うんだけど。
「先輩、燃えるおばあさんのオバケと、雪女が出たってわめいていたから、綾瀬が関係してるのかと思って。気になって探してたら、この部屋の中から煙が上がっているのが見えてたんだ。けどいったい、どういう状況なんだ? あれって、この前会ったウバさんだよな?」
岡留くんは顔をしかめながら、頭だけウバさんの方を向いて。だけどすぐにハッとしたように、私へと戻してくる。
「そうだ、綾瀬は平気なのか!? さっき腰を打ったり、火傷したりしてないか? 顔が真っ赤だけど、気分はどうだ!」
ゾッとしたように、心配そうに聞いてくる岡留くん。だけど、平気なはずがない。
だってこうしている間にも、部屋の温度はどんどん上がってきているんだもの。
それとね。もうひとつ問題なのが、この体制。
倒れている私に、岡留くんが覆い被さっているけど、息がかかるくらいに顔が近くて。別の意味で心臓がバクバクしてくるし、頭からは湯気が出そうになってしまっている。
ああ、こんな状況なのに、岡留くんを意識してドキドキしてしまう自分が恥ずかしい。
同時に、燃え上がる炎で倒れ込んでいる床もだんだんと熱せられてきて、もう限界寸前。少しでも気を抜いたら、すぐに溶けちゃうよ。
すると、そんな私達を見てウバさんが言ってくる。
「あんた、この前会った男の子だね。千冬ちゃんを連れて出て行ってくれたら、これ以上あんたらに危害は加えないよ。あたしが用があるのは、そっちの小娘なんだから」
「ひぃっ!」
鋭い目でギロリと睨まれて、悲鳴を上げる杉本さん。
だけど、そんなことはさせない。杉本さんとは色々と嫌なことがあったけど、ここで逃げてしまったら、私は自分の事を許せなくなるもの。だから絶対に、見捨てたりしない!
「岡留くん、杉本さんを連れて逃げて!」
「待て。それじゃあ綾瀬はどうするんだ」
「分からないけど、残らなきゃ。だって火を抑えられるのは、私だけなんだもの。ウバさんも私が説得するから、杉本さんも早く立って!」
私の言葉に、杉本さんはハッとしたように立ち上がったけど、そのまま逃げてくれるかと言うとそうではなかった。
部室の入り口に目をやりはしたものの、すぐに私に視線を戻して、躊躇するように「でも」と口をモゴモゴさせている。
杉本さんは意地悪はしてきても、この状況で私を見捨てて逃げられるほど、非情にはなれないみたい。
無理もないか。こんな風に言われても迷わず逃げられる人なんて、そうそういないもの。
そう考えると、一人でさっさと逃げてしまった江崎先輩はある意味すごいけど、今はその事はおいておこう。
そうだ、岡留くん。まだ彼がいた。
お願い、杉本さんを連れて行って。けど彼は辛そうに奥歯を噛み締めながら、声を絞り出す。
「行けるわけわけ、ないだろ」
次の瞬間、彼の力強い手が腕を引っ張ってきて。身体を起こされた私は、そのまま抱き寄せられる。
「逃げろなんて簡単に言うな。もしも立場が逆だったら、綾瀬は言う通りにしてるのかよ!」
厚い胸板に、顔を埋めるように抱き締められる。
こんな風に言われると、返す言葉がない。私だってきっと岡留くんの事を見捨てるなんて、できなかったに違いないもの。
だけど、本当に余裕がないの。こうしている間にも、ウバさんが攻撃を仕掛けてきて……。
「ああ、ラブラブじゃのう。あたしも涼真くんに、こんなこと言われてみたいわ」
仕掛けてこなかった!
何故か私達を見て、うっとりしちゃってる。自分で追い込んでおいて、何言ってるのウバさん!
すると背中に回されている岡留くんの手に力が入って、さらに強く抱き寄せてくる。
「綾瀬が残るなら、俺も残る。放って行くなんて、できるわけないだろ」
切な気な、訴えかけてくるような声と、胸板から伝わってくる熱で、ただでさえ高鳴っていた心臓が更にバグバグしてくる。
わ、分かった。分かったから今は放して。このままだと熱くなりすぎて本当に溶けちゃう!
「絶対に見捨てたりなんかしない。綾瀬は、俺が好きな女の子だから!」
………………ボンッ!
その一言がトドメだった。
フル稼働していた心臓か、それとも沸騰寸前だった頭か。そのどっちかが、音を立てて爆発したような気がして。
瞬間、私の体はまるでソフトクリームのように、ドロンと溶け出した。
「きゃあああっ! も、もう限界ですー!」
「なっ!? 綾瀬ーっ!?」
絶叫が響く中、私は見る見るうちに溶けていって。雪女ならぬ液体人間になってしまったのだった。
岡留くん、ドキドキさせすぎだよ。
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